黄泉坂教授代理の笑顔の原因

※2巻のキャラクターが登場します



黄泉坂教授代理の笑顔の原因


「――以上」

 荷物をまとめ、教壇を降りる。静寂の空間を後ろ手に閉ざせば、途端学生らが脱力する気配。不真面目で私語をする者もいると聞いていたが、人の子らは今のところ至極静粛に授業に臨んでいた。彼らのあまりの緊張に、心の鬼たる黄泉坂が気の詰まる思いをするほどだった。

 ちょうど一週間前、哲学史の教授が腰痛のため身動きが取れなくなった。彼は今も大学に残り研究に励んでいる、自身の知る中で最も優秀な卒業生に代理を頼んだ。黄泉坂征は人の子に哲学を教えることになった。

 他人に物を教えるのは秀才の数少ない不得意の一つだった。他人に勉強を教えるには相手の知能の程度を理解し、また自分の言っていることを相手に理解させる必要がある。かつてそれができずに、比良と十数秒見つめ合ったことがある。「どうして?」「何故」。比良が疑問符を浮かべる時、黄泉坂もまた疑問符を浮かべていた。結局比良は試験中に鉛筆を転がし、学友ならば助け合え勉強を教えてやれと黄泉坂はかの教授から注意を受けた。黄泉坂は比良にノートを見せざるを得なくなり、比良は丸写しした秀才のノートを売り物に商売を始めたが、黄泉坂にとってはそちらの方が対面で教えるよりも格段に楽だった。同類の気の抜けた顔を見る必要もない。

 ――弟にならいくらでも付き合えるが。肉親から離れるための勉強など永遠に理解してくれなくとも構わないものを、弟は兄の教育を素直に吸収し、陸幼に入り、今や将校となるため陸士で学んでいた。

 兄貴は教えるのが上手いな。弟は言ったが、弟以外に同様の労力を割き細心の注意を払い、同じ教育を施すことなど不可能。比良の件もあり、無駄な行為であると本能的に切り捨てる。兄の面を外した心鬼は冷酷かつ合理的だった。授業も教授が床で書いた申し継ぎ通りに淡々と進めた。質問もしてこないから理解できているのだろう。

 黄泉坂は何人も追い抜きながら構内を行く。明日は休日で、外出を許された弟と二人で出かける約束をしていた。課題の点検は何としてでも今日中に終わらせる必要があった。

 黄泉坂は僅かに顔を顰め、さらに足を早める。気づかないふりをしていた、しかし確実に接近してくる同類の気配。

「黄泉坂くーん」

 半分夢見心地でいるような長閑な声。黄泉坂は足を止めない。

「黄泉坂君、さっきの講義でわからなかったことがあるのだけれど、」追いついた比良は小走りのまま隣に並んだ。

「貴様は教場立ち入り禁止のはずだ」

 同期が哲学を教えるとどこぞより聞きつけた比良は、こっそりその講義に出席した。無人の席に同類の気配を感じ取った教授代理は、学生らに隣同士での議論を命じ、巡回のついでに空席の虚空に向かって教本を振り下ろした。二百頁分の紙束は強かに何かを打ち、あ痛、と小さく悲鳴が上がった。後で問い詰めても比良は知らぬふりを決め込んだが、黄泉坂は同窓の参観を固く禁じた。

 比良は、違うよ、と緩やかに否定する。

「学生からの質問。今日習ったところがあまり理解できなかったみたい」

「何故貴様越しなのだ。直接私に訊けばいいだろう」

「黄泉坂君、怒ってるみたいで質問しづらいんだって。ちょうど君と仲良くしている僕が通りがかったから、よろしく頼まれた。学生皆、怖がっているみたいだよ、黄泉坂君を」

 貴様と仲良くした覚えはない。忘れず釘を刺してから、黄泉坂はふと立ち止まった。「……貴様はいいのか」

「貴様には話しかけるのか、学生は」

 二、三歩追い越して振り向いた同類は、疲れたのか、対価として頂戴したのであろう飴を口に含む。

「うん。僕のことは怖くないんじゃないかな。飴もくれたし。僕の存在を、とても有難がっていたよ」

 飴玉を転がしながら言って、くすんだ黒硝子の目を笑むように細める。「黄泉坂君、鬼軍曹って呼ばれているみたいだよ」

 その特有の表情に勝ち誇ったような優越を見出し、黄泉坂は歯噛みした。よりにもよって比良に、人の子に親しまれる人間味という点で敗北した気がした。

 比良は片頬を飴玉で膨らませる。

「僕は仏様とまで呼ばれている……」

 貴様が仏な訳があるか。反論は心の内に留め、黄泉坂は懇切丁寧に質問に答えた。比良を追い払ってから、人間味について深く思考した。あの厚顔が服を着て歩いているような同類に人間性で劣るなど、許容できるはずがなかった。


「……ということがあった。私は、怒っているように見えるのか」

「いつも仏頂面だからな、兄貴は。顔の作りもあるだろうが、他人からしたら恐ろしいと思うぜ」

 おまけに無口だし。言って、黄泉坂辿はカステラを口に含み、そのままホットミルクを流し込んだ。

「たまたま俺と兄貴が一緒にいるのを見た同期曰く、俺を丸々正反対にしたのが兄貴らしい。精悍なお顔立ちで貴様よりも軍人らしいな、だと。吾妻の野郎、兄上が狼なら貴様は仔犬だとか抜かしやがる」悪態をつく弟は白い髭を生やしていた。「顔半分そっぽ向きやがって」

