第111話・衛生指導と文官不足

side:久遠一馬


 ウチの屋敷には毎日それなりの数の患者が来る。


 工業村や牧場の工事現場での治療や流行り病の治療で、ウチの治療が優れてると理解した人が多いのだろう。


 往診は勝家さんのような、ある程度地位のある弾正忠家の家臣にしかやってない。


 治療費はこちらから催促はしないが、ほとんどの武家や商家からは一般的な医者の治療費と同程度か、少し安いくらいをもらっている。


 相手にもプライドがあるからね。治療が長引く場合や残念ながら治る見込みのない場合は相談して決めるが、後は普通に払ってくれてる。


 勝家さんからも何度か往診した時に、相手から払うと言ったから治療費を貰ってるんだよね。


 とはいえ数多ある病気を、全て治してるわけじゃない。ケティたちが密かにナノマシン治療で治してる場合もそれなりにあるが、外科的治療は今のところほとんどしてない。


 助かる命は助けたいし、他の分野に比べれば自重してないけど、限度があるからね。もどかしいというのが本音だろう。


 正直この時代だと医者よりも、坊主の祈祷の方が身近な存在だ。医者は居なくても、坊主はちょっとした村にも居たりする。


 体調が悪くてウチに来た人も、同時に祈祷もしてるなんて人がほとんどだ。患者からすると治ったのが、祈祷のおかげなのか薬のおかげなのか分からない。


 ケティたちはどうも勝手にナノマシンで治療して、栄養剤的な薬を出してしまうみたい。


 薬では治らない病が奇跡的に治っても、祈祷のおかげで説明がつく時代なんだよね。いい意味で戦国時代の人の価値観に合わせてるようだ。


 ああ、弾正忠家領外の往診は全て断っている。流行り病の影響だろうが、ウチにも信秀さんのとこにも領外から往診に来てほしいと依頼が来ている。


 信秀さんのとこに来るのはそれなりの立場を持つところからだ。ただ医者が女であることから旅に耐えられなく、家臣の妻だから出せないと断っている。ウチに直接来るのは『だれそれ様がお呼びだ、大変名誉な事である、急ぎ応ぜよ』こんなのばかりだ。


 武家の嫁が領外に行くなんて、この時代だとないからね。行けば捕まって、人質や妾にされてもおかしくない。特にウチの場合は南蛮船があるからね。


 領外から来る患者の方は治療はしてるが、ナノマシン治療まではしてなく治療費もきちんと請求している。


 この辺りはケティたちも心得てるようで、領民ならば貧しい者から治療費は取らないが、他国の者はきちんと区別している。


 まあ現状で来るのは、商人などの旅人で、比較的お金のある人だけだ。貧しい人はそもそも他国まで来ないし、武士も自分から来る人は今のところ居ないらしい。




「さすが清洲城。働く人が多いね」


 この日、オレとケティは清洲城に来ている。城で働く下働きの人たちや足軽など、二百人は集まっただろうか。


「手はこまめに洗うこと。汚れが見えなくてもかわやに行った後や、食事の前は必ず洗うこと」


 目的は衛生指導をすること。ウチでは礼儀作法より衛生観念の問題の方が厳しいんだ。家臣にも身体を清潔に保つことや、手洗いとうがいは必ずさせている。


  那古野城でも信長さんに頼まれて衛生指導をしてるが、今日はとうとう清洲城でもやることになった。


 集まったみんなも真剣に聞いてくれている。前に清洲陥落後に流行り病の対策をケティが始めたら、従わない人が出て信秀さんが激怒したからね。


 思えば旧大和守家の家臣が冷遇された、最初の切っ掛けはそれだ。ケティも反発した人たちを説得もしないで、見限って那古野の信長さんに人を出してほしいと頼んじゃったからな。


