3巻お礼短編 かきごおり
大正二十四年・二月。
「早く閉めて寒いから」
冬季の口癖を忘れず頭につけてから、子爵家の元書生は居間に戻ってきた年少二人に尋ねた。「何それ」
「かき氷です」
「今が夏ならもっといいんですけどね」
「莫迦じゃないの?」
夜通し降り続いた雪のせいで、庭は一面の白。呪われた子爵家の象徴たる李の枯木も、まるで死化粧でも施されたかのように雪を被って往年を思わせる冬の装い。
寒っ。身震いをして、炬燵に足を突っ込んだきりの早乙女は半纏の前をかき合わせた。猫のように背を丸くする。
「こんな寒いのに……まさか、地面に積もったの取ってきたんじゃないだろうね」
茶碗を片手に保持した清司は、炬燵の上に新聞を広げている家主の方を見る。
「前の晩から庭にお椀を置いておけばいいと、黄泉坂さんが」
「ねぇ征君どうしてそんな知識あるの? 雪食べたことあるの?」
黄泉坂子爵は無言でコーヒーを啜った。専用の湯呑みからは、幽かな湯気が静かに立ち昇っていた。
その様子を見て、雪と同じ色の頭の居候が、あ、と声を上げる。
「これコーヒーと砂糖をかけても美味しいんじゃないか、清司。温かいのと冷たいので。なあ」
梅子が提案するも、清司は白米の代わりにこんもり盛られた白雪に視線を注ぎ、「ぼくは餡子と食べます」
「は!? 餡子があるなんて聞いてないぞ!?」
「昨日の晩に作りました」
「わたしが絵を描いている間にか!! ずるいぞ!! 絶対つまみ食いしただろう!! 味見とか言って」
清司は答えず、臙脂色の首巻きを垂らしたつぎはぎだらけの半纏の背が、早足で家の奥へと消えていった。
◇
「僕も、小さい頃に雪食べた記憶あります。近所の子らの真似して。こう、空に向かって口開けて。行儀悪いからやめなさいって、お祖母ちゃんに叱られてしもたけど……でも、お椀の発想はなかったです。冬にかき氷を食べたいとは、思わんかったんで……」
五色円はずらした能面の影へスプーンを運んだ。舌の上で冷たい甘味が溶けていくのを感じながら、睫毛を持ち上げ、上目に向かいの席を伺う。
「冷たぁて、美味しいですね、清司さん」
「――はい」
夏の熱に頬をほんのり上気させた青年は、瞑目したまま応えた。徐に
「……頭が痛いです」感情を語ることのない眉間には珍しく皺が刻まれていた。
「ふふ。清司さんたら、一度にようさん食べるから」
眉根に皺を寄せたまま、一体何の執念か、清司は再び氷を口にする。裾に小豆が添えられた雪山を、懸命とも取れる調子で切り崩していく。
「もっとゆっくり食べんと、また頭痛ぁなりますよ」
「早く食べないと、溶けてしまう……」
「またそんな
人形のように小さな口に氷を含む様を仮面の影から眺めながら、五色はその白雪の肌の温度を想う。少なくとも、自分よりかは冷たいに違いない。
「……黄泉坂さんは、雪を食べたことがあるのかな」
細かな氷片に熱を与える合間に、冷えた息と一緒に零された疑問。五色は不思議に首を傾げる。
「黄泉坂子爵様は、そんなことするようなお方には見えませんけど……小さい頃に食べはったことがある、とか……?」
「父と、食べたのでしょうか」
「ああ、そうかもしれませんね。七つ下でしたっけ。弟さんが、清司さんと同じように空から降ってくる雪を口開けて食べようとしてたん見て……それでお椀も」
「もしそうなら、どうして父は、一緒に雪を食べた時にお椀のことを教えてくれなかったのでしょう。ぼくが父さんと同じことをしたのなら、おそらく、黄泉坂さんは父さんにもお椀のことを教えていたはずです」
今年の二月まで人間をしていた心鬼は、能面の下でくすりと笑って言った。
「清司さんのお父さんは、かき氷やなくて雪が食べたかったんやと思いますよ」
一呼吸分の無音があった。清司は半分ほどの大きさになった氷の小山に匙を差し入れたまま、黒水晶の瞳を瞬かせた。
「そう、なのですか」
◇
差し出した椀を押し返して、弟は雪の地面に仰向けになった。無邪気に笑うように開かれた口に、綿雪が舞い込む。
「よせ、辿。そんなことをしたら風邪を引いてしまうぞ」
「過保護だなぁ、兄貴は。こんなんで風邪なんか引いてたら、どんなに勉強頑張ったって軍人にはなれないぜ」
また一つ雪を口に含んで、兄が言わんとしたことに気づいたように目を伏せる。
「……父さんは、運が悪かっただけだって」
「だが……」
「大丈夫だって。兄貴と俺は長生きする。こんなところでも、しぶとく生きてるんだから」
身体が丈夫なことを証明するように、弟は周囲の雪を胸に掻き抱いた。「ううっ、冷たっ」
「莫迦なことはやめなさい」
「いいんだよ。兄貴と違って俺は莫迦だから」
にかっと歯を見せて笑った直後、弟は盛大にくしゃみをした。いつもなら、は、と威勢よく大声を出すところを、兄に注意された手前、寸前で我慢しようとしたせいで鼻口からいろいろな汁を噴き出すこととなった。
「ほら、言わんこっちゃない。寒い中口を開けて待っていなくとも、椀に積もった雪を後で食べればいいだろう」
「違うんだよなぁ、兄貴。俺は冷たい氷が食べたい訳じゃないんだよ」
「そうなのか」
「そうなんだよ。兄貴は堅物だからわからないかもしれないけど」
黄泉坂征は徐に弟の隣に横になった。透明な液体で顔をべしょべしょにしている弟に習い、天に向かって口を開けた。人間の言葉を使う舌の上に、瞬間染み入る冷たい温度。
「……美味いか?」
「別に美味くはないけど、雪が降ってると雪を食べたくなるんだよ」
「そういうものか」
弟の気が済むまで、兄弟は二人仲良く雪の庭に仰向けになっていた。
アルカロイドは理想世界の幻想を見せるか 短編集 仲原鬱間 @everyday_genki
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