亡霊

 怒涛の夏が過ぎ、士官学校での生活も少しばかり落ち着いた九月のこと。


 窓の外は真っ暗だったから、日の出までまだ遠いような、ぶかい時間だったのだと思う。ふと、何かの気配を感じて瞼を持ち上げると、斜向かいで眠る同期の枕元に、居室を満たす闇よりも濃い影が佇んでいるのが見えた。

 見間違いかと目を凝らしたが、寝ぼけ眼が暗闇に慣れても、人の形をした影は確かにそこにあった。微動だにせず、微かな鼾を立てて眠る同期の顔をじっと覗き込んでいた。

 薄らと開けたままの目を、今更逸らすこともできず。息を潜めているうちに、夢と現の境を漂っていた意識は完全に覚醒した。

 それを察したように、黒い影が、ぐるりと頭部を回した。

 ――目が合った、ような気がした。


「だから貴様はあんな夜中に号令をかけたんだな。余程怖かったに違いない」

「違う。驚いただけだ」

 にやにやと笑う面皰にきび面の同期に肘鉄砲を喰らわせて、吾妻あづま亮一は青い顔で味噌汁を啜った。

 深夜の絶叫は同じ居室で寝起きするほぼ全員を叩き起こした。両隣と向かいの部屋はおろか、一番端の部屋で寝ていた者でさえ夢心地に叫びを聞いた気がすると証言したくらいだから、相当な声量だったのだろう。同室で健やかな眠りに就いていた若者たちは一人を残して突然の大音声に飛び起き、真っ青になって震える同期を目にした。

「相手が幽霊だろうが、自慢の拳で一発殴ってやれば良かったんだ。小心なのか大胆なのかわからん奴だな」

「貴様、俺をすぐに手が出る乱暴者だと思っていやがるな。人だろうが幽霊だろうが、理由もないのに殴らん」

「あれだけ大暴れしておいてよく言うぜ。どうせ、幽霊相手じゃ怖くて動けなかったんだろう」

「やるか貴様」

「おっ、独眼竜がまた暴れるぞ」

 先日、喧嘩の仲裁に入った際に右目に青あざをこさえ、仙台出身の吾妻は同期から不本意な渾名をもらっていた。

「おい、吾妻も岩井も喧嘩してないで早く食べろよ。飯が冷めるぞ」

 向かいの席で白米を口に運びながら、誰よりも日焼けした学生が言った。真っ白な米粒が、この前の喧嘩でできた痣の上に張りついている。

「黄泉坂、貴様なあ……」

 寝不足の吾妻とは違って、渦中の人物のはずの同期は朝から通常運転だった。いつものように喇叭で目を覚まし、溌剌とした様子で点呼に出て、元気に朝飯を食らっている。

 黄泉坂辿は太く凛々しい眉を片方だけ上げた。

「昨日の晩のあれは幽霊騒ぎだったのか。起きたら当直士官が部屋にいるし、一体何事かと思ったぞ。十八にもなって吾妻は怖がりだな」

「黄泉坂、貴様だぞ。貴様の枕元に幽霊がいたんだぞ」

「俺は何も感じなかったが。吾妻の見間違いじゃないのか?」

「――俺も見たぞ」

 隣のテーブルからぼそりと声がした。向かいの居室で寝起きしている但野ただのだった。

「見たって、昨日か?」

「陸幼の時。黄泉坂の枕元に黒い影が立っていた」

 但野は一般の中学を出た吾妻とは違い、黄泉坂辿や岩井と同じ陸軍幼年学校の出身だった。常から顔色が悪く、つい「大丈夫か」と声をかけたくなるような唇の色をしているが、優秀な軍人の家の生まれで、陸幼組の中では一番の秀才だという。

「但野も見たのか」意外な者からの掩護射撃に、吾妻は救われた心地がした。

 但野は汁椀を片手に、正面を向いたまま頷いた。

「黄泉坂とは長い付き合いだが、俺は見たことないぞ」

「陸幼の時、黄泉坂と同室になったことがないだろう。しょっちゅういたぞ」

 しょっちゅう!? 吾妻と岩井の素っ頓狂な声が重なる。

「陸幼に入って、一番最初の同室が黄泉坂だった。半年くらいは、ほとんど二日にいっぺんの頻度だったな。月水金、それから外出から帰ってきた日曜の晩は大体いた」

「幽霊にも当直があるのか……?」茶碗を持つ岩井の手は震えていた。

「俺たちが寝たふりをしている時は来なかったがな。ああ、同じ部屋だった仁科と寺本と飯沢と、あと遠藤も見ている」

「だから部屋の隅に塩があったのか!」

 黄泉坂辿はいかにも意志の強そうな二重の目を見開いた――かと思うときっと眉根を寄せ、

「何故俺に言わない。俺に黙って、みんなでぐるになって塩を置いていたな。陸幼にはそういう決まりがあるのかと勘違いしていたじゃないか」

 問い詰められて、但野は力なく笑った。ず、とさつまいもの味噌汁を啜る。

「塩も魔除けの札も効かない幽霊を相手に、俺たちにできることはない。当の黄泉坂はピンピンしているし、害がないようならこれ以上気にしない、変に怖がらせるのも悪いから、黄泉坂にも言わない、ということで決着した。部屋替え前日の晩にな」

