予言の魔女は、明後日死ぬ。

向野こはる

予言の魔女は、明後日死ぬ。





「ベン。わたくし、明後日死ぬらしいわ」


 美味い美味いと頬張っていたブラウニーを、全部吹き出した。まぁやだ、と柔らかく笑う妻に、一瞬反応が遅れた後、素っ頓狂な声を上げる。


「冗談言うな!?」

「事実だわ、ベン。予言がでたもの」


 柔らかな日差しが、大きく開いた掃き出し窓から降り注ぐ、午後のサロン。三ヶ月に亘る忙しい国交からようやく解放された国王、リーベンスは、二時間ほど時間が取れたので、愛しい妻とサロンで一休みの真っ最中であった。

 品の良い装飾はあしらわれたテーブルを挟み、向こう側で優雅に紅茶を飲む、妻にしてこの国の王妃、イズナイン。柔らかく巻いた白い長髪と、僅かに垂れた緑の瞳が印象的な、『予言の魔女』であった。

 

 この国では太古より、王家を支える『予言の魔女』が存在した。

 彼女たちは、大小様々な予言を行い王家を支え、また王家はその恩恵を確かなものにするべく、国王の正妻にその魔女を迎える事が通例であった。

 リーベンスとイズナインも、例に漏れず、生まれた時から婚約したも同然であった。しかし魔女を恐れて毛嫌いした歴代の王と違い、リーベンスは妻が大好きである。

 幼少期より、初めて顔を合わせてから約十年。側妃の座を狙い、金髪碧眼と見目の良いリーベンスに取り入ろうとする令嬢は数知れず。しかし彼が傍にいることを乞い願ったのは、イズナインだけという溺愛ぶりであった。

 さて、そんな愛妻家の若き王は、妻の言葉が信じられなかった。


「よ、予言……、そんな、予言? 嘘だろ?」

「嘘じゃないわよ。……ほら、予言書、見て」


 彼女が取り出した古びた書物は、予言が浮かび上がる予言書だ。

 この書物は『予言の魔女』となる人物の傍に、ある日突然出現すると言われる書物で、これから起こる出来事が断片的に浮かび上がってくる。内容は様々で、一時間後の天気や、数年先の災害。王は今夜爪を切る、花に水をやらねば花壇が枯れるなど、多岐に亘った。

 話を聞けば、それは彼女の力ではなく、予言書だけがすごいのでは、と思われるかもしれない。

 しかしこの予言書、書いてある内容がイズナインしか読めないのだ。

 彼女はいつも通り書物を開き、リーベンスに見せてくれるが、やはり彼には書いてある幾何学模様が、文字として認識できない。


「……予言の魔女、明後日の夜が明ける頃、その存在は死に至るって書いてあるわ」

「本当に? 冗談でなく?」

「もう、だから、本当だって言ってるじゃない!」

「いや、だって、お前……なんでそんな、冷静なんだ……? 自分が死ぬんだよな?」


 至極真っ当な夫の意見に、しかしイズナインは肩を落として、椅子の背にもたれかかった。


「だって……、この予言は、覆らないんだもの」


 寂しげなイズナインの言葉に、リーベンスは今度こそ言葉を失った。

 そう、予言書に書かれた内容は覆らない。その予言を回避しようにも、どう頑張ったところで回避できないのだ。

 だからこそ『予言の魔女』は、王家に重宝されると同時に嫌悪される。

 であれば、予言を魔女が言わなければいいと、思うだろう。捏造したら良いと、知恵を働かせるかもしれない。しかしそれも出来ないのが、予言書と魔女の切れない縁だった。

 予言書に書かれた内容を魔女が秘匿し続ける、もしくは捏造し続けると、魔女はなぜか体力を消耗していき、最終的に死ぬのだ。

 事実、何代か前の『予言の魔女』は、自分にとって不都合な予言を見なかった事にした結果、衰弱死している。だからリーベンスは、どんな些細な事でも言うように、イズナインへ懇願していたのだった。

