兄を訪ねて

 拳の中に親指を握り込んで、懸命に睨みつけた朱漆の門は歪んでいる。

 兄に用があってここに来た。だが、養家の者たちに叩きつけるはずだった怒声と胸の奥で混じったそれを、果たして自分は正しい言葉にできるだろうか。義兄らの生白い顔を思い出す度に、目の縁が熱を帯び、行き場を失った拳が震えた。

(兄貴は、)

 仄めかされた事実は、追及され裁かれることで一層兄の尊厳を傷つけるものだった。同時に、その献身――今となっては犠牲により家を離れた弟の、未来を託された軍人としての誇りも。道を譲られた者が感じる遠慮がちな後ろめたさを一生付き纏う影にして、それだけは純粋であったはずの感謝の念すら手垢で穢した。

 唯一の肉親のことさえ、自分は何も知らなかった――何も教えてもらえなかった。たちまち潤んだ目を揶揄われた陸幼の学生は、沸き上がる感情を抑え敵前逃亡する他なかった。

 そうして家から遮二無二走ってきたために喉は渇いて張り付き、たとえ兄に向ける言葉が見つかったとしても堰いてしまうに違いなかった。

 努めて深く呼吸し、唇を舐めて湿した。門の向こうには銀杏の黄色い絨毯が敷かれている。

 兄に会わなければならなかった。抱えた感情を伝える術を持たなくとも、対面しなければならなかった。右手に母指と一緒に決意を握り込み、前進する。

「――おや。将校生徒さんが一体何の用かな」

「ここじゃ訓育の講義はやっとらんよ」

 しかし、踏み出した足を止める声があった。

 徒党を組んで狩りをする小狡い獣のように、四、五人の学生が表向きは親切そうな顔をして部外者を取り囲んだ。

「兄に用があって来ました」

「兄上様に!!」親の使いで来た幼な子を褒める老店主のような調子で、面皰面にきびづらの学生は復唱した。「ここに兄上様が通っていらっしゃるのか!!」

「弟が陸幼ってことはさぞかし出来た兄上様なんだろうね」

「弟を軍隊に行かせて、自分はここで勉強か。頭だけかね優秀なのは」

「こらこら他人事じゃないよ。案外ドッペっているのかもしれない。お兄様のお名前は何て言うんだい?」

「…………」

 矢継ぎ早に並べられた言葉に押し黙る。自分ならまだしも兄を馬鹿にするのは許せなかった。拳に力が入り、肩が震え、器いっぱいに注がれた水の張力が再び崩れようとする。

「――あ、」

 と、そこに間の抜けた声。

 声のした方を見ると、周囲の取り巻きたちに代わる代わる何かを持たされながら歩いてくる学生の姿があった。

 その、煤けた硝子のような瞳と視線がかち合う。穏やかだと言えば聞こえは良いが、気の抜けた、締まらない顔をした学生は笑顔ともつかない曖昧な表情を浮かべた。

「これはこれは。比良ひらじゃないか」部外者に絡んでいた者の一人が親しげに声を掛ける。ポケットから取り出した飴を懇ろに握らせながら、「またYノートを頼むぜ」

「うん」頷くともなく頷いて、小ぶりな面はじっと来訪者の顔を見た。

「未来の将校様がはるばる兄上様に会いに来たんだと」

「何だ、貴様の知り合いか?」

 問われて、比良と呼ばれた学生は半開きの口の端をゆるりと上げた。先程までの寝言のような声とは打って変わって、明瞭に発音する。

黄泉坂よみざか君の弟さん。辿たどる君。七つ下の」

「なっ――!?」

 教授公認の最優秀学生――Yノート原本の作者の名前が出た途端、学生らは驚愕に目を剥き、熊か狼でも恐れるかのように周囲を警戒した。

「よ、黄泉坂の弟だと……っ!?」

「また変な冗談を言っているんじゃないだろうね」

「全然似てないじゃないか」

 似ていない。聞こえた言葉に、我知らず俯く。

「本当だよ」比良とかいう学生は、庇うつもりなのか学友の弟の――黄泉坂辿の隣に立った。並んだ顔を飛ぶ羽虫でも追うように見回し、

「もしかして、辿君に意地悪していたの? いけないんだ。黄泉坂君に言ってやろ」

「よせっ」

「やめろやめろやめろ」

「黄泉坂く〜ん」

「……何もされていません。呼ばなくていいです」

 比良は半開きの口のまま、不思議そうに友人の弟を見た。

 いいです。もう一度伝えると、ややあって、そう、と関心を失くしたような返事があった。

 せっかく助けてやったのに突っぱねられて、気分を害したか――思い至って少し後悔したが、他の学生らがそそくさと立ち去っても、比良はそこにいた。地蔵のように、気配だけは穏やかに佇んでいた。

