エスケープ

紫栞

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A地点                                                                                                   


大野浩二はいつものように新幹線の線路の定期検査をしていた。

範囲が広いこともあり、今日のメンバーは全部で7人いた。

元々新幹線が大好きで、この仕事に就けたことを誇りに思っていた。

いつも安全に新幹線が走行できているのはこうした日々の点検のおかげだ。


今回の点検では多少傷んでいた箇所はあったものの大きな故障はなく、すぐに検査は終わる予定であった。

大野は少し緩んでいた箇所を一人で黙々と直していた。

気が付くと他の6人が少し先に進んでいた。

この仕事は正確さと速さが求められる。

新幹線の始発が始まる時間には完全に撤退しなければならない。

緩んだ箇所を直し、皆のもとへ小走りで向かう。

と、普段の運動不足のせいか小さな石に転んでしまった。

線路の鉄の塊にぶつかると思い目を閉じる。

次に目を開くとそこは見たこともない部屋だった。



B地点


コンクリートが打ちっぱなしのその部屋は人の気配がなく、とても静かな空間だった。

無意味な場所にいくつかの柱があり、この建物が工事中なのか、はたまた解体途中であるかのように思わせた。


この辺りがどうなっているのか知るためまずは窓がないか辺りを探すが、天井の近くに明り取りの窓があるだけでここが何階であるのかも分からなかった。

ただ、外は明るく、日が差しているようで、部屋の中には明かりが差し込んでいた。

何か手掛かりはないかと辺りを散策することにした。

手に持っていたものはほとんど残っており、幸いにもチョークを持っていたため、目印をつけることにした。


自分のいた場所に丸印を付け、柱には数字を書いて進んだ。

少し進んでみたが、やはり辺りは静かで、人の気配は感じられなかった。

柱に10まで書いたところで、元の位置に戻ることにした。

この建物は想像以上に広いようであった。


元の場所に戻る。

今までの仕事に戻る方法も分からず、途方に暮れる。

食料も持ち合わせがなく、そろそろお腹が空いてきていた。

こんな状況でもお腹は空くし、トイレにも行きたくなるのだなと他人事のように考える。


すると、近くからいい匂いがしてきた。

大好きなカレーの匂いだった。

ふらふらとカレーを探し求め辺りを探索する。

そこには先ほどはなかったカレーがお盆に載せられていた。

ご丁寧に机と椅子まで用意されている。

大野は恐る恐る座った。

目の前にはいい匂いのするカレーがある。

ためらいながらも本能に逆らうことは出来ず、一口食べていた。

普段食べているカレーと変らない味がした。

安心した大野は全て平らげた。


空腹が満たされ、探索の意欲が湧いてくる。

せめてトイレはないだろうかと先ほどとは反対方向に進む。

今度はアルファベットを書き記しながら進むことにした。

すると、想像していたより近くにトイレらしきものを見つけた。

一度流してみると、普通に水が流れていった。

安心して用を足す。


意外と快適な暮らしが保証されているのかもしれないと少し安堵した。

しかし、その考えはすぐに打ち消されることとなる。

トイレを済ませ、元の場所に戻り、この建物の構造を考えていると、どこからか機械音が聞こえてきた。

ガシャン、ガシャン。

その音は一定にまるで歩いているかのようだった。

先ほどまでは音もなく、人の気配もしなかったのにどこから現れたのだろうか。

それとも警備にロボットを採用しており、ずっと巡回しているのだろうか。

色々なことが考えられたが、どれも不安には変わりなかった。

まだ遠くの方から聞こえてくるが、明らかに近づいてきていた。

とにかく逃げなければと本能的に思った。


大野は音と反対の方向に音をたてないように歩き出した。

ガシャン、ガシャン。

音は追いかけてくるように近づいてくる。

大野は恐怖から振り向くことが出来ない。

そして、この建物は走っても走っても同じ道のようにどこまでも先が続いていた。

早く逃げなければと思うのに恐怖心から足が思うように動かない。

もうここまでかもしれないと、先ほどのトイレらしきドアを見つけ、一か八か中に入る。

