第76話・春の足音
side・森可成
父上に尾張の織田弾正忠様に臣従すると言われた時は特に驚きはなかった。織田弾正忠様は、御仏の生まれ変わりだと言われるほどの御仁だ。
尾張と美濃の織田領では、流行り病にもかかわらず死者が出なかったと聞く。
ある者は御仏の力だと言うし、またある者は病を成敗しておるのだと言う。話の真偽はともかく織田領では、流行り病に罹った者は食事と薬に祈祷をしてもらえるのだとか。
羨ましい。美濃では誰もがそう口にした。斎藤家の者は根拠のない流言だと火消しに躍起になっておったが、どうやら流行り病の治療をしておったのは事実らしい。
戦による一時の支持など次に負ければ忘れ去られるが、温かい食事や薬に祈祷を受けた者やその家族は、生涯忘れぬであろう。
新九郎殿の周りでは、よく人が亡くなる。特に新九郎殿が邪魔に思う者ほど亡くなる。
そんな人に従ったところで明日は我が身。今の斎藤家と新九郎殿に心から忠誠を誓う者など、どれだけ居ようか。
ワシは那古野の若様に仕えることになった。人質というわけではないが、近い意味もあるのだろう。臣従すると言うて、すぐに信じる者などいないからな。
織田の若様は大ウツケとの噂もあるが、那古野城下は大層賑わっていた。元々は家臣の屋敷と村程度の集落がある程度だったそうだが、大掛かりな普請を行っているようで各地から人が集まっているようだ。
那古野城に挨拶に行く前に噂の普請場を見に行ったが、不思議な物見櫓のようなものがあった。あれは何なのだろう? 土でも積み上げたのか?
普請場では多くの領民が働いており、彼らに払われる銭や兵糧を目当てに商人や春を売る者が居て賑わっていた。
これが大ウツケ殿の城下だというのか? 美濃よりも那古野のほうが、人々の表情が明るいではないか。
「おお、パメラ様がお越しになったぞ!」
「ありがたや。ありがたや」
そんな普請場の周りの空気が変わったのは、那古野の方からやってきた一団を見つけた時だった。
ワシの近くにおる年寄りなどは、地に膝をつき拝み始めてしまった。高僧でも来たのかとワシも控えつつ様子を見ていると、やってきたのは見たこともない髪の色をした女だ。あれが噂の南蛮の女か。
「お爺ちゃん。薬ちゃんと飲んでる? 薬が無くなる前に来なきゃダメだよ。お爺ちゃんはじっくり薬飲まなきゃ、ダメなんだからね!」
護衛と侍女で十人以上は居るな。ということは、あれが噂の南蛮や明の医術を持つと言われる久遠家の奥方か。
どう見ても貧しい農民の老人に自ら歩み寄ると、診察をして薬を飲むように注意しておるが、あの老人では薬代が出せぬであろうに。
久遠家の奥方は領民を無料で診ていると噂に聞いたが、本当のことだったのか。
那古野城に登城して織田の若様に挨拶をした。
若様はあまり口数は多くなかったが、大層な料理で迎えてくれた。あれが本当に噂の大ウツケ殿か?
たしか大ウツケ殿は氏素性の怪しい南蛮人を従え、遊び呆けておると大分前に美濃の武士たちが噂しておったが。
「相変わらず久遠殿の料理は美味いですな」
「この塩釜焼きと申す料理。これならば我らでも作れるのでは?」
家中の関係は可もなく不可もなくというところか。とはいえ大ウツケとして家臣に見限られてるわけではないようだな。
料理は本当に美味い。塩で固めた鯛が、何故塩辛くならぬのか不思議だが美味い。
煮物や他の料理も初めて食べる味だ。周りの話を聞いておると久遠家の料理なのか。
若様はウツケではないな。
那古野城下の様子と城の様子。それにこの料理の数々。これのどこがウツケだ。
父上は正しかった。斎藤家では敵わぬ。美濃は遠くない将来、織田家の領地になるだろう。
side・久遠一馬
暦は二月に突入していた。春の足音が聞こえてきそうな今日この頃。牧場と工業村の完成も見えて来た。
牧場の方は厩舎や牛舎などはすでに完成していて、今は孤児院や蔵などの施設の建築が進んでいる。
工業村の方はついに高炉が完成した。慣れない煉瓦による高炉作りに職人の人たちが頑張ってくれた。日ノ本で初めての施設だと教えたらみんな喜んでたな。
こちらは他にも高炉の排熱を利用した公衆浴場や、粗銅の精錬名目で金銀を抽出する施設に、銭の鋳造所。あとは職人たちの住居など他の施設や建物の建築が進んでいる。
粗銅は表向きは輸出向けに精錬して、形を整えるという名目にする予定だ。
工業村は出入り口には門番を置き、身元が確かで許可を得た地元の人以外は入れないことにしているし、更に高炉や粗銅の精錬と銭の鋳造所は専属の職人しか入れないようにする。
公衆浴場は、工業村の内と外に二つ作ることにしていて、村の外の浴場は旅人も入れるように開放する予定だ。
工業村の外には公衆浴場の他に旅籠とか酒場、遊女屋などを作る予定だ。いずれ秘密を探ろうと他国の間者が来るだろうけど、この一角で正体を見極めることが出来れば間者の管理が楽になるだろう。
温泉街ならぬ公衆浴場街は、お金も儲かるし間者ホイホイで一石二鳥だね。
「若様。この際です。城下を少し整理して、拡張してはいかがでしょうか?」
「拡張か? 確かに領民が増えておるし、商人も店を出したいと言うておるが」
そしてオレたちは牧場と工業村の目処がついたので、那古野城下の整備をしようと、信長さんと政秀さんに提案してるところだ。
流行り病の関係で清洲から移ってきた人たちは、そのまま那古野に住み着く人がほとんどになるから、手狭になってるんだよね。住み着いた人が好き勝手に屋敷を建てている状況だ。
元々この時代には城下町なんて概念は基本的にはない。政治を行う城と商業を行う町は違うことが当たり前だ。尾張だと大まかに言って、政治の清洲と商業の津島に分かれている。
城は武士の居住する館であり、軍事施設なんだよね。
那古野もウチの屋敷、政秀さんの屋敷とかの他に、那古野神社とか寺、村程度の領民は居るけどさ。
「以前に少し話しましたが、病院と学校を建てたいんです。あと那古野と工業村、牧場の辺りは道を整備すれば、万が一の時に駆け付けやすくなりますし」
人が増えると商人もやってくるし、以前から考えてた病院と学校も那古野に建てたい。
もちろん城や町の防衛も考えなきゃいけないけど、やるなら総構えのように町ごと守る仕組みにしたい。
「爺。どう思う?」
「診察する場所は必要でしょう。今は一馬殿の屋敷と応診で対応しておりますからな。それに新しい医者を育てる必要もあるかと思います」
那古野の城下は、既に拡張しないと駄目な段階になってるんだよね。領民や商人が勝手に家を建てている状況だ。
資金とか城の防衛とか考えることはあるけど、政秀さんも城下の拡張自体は反対じゃないみたい。
「清洲もやるかもしれんが、縄張りだけでもやるべきか」
ただここで問題なのは清洲城や清洲の町も、先の戦で焼けたり壊れたりしたから修繕が必要なことだ。それに津島も地味に蔵が足りなくなりつつあり、新しい蔵や建物を建てたりと町を拡張しているんだ。
尾張は建築ラッシュと言っても、過言ではない状態なんだよね。
はっきり言えば大工さんが足りません。
伊勢辺りから引っ張ってこられないもんかね。
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