第110話・後がない者と銭の話
side:水口盛里
「その方は三河へ行け。織田家と久遠家に役立つ話を集めよ。裏切りは許さぬが、真面目に働くならば成果に係わらず報酬は出す。これが我らの掟だ」
「はっ!」
所領を失い類縁を頼り、近江の長束村で暮らしておった某が、まさか尾張に来ることになるとはな。
最初は所領を取り戻すべく意気込んでみたはいいものの、失った所領を取り戻せるほどの才覚も武勇もない。
一人また一人と長年仕えた者を失い、残されたのはこんな某に付いてきてくれた妻と、先代から仕えてくれた年老いた小者とその妻のみ。
そんな折、聞いた噂に某は賭けるしかなかった。
尾張に行った滝川一族が武士として出世したと。甲賀の者を集め、忍び働きをする者を雇っておると。
城を落とされ所領を失った某など、忍び働きとて誰も使いたがらないが、尾張ならばあるいはと考えるしかなかった。
妻と小者とその妻と四人で尾張に来て、藁にもすがる思いで頭を下げた某を八郎様は受け入れてくれた。
路銀も底を尽きかけていて、駄目ならば賊に成り下がるか命を断つしかない某たちを。働く前から温かい食事と寝床を用意してくれた情けと恩は決して忘れぬ。
初任務は三河の調査だ。特定の相手でないのは試されておるからであろう。小者の六助と二人で旅の行商人に扮して、那古野を発ち三河に向かう。
商いの荷を用意してくれたのは有りがたい。普通は全て自分で用意するのだがな。荷は薬と塩と小さな魚を干した物だ。
「すまぬな。六助。そなたの歳になっても、このような旅に付き合わせて」
「何をおっしゃいますか。何処までも付いていきますぞ!」
「目的がないと逆に難しいな。いかなることを調べればよいのやら」
「恐らく岡崎などには別の者が入っておるでしょう。我らは要衝の地を避けあまり重要ではない場所に行きましょうぞ」
「ふむ。戦にならば使えずとも商いになら役に立つな」
「久遠様は商いをされておられます。三河の細かな話は、必ずや商いでお役に立ちましょう」
妻と六助の妻を置いていくのは不安だが、連れてはいけぬ。人質なのだからな。だが同じように近江から来た者の話では、男衆がおらぬ間も食うには困らんという。
そればかりか女衆は滝川家で、読み書きを教わるのが習わしのようだ。読み書きができる者には、仕事を世話してくれるのだという。
仕事は八郎様の家での下働きから、久遠様の所領や代官を勤める場所での仕事など、いろいろあるらしい。
女衆の纏め役をしておられたのは八郎様の奥方様だ。心配は要らぬから役目を果たすように言われた。
「仏の弾正忠様か。信じられぬな。銭のない者まで流行り病が治るまで面倒をみたなど」
「どうやら事実のようで。おかげで尾張では弾正忠様の悪口を口にする下々の者はまずおりませぬ。それは実際に差配して病人を治療した久遠様も同じです」
三河は戦続きで閉鎖的な土地柄故に、気を付けるように言われた。
織田様の領地はまだいいが、その先は駿河の今川家の領地だと言う。しかも西三河は独立心の強い松平家がおって、織田様と今川家の狭間に喘いでおると。
さていかなる土地やら。忍び働きで他国に行った経験はあるが、畿内から出たのは初めてだからな。
気を引き締めねば。
side:久遠一馬
「
「尾張はまだいい方です」
ウチの品物の影響で、尾張は伊勢湾から東は東海や関東、北は美濃や近江にまで販路を広げつつある。
銀や銅を筆頭に、米や雑穀に様々な品が集まるのはいい。問題は戦国時代でお馴染み、鐚銭と悪銭まで尾張に集まることか。
それはウチや織田家も例外じゃない。せっせと良銭作っても鐚銭がたくさん集まっちゃう。
「悪銭の原因は明です。海禁の影響もあり日ノ本に流れてくる銅銭は、質の悪い私鋳銭が多いのです。あと国内の私鋳銭も質がよくありませんから」
この日オレとエルは、信長さんと政秀さんと共に清洲の信秀さんのところで銅銭の問題を話していた。
尾張の一部の商人が領外の商人に対して、鐚銭や悪銭の受け取りを拒否することが、すでに起こってるんだ。
いわゆる力関係が強い尾張が拒否してることになる。金色酒を筆頭にウチの品物は他では手に入らないか、入りにくい物が多いからね。
現在もオレたちは尾張に集まる銅塊の大半を船で島に運び、金銀の抽出と銅銭の鋳造をして尾張に戻してる。工業村でもそれらは始まったけど、現状では職人の数の問題もあって銭の鋳造量は少ない。
市場に流す時には一定の鐚銭と悪銭を混ぜて放出してるが、尾張領外からはそれ以上の鐚銭や悪銭が集まる。商人たちが拒否する気持ちはよく分かるね。
「今のところ問題あるまい?」
「幕府が過去に撰銭を何度か禁じておるはずですな。あまりやり過ぎると、幕府から文句が来るかと」
この問題は意外に根が深い。質が悪い銅銭を駆逐するには日本全体を考えて良質な銅銭が必要になる。
だけど室町幕府は明から入ってくる悪銭を、率先して使ってた形跡すら元の世界では指摘されていた。
この時代の明は大国で先進国だけど、密貿易をする商人にモラルなんてあるわけないしね。銅銭も作れなければ生糸も作れない蛮族相手に、質より儲けを優先しても不思議じゃない。
まあ中華は数百年経ってもあまり変わらないけど。
誰かが儲けを企んだというよりは、悪銭しかないから使わざるを得なかったんだと思いたいけどね。
「エル。策はないのか?」
「申し訳ありません。現状の私たちでは、根本的な解決は難しいとしか申せません。元々貨幣の問題は、朝廷や幕府が扱うような日ノ本全体の問題でございます。策が有るには有るのですが、現状で敵を増やすような策は望ましくありません。商人の撰銭を見てみぬふりをしつつ、他所からの追及をかわすのが無難かと」
正直信秀さんも信長さんも、撰銭の問題はあまりピンと来ないらしい。信秀さんは単刀直入にエルに策を求めたけど、エルですら現状の織田家では抜本的な対策は難しいらしい。
まあ織田家も尾張も立場が強いからね。鐚銭と悪銭を拒否してもあまり影響はない。
経済の流通を考えると明らかにマイナスだけど、価値の低い鐚銭や悪銭を受け入れてやる義理もないか。
「ただ領民との小額の取引には、鐚銭や悪銭も受けとるようにした方がよいでしょう」
「そうだな。五郎左衛門。商人にそのように言うておけ」
現状だと領民の鐚銭と悪銭を使えるようにするので、十分らしい。領外の商人にそこまで気を使う必要もないしね。
なんか他国との取引は物々交換が増えそうな予感。
でもこの方針は領地が広がれば無理だよね。なんか楽市楽座と逆行してるけど、金色酒・絹・木綿・硝石などの誰もが欲しがる物を持つ立場の強さが原因だろう。
経済格差とそこから来る生活水準や国力の差は、確実に広がるね。
いろいろ気を付けないと、敵を増やしたりしそうだ。
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