 リーベンスは暫し無言になった後、テーブルに身を乗り出して、イズナインの細い両手をとった。


「イズ、その予言では、明後日が明けたら、お前が死ぬと書いてあるんだな?」

「ええ……」

「つまり、三日目が過ぎたら死ぬって事か」

「そうね」

「分かった、今日と明日は、俺に時間をくれ。法の整備と根回しと、バエリル公爵への挨拶と……とにかく、必要な事を出来る限り片付けて、明後日はお前と共にいる」


 予言は覆らない。であれば、王として真っ先に行わなければならない事は、次の『予言の魔女』が現れるまで、国の混乱を抑える事だ。

 この国は『予言の魔女』の存在に頼りすぎていると、リーベンスは常々思っている。と言うより、愛する妻を、書物と同様に扱おうとする貴族議会の連中に、そろそろ嫌気が差していたのだ。

 そしてイズナインが居なくなるのであれば、リーベンスは王の椅子など興味もない。『予言の魔女』に頼らなくても良い法の整備が終われば、すぐにでも王座を降りようと決意した。

 彼が王位を継いだのは、イズナインのため。兄弟親族がひしめき、王位継承争いが絶えない王宮で、イズナインを妻と迎える為に勝ち取った地位だった。

 

「明後日は二人で、ずっと一緒にいよう。……大丈夫だ、泣くなよイズ。俺はお前以外を妻にする気はないし、お前以外に隣を許すことはない。……絶対だ。信じていい。愛してる、イズナイン。愛してるからな」


 話している途中から、ボロボロと泣き出したイズナインに、リーベンスは顔中にキスを送る。諦めの境地といえども、何も感じない訳がない。予言書を見て、どれほど衝撃を受けたか。リーベンスでは想像も出来ないほどの、絶え難い苦しみだっただろう。

 愛しているという度に、彼女は頷いた。

 何度も、何度も。二人の間にある愛を、確かめるように。


 ◆ ◆ ◆


 側近や貴族議会の連中にも、『予言の魔女』の死の予言についてすぐさま広まり、すぐに緘口令は敷かれたものの、噂はあっという間に城下までいってしまった。

 しかし、混乱は城内……というより、貴族連中に留まっていた。それもそのはず、『予言の魔女』の予言は、国民にはさほど影響がなかったのである。

 むしろ、災害を予言し備蓄を促したり、必要な整備を進めたりしてくれる国王夫妻には、国民のほとんどは良い印象しかもっておらず、『予言の魔女』ではなく、優しく可憐な王妃が死ぬことへ、皆が悲しんでいた。

 慌てたのは、貴族の足の引っ張り合いに『予言の魔女』を利用していた輩だけである。

 だからこそリーベンスは、『予言の魔女』など必要のないポストなのだと、確信した。

 リーベンスはこの二日間、まさに鬼神のごとくであった。

 あらゆる議会を最低の時間で徹底的に行い、草案をまとめ、外交的繋がりのある各国へ連絡し、国内(城内)の混乱を抑え、信頼する側近たちをあちこちに飛ばし、エトセトラ、エトセトラ。

