アルカロイドは理想世界の幻想を見せるか 短編集

仲原鬱間

極楽にて

 大正二十一年、五月。

 酔って暴れて頭を打って入院。そして記憶喪失。そんな不名誉な負傷から回復したわたしを待っていたのは、算盤にヴァイオリンに英語に合気道に剣道を習得し、立派な出汁巻き卵にビーフシチューにコロッケまで作れてしまう万能の後輩・清司。

 ――そして、奴に多くの仕事を取られたことによる、気の遠くなるような「暇」だった。


「早乙女さぁん、わたしも活動写真に行きたいですぅ」

だよ」

 即答だった。意地を捨ててちょっとしなを作ってみたのに。

 梅子君はお留守番ね。そう言い残して、三揃いのスーツ姿の早乙女はさっさと出かけてしまった。新入りがピカピカに磨いた靴を履いて。

 唇を尖らせ、わたしはとぼとぼと居間に戻る。しんと静まり返った室内では、先日発掘された鎧飾りが元武家の威光を放っていた。鈍く輝く鎧と二人きり、圧迫感に小さく息を吐く。清司も黄泉坂も外出していた。わたしと違って有能な心鬼である清司を、黄泉坂は重宝しているようだった。仕事と言いつつ頻繁に二人で出かけている。二人とも仏頂面で帰ってくるのでどんな事をしているのかはわからないが、たまに清司の小さな口の横に食べかすがついていることがある。黄泉坂に美味いものを奢ってもらっているに違いなかった。

「新入りの、口についてるこしあんに、季節感じる、柏餅かな……」

 言いつつソファに寝転がって、はぁ、と溜息を零す。我ながらに駄作だった。

 この機に何か勉強でもするか。黄泉坂にドイツ語を教えてもらうとか。いや、どうせご教授願ったところで辞書を渡されるのがオチだ。そもそもわたしに勉強は向いていない。知識を有効活用するところを想像できない。労力の無駄だ。

 ――はぁ、とまた溜息を吐く。

 暇だった。とにかく暇で、暇だった。


 久々に外出を許されて、何か身になるような趣味はないかと考えながら、近所の池で鯉に餌を遣った帰り。

「ただいま戻りました〜」

「ちょっと征君!!」

 廊下の奥から聞こえる、狼狽するような早乙女の声。何やら家の中が騒がしい。

「ごめんってば、ねぇ、征君!!」

 階段を上がっていく家主の背中が見えた。廊下ですれ違った早乙女は忘れずわたしをきろりと睨んで、黄泉坂の背を追いかけていく。一体、何があったのだろうか。

 居間では、姿勢良く正座した清司がテーブルに向かい、広げたノートに何か描いていた。

「何をしているんだ」

「絵を描いています」

「ふぅん……これは?」

 横から覗き込んで、目についた一作を指差す。

「黄泉坂さんが描かれた犬です」

「……じゃあ、これは?」

「黄泉坂さんが描かれた馬です」

「これ」

「黄泉坂さんが描かれたぼくです」

 わたしは天井を見上げた。人の顔の形をしたしみがあった。

「なるほど。なるほど……」

 わたしは早乙女の狼狽の原因を悟った。

 同時に――勝てる。わたしは確信した。黄泉坂は一体何があったか利き腕を失ってはいるが、それ以前の問題だ。認知が歪んでいるとしか言いようがない。

 にやりと笑むわたしを凝視したのち、清司は描画に戻った。

「ぼくの父も、絵が得意ではありませんでした」

 清司の父親は知らないが、婉曲なその言い回しがおかしく、わたしは肩を揺らしてくつくつと笑った。


「黄泉坂さぁん、早乙女さぁん」

「何? 僕たち今から出かけるんだけど」

「ちょっと欲しいものがあるんですけどぉ」

「ふん、僕と征君にお遣い頼もうだなんていい度胸だね」

「そこを何とか……待ってください黄泉坂さん!」

 無言で玄関の戸に手をかけた黄泉坂子爵様を慌てて呼び止め、わたしはいつとも知れぬ誕生日のプレゼントをせがんだ。ここ黄泉坂子爵邸で目を覚ましてから一年近く。眠っていた期間も含めれば、必ずどこかで誕生日を迎えているはずだ。二回分もらえるという可能性すらある。

「どうか、未来の天才画家に投資を」合掌し、上目に子爵様を見つめる。

「とか言ってるけど。どうする? 征君」

 小憎い所作で肩を竦めた早乙女の横で、黄泉坂はしばし黙した。神経質に凝り固まった顔立ちからその胸中を察することはできない。だが、何を考えているにせよ金は持っているはずだ。わたしに紙と絵の具を買い与える金くらい、十分に。ちょっとお高い画材を一式買っても有り余るほど。

 はあ、と大きな溜息が聞こえた。

「……勝手にしろ」ようやく、黄泉坂は応えた。わたしは嬉しさのあまり、その場でぴょんと跳ねる。

「やった!! ありがとうございます黄泉坂子爵様!! ね、早乙女さん聞きましたか? 聞きましたよね?」

「はいはい聞いた聞いた。うるさいうるさい」

 絶対権力の言質を取った今、邪険に手をぴらぴら振る早乙女など恐るるに足らず。

「お願いしますよ早乙女さん!! 良いやつ買ってきてくださいね!!」

 無断の外出と遠出を禁じている手前、わたしに一人で買いに行けとは言えまい。忌々しげにこちらを睨みつける早乙女を、いい気味よ、とせせら笑った。仕返しが怖いので、内心で。


