武蔵野への手紙

沢田和早

武蔵野への手紙

 こんばんは、令和の武蔵野。設定どおりに届いていれば君は満月の光を浴びて読んでいるはずなのだが、さて、どうなのだろうね。時と場所にかかわらず不測の事態は起きるものだし、ひょっとすると真昼の陽光を浴びながら読んでいるのだろうか。もしそうなら「こんばんは」を「こんにちは」に置き換えて読んでほしい。


 読み始める前に差出人を見たかい。もし見ていれば奇妙に思ったことだろう。差出人は武蔵野、そうだよ君だ。この手紙を書いて君に送った私は君なのだ。

 今の私は実に平和な時を過ごしている。私は自然の宝庫だ。丘陵には赤紫の萩の花が咲き乱れ、湿原では淡紫の穂を付けた葦が秋風に揺れている。獲物を探す白狼の眼が月夜の闇の中で煌めき、大太郎法師は巨体を横たえ霊峰を枕にして眠っている。令和の武蔵野である君が失くしてしまった風景を今の私は持っている。

 ただ残念ながら人間はいない。人工的な建造物も栽培された作物も言語を伝える音声もここには存在しない。人類発生以前の太古の風景が広がる武蔵野、それが今の私だ。


「ああ、つまりこの手紙は過去の自分が未来の自分に向けて書いたのだな」


 ここまで読んだ君はそう解釈してしまったかもしれない。残念ながらそれは間違いだ。思い出してほしい。君は今まで未来の自分に向けて手紙を書いたことがあるかい。ないだろう。過去の君はこの手紙を書いてはいない。だからこの手紙を書いているのは過去の君ではない。

 となれば正解は自ずと決まる。私は未来の君だ。君の時代から数百年後の武蔵野の私が時を遡って令和の武蔵野である君に手紙を送ったのだ。驚いたかい。でもさらに驚くことがある。今の武蔵野は地球上にはない。君たちの銀河から数百万光年離れた別の銀河の中にある。この手紙は光速を超える通信技術によって過去の自分である君に届けたのだ。


 少し頭が混乱してしまったかもしれないね。どうして武蔵野は別の星へ行ったのか、未来の地球はどうなってしまったのか、そんな疑問が頭の中で渦巻いていることだろう。

 単刀直入に言おう。地球上の生物は滅亡した。今の君から数百年後、全世界を巻き込んだ武力紛争が勃発したのだ。それは瞬く内に世界大戦へと発展した。全ての国、地域が巻き込まれ地球全土は焦土と化した。

 それは恐ろしい光景だったよ。その頃には核兵器の威力を遥かに凌駕する反物質兵器が実用化されていたからね。南極から北極に至る全ての大地は焼き尽くされ、海水は一滴残らず蒸発し、放射性物質に汚染された大気は全ての酸素を消費し尽くしてしまった。


 生命は死に絶えた。動物、植物は言うまでもない。昆虫も細菌もウイルスさえも生き延びることは叶わなかった。そして私たち自然界の精霊もまたその存在を許されなかった。

 偉大なる富士の精霊も、北方を守護する知床の精霊も、水と樹木を慈しむ屋久島の精霊も、依り代となるべき自然を守るために自分の力を使い果たし消滅していった。

 私もまた武蔵野を守ろうと思った。だが私にはそれさえも許されなかった。反物質兵器の直撃を受けた武蔵野は根こそぎ削り取られ、宇宙へ吹き飛ばされてしまったからだ。

 地球の重力圏を脱し太陽を周回し始めた武蔵野。植物も動物も一瞬で死滅し単なる小惑星となり果てたそれはもはや武蔵野ではなかった。精霊は依り代を失えば存在できない。遠ざかる赤銅色の地球を眺めながら私は自分の消滅を待った。


 しかし私は生き永らえた。万に一つもない偶然が起きたからだ。宇宙人、そう呼んでよいのか今でもわからないのだが、たまたまこの銀河を訪れていた別の星系の生命体が私を助けてくれたのだ。その生命体は人間のような物質的性質と精霊のような観念的性質を兼ね備えていた。それゆえ私を認識し意思疎通することができた。


 彼らは親切だった。そして極めて高度な文明を持っていた。彼らの星へ連れて来られた私の望みを簡単に叶えてくれた。私の望み……言うまでもないだろう、かつての武蔵野を再現することだ。それは彼らの科学技術をもってすれば箱庭を作るよりも容易だった。

 私は彼らの星で再び武蔵野の精霊となった。原野を獣が駆け回り月明かりの中を鳥が飛ぶ。懐かしい武蔵野の風景。ただひとつ違うのは人間を再現させなかったことだ。怖かったのだ。武蔵野を、地球を滅ぼしたのは人間なのだから。人間を再現させればあの悲劇も再現されるのではないか、そんな不安を払拭できなかった。


 太古の武蔵野を見守りながら過ぎていく日々。そんな穏やかな毎日を送りながらも心にぽっかり空いた穴を埋めることはできなかった。人間が恋しかった。何十万年も続いた武蔵野の歴史の中で一番楽しく心躍ったのは人類とともに過ごした期間だった。人間を失ってようやく気づけた自分の愚かさが情けない。


 そしてそれが今日、君に手紙を書いた理由なのだ。この星の技術力を用いれば過去に存在したどんな場所にでもどんな時代にでも瞬時に手紙を届けられる。長い歴史の武蔵野の中でわざわざ令和の君を選んだのは、地球を滅ぼす大戦の原因が令和の時代に発生した局地戦にあるからだ。この戦いを切っ掛けにして核兵器の無力さが認識され反物質兵器の本格的な開発が始まった。そして世界は最終戦争へとなだれ込んでしまった。武蔵野の運命はあの時決まったのだ。


 遠く離れた宇宙から、遠く離れた未来からお願いする。武蔵野を、地球を救ってはくれないだろうか。自ら滅亡へ突き進もうとする人間の意識を変えてはくれないだろうか。物質である人間の中で私たち精霊を感知できるものは少ない。心を通わせ合える者はさらに少ない。君ひとりの力では無理だろう。だが日本の、アジアの、世界の全精霊と力を合わせれば決して不可能ではないと思うのだ。

 自分勝手なお願いであることは重々承知している。虫の良い話であることもわかっている。だが人間のいない武蔵野など本当の武蔵野ではない。令和の君に私と同じ空しさを味わわせたくはないのだ。今ならまだ間に合う。令和の武蔵野、君が最後のチャンスであり希望なのだ。


 そして私は今夜も南の空を見上げる。私が去ることになり君が存在することになる銀河が、数百万光年を隔てた夜空の闇の中に微かに見える。この広大な宇宙を漂うちっぽけな銀河。その端っこに点のようにくっ付いている地球。地球の海に浮かぶ小さな島の小さな地域にすぎない武蔵野。しかしその武蔵野への私の思いはこの宇宙よりも広大だ。あの武蔵野が数百万年後も数千万年後も存在し続けることを祈りながら、今夜も私は南の空を見上げている。

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