「行こうか、辿君」

 親しげに名を呼んだのは、兄と仲が良いからか。いや、そもそもこの奇妙な人物が、他人と距離を置きたがる兄の親友たり得るのか。関係性を読みあぐねている黄泉坂辿を置いて、比良という学生はてくてく歩き出した。



「自己紹介がまだだった。僕は比良ひら景仁かげひと。黄泉坂君とは………………」

 そこまで言って急に哲学的な顔になった比良の対面に座って、黄泉坂辿は出された湯呑みに口をつけた。ぬるい湯からは、微かに茶の風味が感じられた。

 中途半端な自己紹介は、少し待ったが再開されることはなかった。養家の離れと似たにおいのする研究室に、扱いに困る中途半端な沈黙が流れる。

 居心地の悪さに身じろぎすれば、古い椅子の脚ががたりと音を立てた。

「ご存知だとは思いますが、俺は黄泉坂征の弟の黄泉坂辿です。あの、兄貴は――いや、兄は学校で俺の話をするんですか?」

 痺れを切らして尋ねると、比良景仁はゆっくりと首を横に振った。

「しないよ。

 ――黄泉坂君とは仲間みたいなものかな。同期なんだ。お昼ご飯を一緒に食べたりもする」

 それはただの同期では駄目なのか。それより何故語られていないという弟の存在を知っているのか。口先まで出かかった質問は、カラコロという軽い金属音に遮られた。

「食べる?」

 言いつつ、比良はドロップの缶を差し出した。缶の蓋は開けられていて、どうやら手を出せとのことだった。

 おずおず机の上に手を出すと、馴染みの神社の鈴を想わせる音の後、薄荷味の飴が一つ手のひらの上に転がった。

「ありがとうございます」

 礼を言って、白い飴を口に含む。どちらかというと甘さよりも辛さの勝る、苦手な味がじわりと広がった。

 それでも、飴を舐めていると少しだけ気持ちが落ち着いた。

 薄荷味の飴は、兄の好物だった。弟が嫌って残した白い飴を兄は好んで食べ、他の味は好きではないと言うから、弟は遠慮なく甘い飴を食べることができた。

「残るんだよね、薄荷味。黄泉坂君も要らないって言うし。困ってたんだ」

「それは……」

「その制服、格好良いね」

 向かい合う存在は、笑うともなく笑っていた。

 意識は嘲笑と共につけられた傷のところへ漂着した。善意で贈られた飴に顔を綻ばせ、陸幼の制服に着られた弟に似合っていると声をかけた兄の顔が浮かぶ。

「兄は、」

「黄泉坂君は優秀だから、教授の手伝いをしてる。まだ時間がかかると思うよ。伝言があるなら聞くけれど。それとも、ここで待つ?」

 僕は構わないよ。長閑に告げつつ、比良はノートを二冊広げた。片方には、見慣れた字が並んでいた。

「……待ちます」

 兄に会うために、ここに来たのだ。右の拳の中に親指を握り込み、答えた。

 比良は鉛筆に錆びたナイフを滑らせながら、「そう」

「辿君がどうしてここに来たか、当ててみようか」

 器用に削られた芯の先端を検分しながら口にした。「結構当たるんだよ」

「いいえ、結構です」

 占う前から、知られたくない理由を見透かされていそうな気がした。

 早く兄に来てほしかった。会いたかった。その反面で、何を伝えればいいか依然言葉を見つけられないでいる自分がいた。

 宛もなく思考を彷徨わせて、ふと、先程の学生たちの態度を思い出す。

「兄は、大学では」

「同期の中で一番優秀で、一番人付き合いが悪い。無口で無愛想だから、怒ってるみたいだって怖がられてる」

 思った通りの回答だった。力ない、自嘲めいた笑みが溢れる。

「兄貴は、人見知りだから」

「そうなんだ」

「周りが酷い奴らばっかだったってのもあるけど、他の奴らとは、打ち解けようとしない……俺にばかり甘い」

 義兄弟をはじめ、自分たちを引き取った子爵家の者たちとの関係は良好とは言えず、学校でも、友人らしき友人はいなかったと聞く。

 弟は兄の対人関係を案じる傍らで、自分は心を許され、信頼されているのだと感じていた。とびきり優秀で自慢の兄の、唯一の心の拠り所であることを誇ってさえいた。

「先々週の日曜も遊びに誘われてたけど、断っていたのは黄泉坂君が人見知りだからなんだね」

「いえ、その日は、俺と」

「なるほど。じゃあ、それは『やむを得ない事情』だ」比良は気のない相槌を打った。

「剣道部の人が、『やむを得ない事情』がある場合を除き必ず出席すること、って黄泉坂君に伝えたら、黄泉坂君はすかさず、その日はやむを得ない事情があるので欠席します、って返したんだよね。やむを得ない事情が何か、訊いても教えてもらえなかったのだけれど。辿君なら仕方がないね」

「……俺なんかより、他の奴らと遊べばいいのに」

 一月ぶりに会う兄に、何も知らずに勉強を教えてもらって、学校の話をして、嬉しそうな顔を見て安心したような気になっていた。兄は、弟に道を奪われても幸せにやっているのだと。

「良いお兄さんを持ったね」念を押すような調子で比良は言った。複雑そうな顔をする同期の弟に、「気に負う必要はないよ。黄泉坂君は、辿君といるのが幸せなんだ。僕にはわかるよ」

「本当に、兄貴は――」

 幸せなのだろうか。本来行くべき道を捨てて、歳の離れた、親の顔すら覚えていない、味噌っかすのような弟の面倒を見る羽目になって。

「不安?」

 問われて、俯く。

 自分なんか、いなければよかった。そう思う瞬間があった。似たようなことをつい零してしまったとき、馴染みの少女は否定してくれたが。きっと、兄も口では否と言うのだろうが、本心はわからない。