(――梅子さん、)

 ふと聞こえた声に、わたしはスケッチブックから顔を上げた。

 黄泉坂子爵邸で目覚めてから、二度目の夏だった。爽やかな朝の風が吹き、荷葉から玉のような露が零れ落ちる。瑞々しい緑の中には点々と、薄桃色の蓮華が花開いていた。

「久しぶりだなぁ……」

 言いつつ息を吐けば、肩周りの緊張が解ける。集中力も切れ、鉛筆を持ったまま、ぐっと伸びをする――最後に「彼」の声を聞いたのは、いつだったか。

 頭部への衝撃が原因かはわからないが、酔って暴れて頭を打ったことが原因の二度目の記憶喪失の後、「彼」の存在は遠くなった。慢性的な幻聴として纏わりついていた声が、何かの拍子に意識の表層に挿入されることはなくなり、耳を傾けても、声は以前のようにはっきりとは聞こえなくなった。ちょうど今のように明瞭に聞こえる時もあるが、街の雑踏の中に自分の名前を聞くように、声の主の所在は定かではない。

(いつか……約束ですよ……)

 耳を澄ませるも、それ以上意味のある言葉を聞き取ることはできなかった。壁の向こうの話し声のように、青年の喉が発しているであろう曖昧な音声だけが聞こえている。

「一体、何なんだろうな……」

 極楽のような景色を――「わたし」の原初の景色をぼんやりと目に映しながら、呟く。自分の名前以外の何もかもを忘れ、失った「御匣梅子」が、解脱にも似た穏やかな形で過去と切り離され、「わたし」として再誕したのがこの場所だ。

 わたしは描きかけの絵に目を戻した。拙い鉛筆描きの蓮池と、その向こうの弁天堂。出来によってはこれまた早乙女に買ってきてもらった水彩絵具で着彩しようと考えていたが……まだまだだ。

 やれやれ、と首を振り、一枚めくってまっさらな画用紙と向き合う。この蓮華の咲く景色がわたしの始まりの光景ならば、紙面の白い空白は、長い眠りから目覚めたわたしの、記憶喪失の脳内そのものだ。深い霧に囲まれた空白にただ一つ、ぽつりと置かれたわたしの名前……御匣梅子……

「この極楽にて、わたしは真に生まれ……」

 口にして、思わずにやりと笑う。

 邪悪な化生たる心鬼にも、人の姿をしているからには人の母がいて、人の子としてどこかでおぎゃあと産声を上げた過去がある。あの黄泉坂にだって、おしめをしていた時代があるのだ。想像して笑ってはいけない。

 だが、名前以外の全てを忘れてしまったわたしには、それがない。記憶がなければ、存在していないのと同じだ。

 だから、この場所で過去と切り離され、自分にまつわるもの全てを失ったわたしは、「わたし」という存在は、この極楽で生まれた……ということにしてもいいと思う。

「はっ……もしや、わたしは天女なのか……?」

「――独りで何を言っている」

 突然背後で聞こえた声。わたしはわーっと声を上げた。

「よよよ黄泉坂さんっ!?」

「仕事だ。帰るぞ」

 短く告げて、黄泉坂は踵を返した。慌てふためくわたしのことなどお構いなしに、シャツの右袖を翻してすたすたと早足で歩いていく。

「待ってくださいよ! 黄泉坂さん!」

 急いで荷物をまとめ、三揃いの上を脱いだ後ろ姿を追いかける。

「あの、黄泉坂さんのお母上って、どんな方だったんですか?」

 小走りで追い縋りつつ質問すれば、黄泉坂はそこだけ人外とわかる目だけを動かしてわたしを見た。

「……何を急に」

「ちょっと気になって。黄泉坂さんにも赤ん坊だった時代があるんですよね?」

 無言の圧のようなものを感じたが、わたしは怯まなかった。黄泉坂とおしめという、相反する二つの言葉が頭にある限りは。

 少しの間の後、黄泉坂は溜息を一つ。

「真っ当な人間だった」

「もう、人間なことくらいわかりますよ!」

 抗議すると、黄泉坂は黒い炎となって消えた。早く帰れ、と言い残して。

 まったく、わたしを何だと思ってるんだ。寺の横の人気ない道に取り残されたわたしは頬を膨らませる。

 だが、憤慨していたのも一瞬、わたしは自分が極楽で生まれた天女……かもしれないということを思い出し、天上の存在になったつもりで、画材を抱えたまま軽やかに駆け出した。

(いつか、俺を――)

 脳裏に響く懇願の声。

 ――「殺してください」だなんて!!

 そもそも顔も名前もわからない、夢の中にいるような奴を、一体どうやって殺せというのか。禅問答にも似た難題が何だか滑稽に思えてきて、天女ことわたしは一人、あはは、と笑った。

 くるりと回って、上機嫌な天女は幽霊屋敷の門前に到着する。そこには清司がいた。

「おかえりなさい、梅子さん」

 その瞬間、天女は御匣梅子に戻り、わたしは少し控えめな声量で「ただいま」と言った。

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