2巻お礼短編 あいすくりん

※2巻の内容を含みます



 個室のドアが閉まるのを見届けてから、修司は軽く手を挙げた。

対面の席の横に人型の闇が生じ、現れたのはリネンの開襟シャツ姿の兄弟。

「あいすくりんだ」

 テーブルの上の物を見て、清司は言った。面差しに幼さは残っているが、修司と同じくスマートで優雅な身体つきの十七歳だった。

 椅子の背に両手を置いて、身を乗り出さんばかりにお目当ての甘味を凝視する自分と同じ顔。修司はぴくりと口の端を痙攣させる。

「いやしんぼめ。そんなじっと見てたら溶けるよ」

 上等な革靴を艶めかせた足を組み替えつつ指摘すれば、清司は視線はそのまま椅子を引き、

「少し溶けていた方が、ぼくの口に合うのかもしれない……」

「あっそ」

 どうでもいい情報だった。着席してからも、清司はずっとあいすくりんから目を離さない。

「修司」

「何」

「スプーンが一つしかないよ」

「はぁ……ぼくはこれ飲むから、お前が食べればいいよ」

 修司は一緒に注文したソーダ水を引き寄せた。涼しげな色の飲み物を湛えた瀟洒なグラスの中で、透明な氷がからんと音を立てる。

「修司は食べないの」早速スプーンを装備した清司が首を傾げる。

「別に。そういう気分じゃないから」

 修司は無愛想に応えた。この世の裏側で待機している兄弟の分もと、一人で二つも注文する訳にはいかなかった。ここの女給たちは噂話が好きだから、食いしん坊の青年の言動はそのうち父に密告されることだろう――美貌の侯爵家長男の笑顔を引き出す材料として。スプーンを二つ用意してもらうのも不自然で、修司は悩んだ挙句ソーダ水を頼んだ。

 白黒の世界で清司と話すうちにあいすくりんの口になっていたが、無表情な兄弟の熱意に、少し気持ちが削げた。

「冷たくて甘いね」

「あっそ」

 いただきますをして食べ始めた清司を上目に睨みながら、ソーダ水を啜る。

 修司のように玩具を欲しがることもなく、無欲で手のかからない子供であった兄は、何故か食欲だけは弟以上に持ち合わせていた。米も弟の三割増しで食べた。

 入れ替わった時も、急に食の細くなった修司を母が心配した程。表層に浮かんできた不快な記憶を再び深く沈め、兄の名を名乗り続けている弟はストローに息を吹き込んだ。

 薄青色の水面が、ごぼりと沸き立つ。

「修司」

「何」

 視線を上げれば、目の前にはあいすくりんの乗ったスプーンがあった。

 修司の方へ身を乗り出して、清司は端に飾りのクリームをつけた小さな口を開く。

「はい、あーん」

 父からもらう時と同じように、あ、と口を開きかけ、修司は我に返った。

「要らないって言ってるだろ!!」

 そうなの、と清司はスプーンを引っ込め、自分の口に運んだ。最後の一口だったらしく、銀の器は空になっていた。

 夢中で食べて、なくなる寸前で弟の存在を思い出したのか。そこまであいすくりんに焦がれていたのか。修司は自身を落ち着かせてから、食い意地の張った兄を嗤った。

「で、話って何?」

 切り出すと、清司は食べ終えた氷菓を横に避けて、居住まいを正した。


 ――気をつけて。付け足された言葉限りの気遣いに、修司はふん、と鼻を鳴らした。

「それだけ? 用が済んだならとっとと帰れよ。お前の分もぼくが払っといてやるから」

 苛立ちを気取られぬように、修司は手を翻す。

「いいの」

「いいよ。お前の分くらいなんともない」

「じゃあ、次はぼくが修司にご馳走する」

「へぇ、そんなお金あるんだ」

「黄泉坂さんからお給金もらってるから」清司は席を立った。

 あっそ。修司が言いかけた時、性急なノックに続いてドアが開いた。

「修司様! お越しになられているならお声をかけてくださいませ!」

 闖入者は年若の女給だった。父に追従しているだけの修司の愛想を真に受けている節がある。

 いっぱいに喜色を浮かべていた女の顔は、服装に右目尻の黒子、親指を握り込んでいるか否か、驚愕と無表情、まるで間違い探しのような双子の姿を交互に見比べるうちに青ざめた。

 まずい。由々しき事態を悟り、修司は片割れに視線を遣った。

 清司は修司を見返し、今にも絶叫せんばかりの女給が見つめる中、ゆらりと身体を揺らめかせ――「ありがとう。またね」消えた。

 女の甲高い叫びが店中に響き渡った。

 修司は苦りきった顔で、虚空に向かってしっしっと手を振った。自身の領域に生じた極めて希薄な違和が遠ざかっていくのを感知し、ひとまず安堵する。

「し、しししし修司さまがっ、ふふふ、二人……!?」

「何を言っているのさ。ぼくは一人しかいないに決まっているだろう?」

 英国で父と揃いで仕立てた上着を羽織り、修司は床にへたりこむ女給に声をかける。

「でっ、でも今……!!」

「ぼくが二人もいるような幻を見るなんて、そんなにぼくに会いたかったの?」

 心底面倒に思いながら、修司は女に手を伸べた。

「もっ、もちろん会いたかったですけれど、でも、今本当に……!! ど、ドッペルゲンガーみたいに……」

「は、ドッペルゲンガーだって?」

 女の手を振り払いたい衝動を抑え、修司は肩を竦める。

「そんなもの、いるわけないさ。ぼくはこの世に一人だけ。ぼくとそっくりな幻なんて、存在するはずないさ」

 不安げに修司を見返す瞳には、引き攣った笑顔が映っていた。

「ぼくが二人いるなんて、ありえないよ。鎖々戸修司はぼくだけなんだから」

 自分にも、修司は言い聞かせた。

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