 この二日間で、二十年分くらい働いた──は、言い過ぎだが、二年分くらい若き王は働いた。

 そして絶対に邪魔をするなと、城中に、否、もはや国中に聞こえるのではないかというほど念を押し、明後日を迎えた今日、明け方からイズナインの部屋に迎え入れられた。


「ベン! お帰りなさい、忙しかったわね」

「すげぇ疲れた……」

「まだ明け方よ、少し眠ったらいいわ」

「いや、だけど……、……うん、少し、一緒に寝ようか、イズ」


 イズナインは、眠れていないのだろう。目元は赤く腫れ、心なしか顔色も悪い。

 細身の妻を抱えてベッドに寝かせ、互いの部屋に常備してある寝巻きに着替え、同じく掛布に潜り込んだリーベンスに、イズナインは笑って胸に夫の顔を引き寄せた。


「甘えん坊さん。……でも、優しい人。わたくしを気遣ってくれてるのね。……大好きよ、リーベンス。あなただけだわ」


 リーベンスの頭を抱え、いつも通り甘えさせてくれるイズナインに、ほっと一息ついて少しだけ意識を手放した。

 柔らかな声が震えていた事は、部屋に入った瞬間から、気がついていた。



 降り注ぐ朝日で起床し、ベッドの上で少しだけ愛し合った後。イズナインは笑顔で切り出した。


「デートしましょ!」

「ああ、いいぞ。希望はあるか?」

「わたくし、海辺の教会に行きたいわ」


 イズナインの言う海辺の教会とは、彼女が育った場所だ。

 イズナインはそもそも、生まれの分からない孤児であった。赤子の時、本と共に教会の前に捨てられていたのだという。幸い、優しく親切なシスターに育てられ、彼女は貧しいながらも幸せな幼少期を過ごした。

 そしてある時、王家が信頼を寄せている公爵が来訪し、将来的に王の正妻となるべく教育するよう、養子としてイズナインを迎え入れたのだ。

 リーベンスが彼女に出会った時も、この頃である。

 教会は彼女の生家だ。もちろん、否を唱える理由もない。


「分かった、朝食を食べたら、そこへ行こう。他に希望は?」

「ないわ。教会で、ずっとわたくしと一緒にいて、ベン。今日が終わるまで」


 城には帰らないと言うこと、なのだろう。イズナインにとって、王妃としての生活は、苦痛が多かったのだ。

 リーベンスは快諾し、穏やかに朝食を終えた後、共に行こうとする全ての側近からの申し出を辞退し、イズナインを連れて城下に降りた。夫婦の時間に水をさしたら全員ぶっ殺すぞと、割と冗談ではなく脅してきたので、心配はない。

 白い髪と金髪を隠し、お忍びでデートをしながら海辺に向かう国王夫妻に、国民は気がつかないふりをしていた。いくら変装まがいの事をしようが、高貴な雰囲気は隠せないし、何より二人は国民に人気があるのである。

 行く先々で親切にしてもらい、二人も最初から気がついていたが、皆の好意を有り難く受け取っていた。


 海辺の教会に到着し、久しぶりにシスター達と語らい、涙するイズナインを、リーベンスは傍で暫く見つめていた。そして話が終わった後、彼女は屋根裏部屋へ案内してくれる。ベッドと簡易な机しかないその部屋は、幼い頃、彼女が使用していた部屋だった。

 シスターが定期的に清掃してくれていたベッドに、二人で寝そべり、昔話に花を咲かせた。今日が終われば、最愛の彼女は居なくなる。そんな絶望を感じさせないほど、穏やかな時間だった。

 海の向こうに太陽が沈んだ頃、下から呼ばれて、夕食の席に着く。

 王様に出すには質素で申し訳ないと頭を下げられたが、孤児として引き取られた子供達と、イズナインの愛する家族と共にとった食事は、どんな晩餐でも味わえない特別な夕食だった。