 旧大和守家の家臣からすると、直前まで守護代のもとに居た人たちだから。オレたちを軽く見るなと、駆け引き的に反発した人も居たみたいだけどね。


 ケティさんったら相手にしないで、信長さん呼んじゃうから。彼らには反論の機会も与えられなかった。


 今の清洲城の人たちは当然その話はよく知っている。以後ケティの指導に無駄な反発をする人は居なくなった。


 まあ、長年の習慣がそう簡単に変わるはずもないから、ケティも根気強く指導してるけど。


「じゃ、又助殿。ここはお願いね。オレは殿のとこに行くから」


「はっ。お任せを」


 ケティには助手となる侍女さんが二人付いてるし、太田さんと護衛の兵も居る。


 オレは信秀さんに呼ばれてるから、行ってこないと。


 清洲城には茶室がある。元々守護様の舘として作られた城だけに、意外に豪華と言えば失礼になるかな。


「一馬か」


 信長さんならば人を介さずに信秀さんに会いに行くが、オレはさすがに小姓の人に取り次いでもらい会う。


 信秀さんはちょうど政秀さんと二人で、茶室でお茶をしていたらしい。


「城のことだ。あれほどの城は必要か?」


 まずは一献ではないが、政秀さんの点てたお茶で一服して一息吐くと本題に入った。どうやら話は先日見せた、清洲城の改築案の設計図と絵図のことか。


「織田の力を内外に見せつけ、威嚇威圧するためですかね。実際の籠城は、謀叛でも起こらない限り使うことはないかと」


 本当、城に拘りのない人だよね。信秀さんって。


 今の織田家では清洲を本拠地にするのが一番だろう。交通の要所であり、人口も多くまだ新しい領地だからね。


 まあ立派な城はこの時代には必要だ。岩倉の件ではっきりした。現状の弾正忠家でさえも、家中の皆さんは信秀さんを恐れて従ってるに過ぎないんだ。


 もし史実のように信秀さんが亡くなると、四面楚歌になるだろう。幾らオレたちと織田家で稼いでも、理解できない人が多いからね。誰の目から見ても分かる形で示さないと。


「港や道の整備に川の堤防。銭の使い道には困らぬな」


「物と人の流れを良くしないと。いつまでも狭い土地で争う現状から、変わりませんからね」


 信秀さんから明確な答えは返ってこなかった。大事業だしね。改築案も幾つかプランがあるから悩むんだろう。


「それにしても文官が足りませぬな。一馬殿たちの統治法は文官が必要ですからな」


商人司しょうにんつかさのように、商人から選び任せるのでもいいのですよ。ですが理想は領地の権限や銭と物資の流れは、全て織田家で管理するべきです」


 しばらく沈黙が訪れたが、口を開いたのは政秀さんだった。


 少し愚痴っぽいが、現状の弾正忠家の問題は文官不足になる。この時代だと武家は極端な言い方をすれば、戦が第一で統治は二の次以下だからなぁ。


 槍働きの苦手な文官とか、下手したら馬鹿にされるレベルだ。


 そもそも商業は寺社の利権になっていて、手を出せない武家も多い。商業や物流にまで首を突っ込む大名は、それこそ歴史に名が残る明との勘合貿易をしてる大内家とかがある程度だ。


「文官は増やさねばなるまい。商業以外も清洲の検地でも効果は明らかだ。武力だけではなく、文官で統治する方もやらねばならん。一馬よ。清洲の女衆は文官として使えると思うか?」


「読み書きができれば、あとは指導をすればできると思います。ウチでは人が足りませんので、滝川家の女衆が手伝ってくれてますし。商家も小さいところは夫婦で働いていますから」


「確かに。そうであるな」


 元々信秀さんの弾正忠家は商業に理解があり、津島や熱田の商業の力で大きくなった。とはいえ弾正忠家そのものは、やはり戦国時代の武家でしかなく、領内統治の法もないんだよね。


 現状の織田家は武力単一から、経済と流通を絡めた複合戦に切り替えつつあるが、それはほとんどエルたちが差配してるに過ぎない。


 清洲併合の苦労は信秀さんもしたし、検地や人口調査の意義も理解した。


 ただ未だに旧大和守家の、細かい土地や水の権利の争いなどの問題は片付いておらず、信秀さんがいちいち裁定しなくてはならないことも多い。


 デリケートな問題だから、かなり負担なんだろう。


 戦国大名らしく力で従えと、決めてやってもいいんだろうけどね。領民の評判からくる優位性や影響力を知ると、そこまで力押しはしたくないんだろう。


 水野家も佐治家も勝手に臣従したし、岩倉は勝手に自爆した。苦労した結果が出てるからね。




――――――――――――――――――

 信長公記には天文17年の頃から、久遠ケティによる衛生指導があったことが何度も記されている。


 明確にいつから衛生指導をしていたかは定かではない。


 しかし筆者の太田牛一が久遠家に仕官したのが天文17年の春であることから、それ以後の方が正確な記録として残っている。


 手洗いやうがいを推奨して、糠袋や石鹸を使わせたとある。


 彼女の偉業からするとこの件は序の口だが、当時このような基本的な衛生指導の概念は西洋にもなく、彼女と一族の医学がいかに進んでいたかが窺える。


 他にも料理番には熱湯消毒を指導していたとの記録もあり、織田家と織田領の人々の寿命が、他家と比べて著しく延びた原因だとも言われる。



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