1巻お礼短編 フルーツサンド
手間のかかる。文句をその一言に集約して、黄泉坂は歩き出した。
「お手間をおかけし、すみません」
無機質な声が背にかかるが、足は止めない。先をゆく自分と、後ろをついてくる年少者。その構図がかつての記憶と重なるが、振り返ったところで、望むものが見られることは二度と無い。血縁の無謀に怒る兄を演じて見せる対象は、もういない。
僅かに視線を上げる。障子紙のような薄い雲越しの朝日に照らされ、景色は淡く均一に明るい。今日は天気が良い。黄泉坂は遠くのものを見るように目を細めた。
《あちら側》を経由すれば家はすぐだが、白黒の景色に潜る気にはなれなかった。化生ではなく人間の側の世界を、取り留めもなく目に映しておきたい心地だった。
雲間から覗く陽の影を水面に散らしている日比谷濠を横目に眺めていた時、ずっと無言だった後ろから、ぐぅ、という腹の呻きが聞こえた。黄泉坂は十歩ほどそのまま歩いて、足を止める。
「……何か食べるか」
問うと、新入りの心鬼は、はい、と平坦ながら明瞭な声を発した。
駅の方へ歩いて、道沿いにあった喫茶店に入る。早乙女が面白がって行く方ではない、普通の純喫茶だ。
外の往来を望める窓際ではなく奥の席を指定し、通された席で黄泉坂は何も言わずに品書きを清司に渡した。清司は家主にも見えるようテーブルの上にそれを広げるが、黄泉坂は一瞥をくれただけで、清司のように字列に眺め入ることはしなかった。
食べることに関心はないし、味の優劣もよくわからない。黄泉坂は品書きを一目見て、一番上に書いてあった卵サンドに決めた。卵は栄養がある。
清司は姿勢よく腰掛けたまま、じっと品書きに目を落としている。何をそんなに迷うことがあるのか。同類の食への関心を、黄泉坂は怪訝に観察した。
「フルーツサンドなんていかがです?」
最近始めたんですよ。水を運んできた女給に勧められて、清司は顔を上げて黄泉坂を見た。
「……好きなものを食えばいい」
「では、ぼくはそれで」
内臓でも甘味でも何でも食うのだな。注文を取り終えた女給が去り、水を口にしながら黄泉坂は思う。
やがて心鬼二匹分の朝食が運ばれてきた。
黄泉坂が自分の分に口をつけたのを見て、清司もフルーツサンドを形の好い唇に含んだ。
「美味いか」
「甘くて、ぼくの口に合います」
そうか、と黄泉坂は応えた。食物が自分の口に合うかなど、考えたこともなかった。
「そちらは、美味しいですか」
聞き返されて、黄泉坂は答える代わりに自分の一切れを清司の皿に乗せた。対価として、クリームと一緒にパンに挟まれているにも関わらず付け合せとして添えられている苺をいただく。
「……何だ」
「いえ、何も。ありがとうございます」
二秒ほどの凝視があったが、清司は贈られた卵サンドを齧り、黄泉坂は苺を口に入れた。甘酸っぱいが、口に合うかと言われればそうでもなかった。
「美味しいですか」
「……普通だな」
「そうですか」
答えれば、相変わらず無感情だが含みのある言葉が返ってくる。
そういえばずっと昔にも同じようなことがあった。そう思い至り、黄泉坂は微かに口の端を緩めた。
「……帰りに苺を買うか」
はい、と清司は明確に返事をした。表情もなければ読み取れる心もないが、その様子は同じように提案されてぱっと心を明るくした弟と重なった。
小さな口で少しずつ食べ進めて、黄泉坂より大分遅れて食べ終わった清司の口の周りには白いクリームがついていたが、黄泉坂は特に指摘はしなかった。
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