息をひそめ、機械音の発している物体が通り過ぎるのを待つことにした。


トイレには隙間がなく、相手が通り過ぎたのか、目の前に立っているのか、どんな大きさなのか何も見えない。

ただ、機械音はまるで聞こえなくなった。

そして、気配もしなくなった。

恐る恐るドアを開ける。

そこには見覚えのあるねじが落ちていた。

それは仕事で締めた少し緩んでいたねじと同じものだった。

非日常的な空間に見慣れた物があることで大野は少し緊張が和らいだ。

見る限りロボットも近くにはいないようだった。


再び元の場所に戻る。

今度はウイーンと何かが動く音がした。

それも先ほどとは異なり、ずいぶん近くで聞こえてくる。

さすがに恐怖心から動けずにいると、先ほどまでは太陽光で明るかった部屋に電気がともり、外は急に暗くなっていた。

不思議に思い辺りを見回すと監視カメラのようなものが設置されていることに気づいた。

見知らぬ誰かに見られているかもしれないと思うといい気はしない。

注意深く行動することにした。


ウイーンという音はどうやらそのカメラを動かしている音の様だった。

つまり、この部屋は何者かによって監視されていることは明らかだった。

しばらくすると、カメラの焦点がこちらに合い、数分間にらみ合いが続くと、近くにパンが配布された。

食べ物に対する恐怖心はカレーの一件でなくなり、安心してパンを食べる。

その姿も見られているのかと思うと気に入らないが、いつ食べ物を提供されるかはランダムであり、食べていた方が得策であるように思えた。


しばらくするとカーテンのついたバスタブが目の前に置かれた。

まさか置いただけでは水が出ないだろうと思ったが、そうでもないらしい。

適温のお湯が出たため、軽く汗を流すことにした。

外に出るとタオルが準備されていた。

どこからどこまで気の利いた設備だった。

風呂場があると邪魔になるのかしばらくすると風呂場は消え去った。


特に何かあるわけではないが、動き回ってまたあの見えない敵に追いかけられるのは勘弁してほしいので動かずにだらだらと過ごしていた。

どのくらい経ったか分からないが、再び遠くの方からガシャン、ガシャンと一定の音が聞こえてくる。

それも前回とは異なり、複数の音が聞こえてきた。

とにかく逃げなければ、そう思い、足音を立てないように走る。

だが、今回は追いかける速さが先ほどより早い気がした。

すぐ近くまで迫っているような音がする。


戦いも辞さないかとポケットに入っている工具をそっと握る。

3、2、1で振り向くぞと心の中で決め、心の中でカウントする。

3、2、1...。

工具を頭上に振り上げ、意を決して振り返る。

すぐそばまで足音は迫っていたはずだったが、そこには何もいなかった。

大野は安堵と恐怖が入り混じる。

確かにすぐ近くまで迫っているような気配も感じていたし、足音も聞こえていた。

だが振り向くとそこにはただ無限にコンクリート打ちっぱなしの部屋が続いているだけであった。



A地点


大野浩二がいなくなり、半日が経過した。

捜索のため、朝の何便かは運休した。

警察も交え捜索範囲を広げたが、大野浩二の姿は見当たらなかった。

ただ、消えた場所には緊急連絡用に配布されている、職場ようのスマートフォンが落ちていた。

辺りには、大野が躓いたであろう小石が落ちているが、そんな小石に気が付く者もいなかった。

ニュースには行方不明者として、取り上げられた。

だが、その行方は誰にも分からなかった。



B地点


大野は元の世界に一刻も早く戻る方法を考えていた。

暮らしは快適だったが、時折来るロボットのせいで疲弊していた。

また、誰かに監視されているというのも精神的に苦痛であった。

先ほどから数字を書いた柱の方からロボットが出現しているが、その度にアルファベットを書いた方に逃げてもドアらしきものはトイレのドアしか見当たらない。

つまり数字の方にドアや階段があるのだろうかと考えた。

ただ、そちらに向かうには恐怖心と戦わなければならない。

大野は悩んでいた。

しかし、早く元の世界に戻らなければならない。

勇気を振り絞って数字の柱の方を探索した。


しかし、探索しても一向に似たような場所が続くだけで状況はアルファベットの方を進むこととさほど変わらなかった。

そして幸いにもロボットは出てこなかった。

元の場所に戻り、あーでもないこーでもないと声に出して悩んでいた。