「そんなことがあったのか。大変だったな」

 吾妻は素直に労った。但野は体調を気遣われた時と同じように無愛想に手を振った。

「何だよ、みんなして幽霊幽霊って。餓鬼じゃあるまいし、俺を怖がらせようとしたって無駄だぜ」

 存外上品な所作で汁物を飲み干し、黄泉坂辿は不服そうに鼻を鳴らした。

「第一、幽霊や妖怪なんてのは後ろめたいところのある奴が見るもんだ。俺はそんな疾しい人間じゃない。貴様らの見間違いだろう」

「黄泉坂。幽霊なんて俺も信じたくはないが、見間違いで片付けるには目撃談が多すぎると思わないか?」

 気を紛らせるように咀嚼していたたくあんをようやく嚥下し、岩井は尋ねた。

 黄泉坂辿はむっと唇を尖らせた。「図体の割に怖がりな奴め」

「じゃあ、どんな幽霊だったんだよ。吾妻も但野も言ってみろよ。この際だから仁科も寺本も飯沢も遠藤も、みんな招集だ。俺に隠れて口裏合わせなんて絶対にするなよ」

 華族の家の出の実直な青年が不正や隠し事を嫌っていることは皆よく知っていた。同期に取り憑いた幽霊を野放しにする訳にもいかず、吾妻は一も二もなく承諾した。但野も乗り気なようで、元同室の四人に声をかけてくれるとのことだった。一回り小さくなった岩井は不参加を申し出たが、怖いのか、と吾妻に言われては、揶揄った手前受けて立つ他なかった。


     ◇


「――兄貴は、幽霊とか信じるか?」

 休日。外出を許可された黄泉坂辿は、大学に勤める七つ上の兄に尋ねた。

 喫茶店の席に座って、兄のただしは怜悧そうな切れ長の目を細めた。

「何を突然。そんなものはいないさ」

「だよな……」

 黄泉坂辿は兄が注文してくれたコーヒーに砂糖を入れ、堂々とミルクを注いだ。

「学校で何かあったのか?」

「同期の奴らが、俺に幽霊が憑いてるって言うんだ。夜中に、俺の枕元に立っているんだと」

 瞬間、兄の顔から色が消えたが、弟は真剣にコーヒーを混ぜていたため気がつかなかった。

 黄泉坂辿は甘いミルクコーヒーに口をつける。薄茶色の髭をぺろりと舐め、

「俺だって幽霊なんか信じないけど、五人も六人も見た奴がいたらな。しかも幽霊を見た連中は、全員口を揃えて男の幽霊だったって言うんだぜ。女ならまだしも、男の幽霊なんて聞いたことがない。今のところ俺は何ともないから気にする必要もないんだろうけど、放っておくのもどうかと思って」

「……辿は、何か見たのか」

「何も。幽霊を目撃した吾妻が叫んだらしいが、それすら気づかずに寝ていた」

 何故だか、兄は安堵したように息を吐いた。「ならいい」

 黄泉坂辿はむっと唇に力を込めた。

「よくない。俺が見てないからって、幽霊の奴を野放しにしておけるかよ。ここまできたら、正体を暴いてやらないと気が済まないぜ」

「十九にもなって、子供のような真似はよせ。幽霊なんていない。見間違いだ」

「そんなこと言われてもな。兄貴だって、二日にいっぺん幽霊に寝顔を覗かれたら嫌だろう」

「嫌なのか?」

「そりゃ嫌だろう。こっちからしたら正体のわからない奴なんだから」

 それもそうか。兄は納得したようだった。

「それで、兄貴に聞きたいんだけど……父さん――日野道の父親は、背が高かったのか?」

「日野道の?」

「ああ」応えて、僅かばかり目を伏せる。「もしかして、俺のことを心配して見にきてくれたのかもしれないと思って。父さんは俺が生まれる前に死んでるし、顔だって、お互いに知らないけど」

「なんだ、そういうことか」

 心なしか緊張していた兄の表情が、ふっと和らぐ。

「父の背は、高かったと思う。私や辿と同じくらいじゃないか」

「そうか。じゃあ、父さんかもしれないな」

「そういうことにしておきなさい」

 幽霊の正体が父だと決まったわけではないが、兄にも言われて、黄泉坂辿は安心した心地になった。顔も知らない末の子をどうやって見つけたのかは知れないが、軍曹だったという父がついていてくれると思うと心強い。