「そういう年頃なのかな」比良は、目の前の少年の挙動を見守っていた。観察していた。

「別に、」年頃、という言葉で表されたのが気に食わず、唇を引き結ぶ。

 比良は笑っているのかいないのか。

「そんなに不安なら、試してみようか。黄泉坂君が、辿君のことをどう思っているか。

 ――どこか、行ってみたい場所はある?」

 言われて、何となく、昔行った動物園を思い浮かべた。

「わかった」

 心の中を読んだように、柔らかい返答があった。

 ふと、視界が暗転して――気がつくと、ベンチに座っていた。夏の日差しが差していて、人混みの向こうには象がいた。遠い記憶の中、幼い日の自分は泣いていた。

 そうだ。その時も兄を探していた。探すうちに迷子になって、それで――

「辿っ!!」

 声がして、現実に戻った。白昼夢でも見ていたようだった。

 目の前には、取り乱した兄の顔があった。初めて見る表情に、僅かばかり戸惑う。

「早かったね、黄泉坂君」

 一体何があったのか、比良は椅子に座ったまま床にひっくり返っている。

 兄は肩で息をしていた。

「辿君が、黄泉坂君が幸せか不安だって言うから試してみたんだ」逆さになったまま、比良。

「大丈夫か。何ともないか」

 学友を無視して、兄は弟の肩に手を置いた。顔は向き合っているのに、お互いに目を合わせることができなかった。

「……何ともない」子供のように扱われるのも、意地の悪い義兄に付け込む隙を与えた元凶が一人前に気遣われるのも嫌だった。無愛想に呟く。

「黄泉坂君って、幸せ?」

「……何か、あったのか」

「別に」さりげなく、兄の手を払った。「俺には、何も」

 黙した兄は何か考えていた、というより、探っていた。何につけても、兄は鋭かった。

 言われる前に、先手を打つ。「兄貴は――」

「お前は何も心配しなくていい。不安に思うことなんて何もない。学校の勉強なら、私が教えるから」

 休日しか会えないが、それでもお前がいいならいつでも付き合うぞ。弟の声を遮って、兄は前回会った時と同じように笑む。

 ――違う。無音で口が戦慄く。首を振ることすらもできなかった。

「黄泉坂君がちゃんと幸せか、辿君は不安なんだって」再度比良。

「同期は、大切にしろよ」三度目の無視を決め込もうとした兄に向かって言った。

「そうだよ、黄泉坂君」

 賛同する声があったが、流石に自分で言うのはどうかと思った。

 兄は目だけを動かして同期を一瞥した。

「そうだな。辿の言う通りだな」顔つきに険はなかったが、内心はかなり不服だということが察せられた。

 弟のために、兄は笑顔を作った。

「お前が何を心配することがある。私は幸せだとも」

「嘘つけ」

 咄嗟に反駁すれば、兄は黙った。日が翳るように笑みが消え、その裏で思考し、計算していた。

「……何故そう思う。嘘じゃない」

 顔色を窺いながら意図的に発せられた言葉は、最早信じるに値しなかった。

 身体の奥底から、熱く沸るものが込み上げてくる。鋭い瓦礫を含んだ奔流のように、内部を傷つけながら。「――兄貴の莫迦野郎」

「俺なんか、いなきゃよかった」

 義兄らの嘲笑を目にした時から抑えていた感情が、ついに溢れ出た。

「いない方が、兄貴は幸せだった」

「そんなはずないだろう。莫迦なことを言うな」

「辿君は優しいね」

 横槍に首を振る。

「優しくなんかない。全部、兄貴のおかげだ――兄貴のせいだ」

 言葉にされた想いは、自傷するように涙の堰を切った。

 当惑したような兄の顔がたちまち滲んで――情けない顔を見られないように、黄泉坂辿は部屋を飛び出した。


