第67話・虎と三郎五郎
side・織田信秀
「そうか」
「はっ。少なくとも領民は松平の統治を望んではおりませぬ」
久方ぶりに会ったが、三郎五郎が元気そうでなによりだ。
それに三河の情勢がようやく好転したのも朗報だな。
考えてみれば単純なことだ。食べ物がないならば与えればいい。それだけのことだ。
奪うばかりの者よりは、苦しい時には与える者を望むのは当然のことよ。
「ただ国境付近の村では、松平方に略奪される村も出ておりまする」
「防げぬのか?」
「今のところ各国人に任せておりますれば、防げてる者もおりますが、防げぬ者もおりまする」
流行り病の対策と食料の配給をする賦役は、三河でも効果があった。
ただ、松平領は流行り病の対策もできてないばかりか、食料が足りず飢えておる。当然ながらこちらの村に略奪に来たか。
「兵糧は送ろう。困窮する者には賦役をやらせて、飯を食わせろ。今しばらくそのままでよい。奪う松平と与える織田。その違いを三河者によく理解させろ」
どうやら広忠には理解できぬようだな。与える意味が。
あるならば奪えばいい。まあ、ワシも以前は同じことを考えていたのだからよくわかる。
だがあそこは三河であり、かつては松平が領有していた地なのだぞ? そこの領民の僅かばかりの食料を奪うとは、愚かとしか言いようがない。
「国人衆からは兵糧があるならば、攻めるべきだとの声もありますが」
「捨て置け。放置すればするほど、松平宗家と広忠の影響力はなくなるのだ。最早松平単独では、どうすることもできまい。松平の三河支配の夢を打ち砕くまで、放置するのが得策よ」
「今川は動きませぬか?」
「反抗的な国人を磨り潰すつもりで、援軍に送るくらいはしよう。だが矢作川西岸にいくら兵を出す? 戦続きで実入りも少ない土地ぞ?」
そういえば一馬が言うていたな。三河者は戦馬鹿が多いと。少し状況がよくなったくらいで騒ぐとは。それほど簡単に今川に勝てるならば、苦労はせぬわ。
現状で今川は、嫌がらせ以上に動くことはあるまい。今川が考えるのは三河の統一ではないのだ。織田と尾張をどうするかなのだからな。
「そういえば今川との商いが盛んだというのは、本当のことでしょうか?」
「ほう。三河にもそのような噂が届いておるか」
「はい。今川と織田は和睦をするのではとの噂がありまする」
「和睦の話は出てないな。だが商いはしておる。三郎五郎よ。よく聞け。今川との商いは、織田のみならず今川にも利がある商いなのだ。この意味、そなたにわかるか?」
言葉に詰まったか。簡単に理解はできぬであろうな。
松平は形の上では今川に臣従する姿勢を見せておる。三河では松平と、松平を支援する今川との戦が続いておるのだからな。
だが同時に織田と今川の商いは、取引量が増えておる。そこのからくりを理解できぬ者は生き残れまい。
「三河に送っておる銭や兵糧の何割かは、確かに今川から得たものだ」
「ですがそれでは今川も織田から得た物で、攻めてくるのでは有りませぬか?」
「今川がその程度の考えならば問題ない。だが現に今川は攻めてこぬであろう? 今川は三河の統一など興味がないのだ。今川が欲しておるのは尾張ぞ」
最早三河は以前とは全く違う形になっておるのだ。
広忠と松平宗家の者は気付いておるまい。義元と噂の雪斎坊主ならば気付いておるだろうがな。
「攻めるよりは和睦をした方が得だと思わせるのですか?」
「その答えでは半分だな。ワシが今欲しいのは時だ。清洲を完全に治めて尾張を統一するためのな」
今川は強大だ。しかし尾張が一致団結すれば簡単に攻められるほど弱くはない。
今必要なのは今川と商いをして時を稼ぎ、織田が大きくなることなのだ。
「そう心配するな。もし今川が出てきたら援軍を送る」
「はっ」
「よいか三郎五郎。戦も政も複雑なのだ。城一つ村一つを取った取られたと一喜一憂してはならん。岡崎を見よ。あれの真似だけはするな」
三郎五郎は愚か者ではない。だが三河に置いているせいか、少しばかり今の織田弾正忠家を理解してないようだな。
三河の戦馬鹿に影響されては困る。なにか考えねばならぬか。
side・織田信広
久方ぶりに尾張に戻ったが、尾張も父上も変わられたな。本当に変わった。
先日までは大和守家が治めていた清洲でさえ、領民の表情は明るい。父上は戦をせずに国を獲ることを始めたらしい。
そういえば三郎をうつけと囁く声が聞こえなくなったな。
三郎は織田弾正忠家を継ぐには相応しくない。あのようなみっともない格好でと、オレにまで囁く者が以前はおったのだがな。
肝心の服装はあまり変わっておらぬらしいが、流行り病で追放された領民を那古野に受け入れ粥と薬を与えたと評判だ。しかも三郎自身も病人の世話をしておったらしい。
元々那古野の領民に三郎の評判は悪くはなかった。
騒いでいたのは家中の者ばかり。それが掌を返したように変わったか。
原因は久遠一馬。南蛮船を複数持つ商人を、召し抱えたことだろうな。
ワシは三郎がうつけには思えなかったが、それでも理解もできなかったのが事実だ。あまり人に自分の考えを伝えるのが、得意ではないのだろう。
「殿。尾張は凄いですな」
今回、オレは三河の国人を何人か連れてきた。父上と織田弾正忠家の力を三河者に見せるのが狙いだ。
効果は言うまでもないだろう。金色に輝く透き通る酒に三河では見たこともない料理の数々。松平宗家と織田の力の差を理解したであろう。
内心では三河の所領と比較して、惨めな思いをしてる者もおるかもしれぬが、全ては己の責任だ。
「当分岡崎は攻めぬようだ。まずは矢作川の西側を安定させねばならん」
「宗家が邪魔ですかな?」
「そこまでは言わんが、こちらが下しても言うことは聞くまい。岡崎の者は今川でも織田でも変わらん。最終的には松平宗家による三河統一が目的なのだからな」
父上は松平宗家のことなど眼中にない。いかにして今川と対峙するかということを考えておられるようだ。
今川も同じであろうな。 広忠が少し哀れに思えてくる。
ああ。戻る前に三郎と久遠殿には、改めて礼に行かねばならぬな。流行り病の際には奥方を三河まで寄越してくれたのだ。こちらから出向かねば。
あの兵糧と奥方の治療で、どれほど統治が楽になったかわからん。
賦役で飯を食わせ病人は治療する。それだけで領民は協力的になったし、国人たちも少しは言うことを聞くようになったのだからな。
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