「……何だよ、兄貴。さっきから」

 向かいでは、兄が意味ありげに微笑んでいた。

「いや。誤解が解けたのなら、父も気兼ねなく辿の顔を見に行けるだろうと思ってな」

「来るのは構わないが、同期を驚かすのは勘弁してほしいぜ。岩井の奴が一人で便所へ行けなくなったんだから」

「夜はしっかり眠るよう言っておきなさい。眠っていれば幽霊を見ることもない」

「それもそうだ。頭から布団を被って寝るよう伝えておく」

 兄弟二人して笑う。両親の顔は写真でしか知らないが、母親似の弟とは違って、兄は父によく似ていた。

 厳格そうな雰囲気の亡き父も、兄と同じように笑う時があったのだろうか。

 父の跡を継いで軍人になるのは、本来であれば兄の方だった。優秀な長男ではなく弟の方が陸幼に入ったのだから、父も気が気ではないのだろう。

 心配はかけても、せめて心安らかに見守ってもらえるよう、黄泉坂辿は内心で決意を新たにする。幽霊を眼にする暇などないような、正しく、恥じるところのない者であれば、父も安心して夜中の参観をやめるはずだ。



「そこに何かいるのか、修司」

 一歳にも満たない幼子おさなごは、這った姿勢のまま顔だけ上げて虚空を見つめている。傍に腰を下ろし、同じ方向に顔を向けても何も見えない。染みの浮いた襖に鴨居、松竹梅の欄間があるだけだ。

 双子の兄弟を置いて一人だけ目を覚ました長男は、父親に声をかけられても意に介することなく、じっと何かを凝視している。

「そういえば、み鳥もこの前家の中で人影を見たと言っていたな……」

 五月の末に士官学校を卒業した八重垣辿は、ちょうど二年前の騒ぎを思い出した。あの時は結局、末の子を心配した亡き父が夜な夜な枕元を訪れているという解釈に落ち着き、頭から布団を被って寝るよう達したこともあってか、それ以来、同期たちから幽霊の目撃談を聞くこともなかった。

 幽霊騒ぎの中心にいたはずの八重垣辿は、結局一度も幽霊の姿を見ていない。周りが怯えて、当の本人はけろりとしているのだからおかしな話だ。

「修司、もしかして日野道の父さん――お前のお祖父さんが来ているのか」

 尋ねるも、返答はない。八重垣辿は苦笑した。もし「違います」なんて言われたら、さすがの八重垣辿も岩井のように縮み上がってしまうだろう。

 胡座をかき、息子と揃って宙を見つめる。ふと、懐かしい気配を感じた気がした。

 残り香よりも希薄な、幻の切れ端のように漂う気配は、昨年の春に訣別した兄を思わせた。唯一の肉親と縁を切った後ろめたさがそうさせるのだろうか。兄は今、国の外にいるというのに。未練ばかりの自分が嫌になる。

 何もない空間に手を伸ばした。勢いよくシーツを剥ぐように、気配はさっと遠ざかっていった。

 よすがの端すら掴むことができず。開いたままの右手を握り込む。

「こら、修司。どこへ行く」

 突如庭の方へ這いずり始めた赤ん坊を抱え上げ、布団の上に戻した。それでも修司はめげずに庭へ向かって這っていく。

 やはり何かいるのかもしれない。八重垣辿は修司を抱き、草履をつっかけて庭に出た。

「落ちるぞ」

 赤子は身を捩り、見えない何かに触れようと懸命に手を伸ばす。

「あぅ、あくぅ……」

 修司は意味の取れない声を発したかと思うと、直後、すん、と静かになった。

「もういいのか」

 もういいらしかった。さっきまでの活発さはどこへいったのやら、修司は腕の中で大人しくしている。

 背後で、次男の清司が泣き出す。障子を開け放ったままの居間に、住み込みの老婢が姿を表すのが見えた。

 戻る前に、もう一度後ろを振り返った。当然ながら誰もおらず、ひそやかな秋風の吹く、寂れた庭があるだけだった。生まれた家と、育った家と。二つの名を捨てた者の後ろには、もう誰もいない。

 いるとすれば、傍にいて欲しいという願いが生んだ幻に違いなかった。


     ◇


 同期の兄が〈心鬼〉だと知り、その枕元に立っていた幽霊の正体にも合点がいった。

 黄泉坂子爵は、ずっと案じていたのだろう。士官学校に現れた幽霊も、同期が愛妻家で親莫迦で子煩悩になった後、酒の席で一度だけ聞いた幽霊も。幽霊の姿を借りた同期の兄は、弟のことを、ずっと見守っていたのだろう。

 ――どうして、今このことを思い出すのか。

 陸軍大尉となった吾妻亮一は心を無にする。化生に気取られないために。同期と、その兄に報いるために。

 車は夜道をひた走る。定刻まで、あと少しだった。

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アルカロイドは理想世界の幻想を見せるか 短編集 仲原鬱間 @everyday_genki

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