 兄は何があっても泣かない。

 泣くのは、自分が劣っているからだ。出来損ないの弟だからだ。

 兄の背ばかり見ている不出来な弟は、その背を追い越すことが敵わないことを理解していた。

 だから、せめて胸を張って、前を向いて生きようと決めていた。兄に勝るところはなくとも、その存在に恥じるところのないように、正しい者で在ろうと。

 それが、何もかもを与えられた者が恩に報いるための、たった一つの方法だった。


 敷地内の池に映る自分の顔は、鮮明でなくとも兄に似ていなかった。

 血の繋がりさえなければ、全てを諦め不貞腐れて、自棄になることができたのかもしれない。だが、自分のいない家族写真が、そうはさせてくれなかった。

「……俺が、飛び込むとでも思ったかよ」

 腕を掴まれて、振り返る。

 足音なんて一つもしなかったのに、そこには兄がいた。父親似の怜悧な顔には、追い詰められたような色が浮かんでいた。

「私は、どうすればいい。どうすれば、私が幸せだと信じてくれる」

「兄貴は賢いから、わかるだろ」右腕を掴んだままの手を無愛に振って払う。

「……わからないから、訊いているんだ」

 意地の悪い受け答えに、兄は目線を落とした。

 消沈した様子に僅かばかり心が痛んで、罪悪感に反抗するようにそっぽを向いて唇を尖らせる。

「じゃあ、これからは俺なんかに構わずに、自分の好きなことやって自分のために生きろよ」

「それでは、私が幸せではなくなってしまう」

 思わず兄の方を見た。真剣な面差しだった。

「……そんなに出来の悪い弟の世話を焼きたいかよ」

「お前の世話を焼くのが生きがいなんだ」

「そんなに勉強を教えたいなら塾でもやればいい。俺みたいな頭の悪い奴に教えるのは得意だろ」

「何故私が他人の勉強を見なければならない」

「何故って、教えるのが好きなんだろ。何で俺は良くて他人は駄目なんだよ」

「お前が他人と同じな訳がないだろう」

「血の繋がった弟だからか?」

 ――そうだ。一番肯定されたくないところで、兄は頷いた。

 ずっとその立場に甘んじていたくせに、いざ明言されると矜持が傷ついた。

「……結局、義務感ってやつか」

 兄であるから、弟を守らなければならない。情や信頼には一切関係なく、兄は規律に従って弟の世話を焼き、自分とその将来を犠牲にして道を空けた。

 ただそれだけのことだった。

「本当に、よく出来た兄上様なこった」

 自分に言い聞かせるように吐き捨てると、兄は閉口した。

「……お前は、何もわかっていない」

「わかってないのは兄貴の方だろ」

 聞き捨てならない科白を耳にして、声を尖らせ噛みつく。

「俺が莫迦だからって、莫迦にしやがって」

「していない。それにお前は莫迦ではない」

「じゃあ何だよ、阿呆とでも言いたいのかよ」

「阿呆でもない。強いて言えばわからず屋だ」

「兄貴だってわからず屋だろう。何自分のこと棚に上げてんだよ」売り言葉に買い言葉で言い返す。

「棚に上げてなどいない。自覚している」

「自覚があるなら尚更俺に言う資格はないだろ。同じわからず屋のくせに」

「改善しようとはしている」

「本当かよ。努力したようには見えないぜ」

「お前を困らせてしまうから、どうにかして治そうと思ったが……残念ながら、手の施しようがないようだ」

 兄は薄い唇に自嘲めいた笑みを浮かべた。犬歯の先がちらりと覗く。

 何だよ。弟は口の中で呟く。言い合いになると、兄が折れるのが常だった。いつも胸の内に隠した本音の端だけ見せて、全力でかかった弟を負けた気持ちにさせて引き下がった。

「はぁ、」肩を竦めて強がって見せる。「全く、困ったもんだ」