「どうすれば恐くなくなる」

「俺の真似をしたらいいんじゃないか」美味そうにカステラを頬張りながら、弟は答えた。「仔犬の俺には狼のような威厳は備わっていないらしい」

「仔犬……」

「ちなみに犬種は柴犬だそうだ。ああ、ほら、兄貴はあまり笑わないから、笑ってみるのはどうだ? 学生も少しは安心すると思うぜ」

 こうか? 黄泉坂は言われた通りに口角を引き上げた。

「胡散臭い笑顔だなぁ」弟は可笑しそうに笑み、きりりと太い眉の間を指で示す。「皺が寄ってるぜ」

「……慣れないことをするのは難しい」兄は自分の眉間を揉みながら、弟と二人きりで過ごす幸福を一身に感じていた。

「見ろ兄貴。俺の餓鬼みたいだと評判の笑顔を手本に練習すればいい」

 破顔する弟を前に、ふ、と黄泉坂は微笑む。

「本当に子供のようだな。昔から何一つ変わっていない……」

「兄貴が言うなら同期の評も間違いないな」黄泉坂辿はにかっと白い歯を見せる。「あ。兄貴、今ちゃんと笑えてるぜ」

「この顔か」

「そう、その顔だ。ちぇっ、兄貴は笑っても仔犬にはならないか。俺も父さんに似れば良かった」

「お前は母親似だからな」両親との相似を引き合いに出せば、あたかも自分が正常な人間のように感じられた。人を模した顔が浮かべる表情も、今ばかりは真実に違いない。

「その顔なら学生も怖がりはしないだろう。それはそれはお優しい教授様に見えるぜ」

 作りを忘れぬよう顔に手を遣る兄に、弟は笑いかけた。兄は指南の礼にカステラを追加で注文し、甘味に飢えた弟は温かい牛乳を片手に何切れも口にした。至極幸せそうなその顔つきに、化生の兄は忌々しい自己存在が洗われる心地がした。

「また来ような、兄貴」帰り際そう言って、弟は同期への土産を買った。黄泉坂は満足していたので、比良の餌にと一箱持ち帰った。終始白い口髭を生やしていた愛しい顔を思い浮かべる度、化生の顔には笑みが満ちた。



「あの、比良様」

 後日、構内の池のほとりでカステラを齧っていた比良を、数名の学生が囲んだ。つい先日、黄泉坂助教の講義について比良に質問を頼んだ学生らだった。

「どうしたの?」若者たちの表情は深刻だった。躊躇いに揺れる人の子の気に心鬼は小首を傾げる。

「あの、僕たちの鬼軍曹――ではなく黄泉坂教授代理が……」

「黄泉坂君が、どうかしたの?」

 逡巡の間を置いて、意を決したように、学生の一人が口を開く。

「教授代理が――笑うようになったんです……!!」

「そう」比良は手に持ったままのカステラを食んだ。温めた牛乳なんかと一緒に食べるとさぞかし美味いだろうなと思った。

「驚かれないんですか!? 今日もすごくにこやかに笑っていらっしゃったんですよ!?」

「あの鬼軍曹が笑うなんて、きっと今に良くない事が起こるに違いない」

 よく見たら目が笑っていなかった。たまに閻魔帳に何か書いている。笑顔で油断させておいて全員単位をもらえないのではないか……等々、学生らは比良の意見を求め口々に訴えた。比良はもそもそとカステラを咀嚼していた。

「――黄泉坂君は、人見知りなんだよ」カステラに集中したい比良は、そう結論づけた。

「人見知り……? 黄泉坂助教がですか?」

「うん。ようやっと、君たちにも慣れてきたんじゃないかな。優秀な黄泉坂君も、急に代理を頼まれて緊張していたみたいだから。笑っているのは、君たちに気を許した証拠だよ」

「そ、そうなんですか……!?」

「そうそう」

 比良の後押しもあって、学生たちは黄泉坂助教はようやく人馴れした野生動物なのだという認識を共有した。有難い相談役たる比良様仏様に感謝の供物を捧げ、懇ろに拝んだ。比良様仏様に甘味を供え、手を合わせて崇め奉ればその晩、望む夢が見られるという噂が学内でまことしやかに囁かれていた。

 哲学科の学生はようやく人馴れした野生動物に餌を与えるように、笑顔を見せるようになった黄泉坂助教に甘味を贈った。仏頂面の助教はさながら鬼軍曹のようで恐ろしさばかりが目立ったが、表情を和らげるとその顔立ちに目がいくようになった。学生らは謎多き助教のさらなる追加情報を求め、その友人たる比良様仏様に飴やら饅頭やらを手渡した。


「……やる」

「くれるの?」

「学生からもらった。私は食わん」

 甘味に興味はなく、弟のためにとっておこうにも日があくため、黄泉坂は教え子から受け取った供物を厚顔な同窓に横流しした。理由は知らないが、比良の袂は前にも増して膨れていた。

「黄泉坂君、風が吹けば桶屋が儲かる、って知ってる?」

 手に入れたばかりの饅頭を齧りながら比良は言い、黄泉坂は無視を決め込んだ。教授の腰痛は改善の兆しを見せず、黄泉坂は引き続き人の子に哲学を教えねばならなかったが、講義の間ずっと弟の顔を思い浮かべているお陰で以前よりかは格段に気が楽だった。

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