しばらくして、思いっきり先ほど拾ったねじを投げた。

やはり思った通り、そのねじはすぐ後ろから転がってきた。

この部屋は歩けども歩けどもぐるぐると回っているのだ。

つまり出口はない。

思考も行き止まり、なすすべがなくなった。


落ち着くためにトイレへと向かう。

用を足し、少し落ち着きを取り戻し、元の場所に戻ろうとしたとき、先ほどとは異なるねじを踏んでしまった。

再びねじを拾う。

このねじがどこから落ちてくるのか分からないが、ねじの数が増えた。

少し形状は異なるが、普段使っているねじの一つだった。


しばらくは二つに増えたねじを弄んでいた。

普段使っているねじはあと数種類ある。

それを全部集めたら出られるだろうかと考えていた。

カラン、コロロロロ。

何かが降ってきた音がした。

音の方に向かうと普段使っているねじがまた落ちてきていた。

上から落ちてきているのかと思い上を見上げるとただの天井が広がっていた。

どこから落ちてきたのか分からず、再びねじに手を伸ばし、拾い上げる。

三つのねじを眺め、そんなに時間は経っていないはずなのに懐かしい思いに駆られていた。


座っていることも落ち着かず、歩き回っていた。

音がしなければ敵は出てこないようだった。

どのくらい経ったのだろうか。

いつの間にか電気は消え、太陽光が差し込んでいた。

「一日経ってしまったのか。」

緊張から一睡もせず、一日が過ぎてしまったようだった。

不思議と眠くはなかった。


ガチャンッ!

カギが閉まるような音が突然トイレの方から聞こえてくる。

トイレが使えなくなるのは困るので、慌ててトイレへ向かう。

トイレのドアを押すと、今まで通り開いた。

ただ、トイレの中にもう一つドアが出現していた。

このドアを開けると戻れるの、さらにとんでもない世界に連れていかれるのか、敵があふれ出てくるのか何もわからない。

ただ、このドアの上には非常口のマークが緑色に光っていた。

トイレの中にある非常口なんて聞いたことがないが、それ以外に方法がない大野は一か八か開いてみることにした。

手には工具を握りしめ、ドアを開ける。

まばゆい光が、大野浩二を包み込んだ。

大野はあまりのまぶしさに目を開けていられなかった。



A地点


大野は目を開けるといつもの仕事の更衣室に横たわっていた。

ロッカーを開け自分の荷物を取り出す。

スマートフォンをみると、一日が過ぎていた。

そしてありえないくらいの件数のメッセージが届いていた。

皆心配するものだった。

ニュースにも取り上げられているようで、ニュースの通知に自分の名前とずいぶん昔に撮られた顔写真が一緒に掲載されていた。

恥ずかしさを覚えつつ、恐る恐る更衣室を出る。

するととこには驚いた顔の班長が立っていた。


「ずっと更衣室にいたのか?」

まるで化け物でも見るかのように驚きと戸惑いを隠せない顔で聞いてきた。

当然更衣室から自宅からすべてを捜索したのだろう。

「信じてもらえないと思うんですけど…」

今まで自分の身に起きたことを出来るだけ丁寧に説明した。

ただ、班長はそれを心配そうな顔で聞くだけで、信じてはいないようだった。

当たり前だ。

50を過ぎたおじさんが急にそんなファンタジックな話をしたところで信じてもらえるはずがない。

その足で病院に向かい、異常がなければ少し休暇をもらってリフレッシュしようと思った。



C地点


「今回の対象者はどうだった。」

「あまり怖がらなかったですね。むしろ快適に暮らしているような感じでした。」

「この実験は快適な暮らしと恐怖を交互に与え、恐怖した時にどのような行動をとるか富豪たちに掛けてもらって成り立っているからな。」

「はい。ただやっぱり、大富豪には女子高生のような若い女が人気でして。」

「まあそれはそうだろうが、実験上様々な年齢層が必要だからな。今度は一日と言わず一週間くらい誘拐しても平気そうなやつを探すかな。できれば女子高生で。」

「女子高生だと心が痛むって言ったのは所長ですからね。」

非公表の政府機関では日夜人間の行動に対する研究と、人間の行動予測をしたギャンブルにより、大金が舞っていた。



A地点


大野はふと思いポケットに手を入れる。

そこには見知らぬ世界で落ちてきたねじが三つ入っていた。


Fin.

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