「――お前は、こんなわからず屋の兄は嫌か?」

 力無い声で言われて鼻白む。

「別に」決まり悪く頭の後ろを掻きながら、「兄貴は何でもできるから、少しくらい欠点があってくれた方が俺は助かる」

「そうか」安心したように、兄は深く刻まれた眉間の皺を和らげた。

「わからず屋で出来損ないの弟がいて困ってるのは兄貴の方だろ」

「困らない。いない方が困る」

「わからず屋な上に寂しがり屋なのかよ」

「そうだ。辿がいないと耐えられない」

「それは言い過ぎだろ」

 指摘すると、兄は無音で否定した。

「……私はお前が思っているほど、出来た人間ではないから。こんな私でもいいと言ってくれるお前がいないと生きていけない」

「大袈裟だな。なら、悩み事の一つや二つ相談してくれたっていいだろ。兄弟なんだから。そんなに頼りないかよ、俺は」

「いや……」

 口ごもった兄をよそに、足元の小石を拾い上げた。

「俺、今日は兄貴に一言言ってやろうと思って来た」

 水面に向かって放る。石くれは次々と波紋を生みながら八度跳ね、静かに秋の池に呑まれた。

「すごいな。新記録だ」兄は七つの弟を褒めるのと同じ調子で手を叩いた。

「言ってる場合かよ」わざとらしく溜息を吐き、当然の如く二投目の小石を差し出してきた掌を、手首を握って止めた。

 手から石が零れ、かつん、と固い音。

 真っ直ぐに、兄の目を見る。

「兄貴の莫迦野郎。どうして黙ってたんだよ」

「…………な、何を……?」

「とぼけるな。俺に黙ってたこと、あるだろ。俺の知らないところで――」

 それ以上言えず、言葉を切った。兄はもう片方の手を顎に当て、心当たりを探しているようだった。

「俺が知らなかったら、ずっと黙ってるつもりだったんだろ」

 骨ばった手首を握る手に我知らず力がこもる。

 明らかにしたところでどうなる――それでも自分を、弟を頼ってほしかった。せめぎ合う内外への怒りが均衡を保ち、再度感情が決壊するのをかろうじて防いでいた。情けない顔を晒してしまわぬよう、懸命に目を見開く。

 無音の攻防が続いた。「あ」やがて、何か思い至ったように兄は顔を上げた。さりげなく弟の手を解き、するりと後退る。

「謝る。済まない」

「何で兄貴が謝る。兄貴は悪くないだろ!」

 またしても自己犠牲で済ませようとする兄に、声を荒らげ詰め寄った。

「済まない」

「おかしいだろ。だって兄貴は――」

 兄は両手で顔を覆い、深い息を吐いた。

「……から……」ややあって、指の隙間から聞こえた、兄にしては不明瞭な声。

「え?」

「可愛かったから……」

「は?」

「昔の話だ。し、お前は寝ているものとばかり思っていた。あまりにも、お前が可愛かったから、つい、その、頬に……良くないことだとはわかっている。反省するから……」

「どういうことだ説明しろ」

 

 ――尋問を終えた黄泉坂辿は、大きめの溜息を吐き出した。

 済まない。真摯な謝罪が聞こえた。

「もう、俺に隠してることはないな?」

「誓ってない」

 断言した兄の真面目な顔を見、脱力する。

「兄貴の莫迦野郎……」

「申し訳ない。こんな兄を許してほしい。お前の可愛さに抗うことができなかった」

「帰る」

「待て。ちゃんと話そう。このままにしないでくれ」

「もういい。解決してないけど解決したから――兄貴はとんでもない莫迦だ」

 追い縋ってくる兄を振り切りながら、莫迦は莫迦でも弟莫迦だと、黄泉坂辿は思った。

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