 数ある料理を美味い美味いと食べ、時折、隣に座る幼い子供の口をナプキンで拭いてやるリーベンスを、イズナインは心底愛おしげに眺めていた。

 夕食を食べ終え、暖かな湯を借り、再び屋根裏部屋に戻った時。

 それまでいつも通りだった彼女は、リーベンスに抱きついて肩口に顔を埋めた。その細い体を抱きしめ返し、ベッドに腰を下ろして、同じく彼女の柔らかな髪に顔を隠す。


「……リーベンス」

「…………ん」

「わたくしの事、本当にずっと、愛してくれる?」

「ん? 当たり前だろ」

「『予言の魔女』が死んで、新しい妃をとったりしない?」


 彼女の不安と言わんとしている事を把握し、リーベンスは眉尻を下げて笑った。


「取らない。取らないし、お前が居ないなら、役目が終わったらすぐ王座を降りるって言っただろ? 他の女なんかいるか」

「でも、あなたはカッコいいし、王座を降りたって引く手数多でしょ」

「そいつはどうも。俺ほどかっこいい男の隣は、お前くらいの美人じゃなきゃ吊り合わないから、安心だな」


 もう、と彼女は照れた様子で笑う。目尻に浮かんだ涙を唇ですくい取り、そのままベッドに横たえた。

 覆いかぶさって双眸を細め、互いに無言でキスをする。

 もう居なくなるのに、心が騒めくのに、泣き喚くような格好悪い真似はできなかった。好きな女の前では、男は誰だって格好をつけたいものだ。

 たとえそれが、もう二度と出会えない愛する人の前だとしても。

 リーベンスが軽く扉を一瞥すると、イズナインは静かに微笑んだ。


「……大丈夫よ、シスターには、お願いしてあるの」

「…………エッチだな」

「ばか、恥ずかしかったんだから」


 互いに笑い合って、吐息を重ね合わせる。月明かりは凪いだ海を照らして、一つの存在となった影を包む。

 波の音も静かな夜だった。まるで互いの声だけが、二人の世界の全てのように。



 その夜、リーベンスは夢を見た。

 イズナインによく似ているが、知らない少女を、自分は追いかけている。少女は笑っていて、時折、こちらに振り返っては、手を振っていた。


 ──リズリカ、……こっちにおいで、リズ。


 少女の名前だろうか。追いかける自分の声が聞こえたかと思えば、少女はこちらに駆け寄った。



 騒がしい音に目が覚めると、ベッドにはリーベンスだけが残っていた。

 急いで服を着替え下に降りれば、シスターが真っ青な顔で近寄ってくる。そして連れて行かれたのは、教会の後から続く森だった。

 数人のシスターや子供達と森を抜けた先に、海へと続く崖があった。

 そこにあったのは、足の小さな彼女にリーベンスが贈った、白い靴だけだった。

 イズナインは、どこにもいない。

 昨晩、愛しあった屋根裏部屋に、消えない熱だけを残して。最愛の妻の姿はもう、どこを探しても見つけられなかった。


 ◆ ◆ ◆


 国で『予言の魔女』が死んだ。

 正確には死ぬところすら、誰も見ることが叶わなかった。

 死体がないまま盛大な葬儀が執り行われたが、リーベンスは、自分の妻の葬儀だと、どうしても思えなかった。

 気丈に振る舞う若き王の姿に、感銘を受けた貴族の一部は、王が進めていた草案の実現に向けて、一致団結し協力をしてくれた。

 『予言の魔女』に依存していた国だ。国政は荒れに荒れたが、それでもなんとか、魔女に頼らない国家への道筋が見えたのは、彼女が居なくなり数年が経った頃だった。

 一番の後押しは、あれ以降、全く『予言の魔女』が姿を現さないことだ。

 いつもであれば『予言の魔女』が死んだ後、次の魔女が現れる。現れないという事は、実は死んでいないのではないかとも囁かれたが、他の貴族や王族も予言書の内容は見ているし、内容が覆らないことも知っている。なので、本当の意味で『予言の魔女』は死んだのではないか、と言われた。

 リーベンスも、この考えには賛同した。

 『予言の魔女』など死んだ方がいい。

 その力があるだけで、幸福から遠ざけられるなら、もう居ない方がいいのだ、と。


 自らの役目が終わったタイミングで、リーベンスは兄弟に王位を譲渡した。国民からは惜しまれたが、彼には王座に対する未練もない。臣籍降下し辺境伯の爵位を賜り、地方で悠々自適な生活を謳歌することにした。

 連れてきた数人の使用人達と共に、新しい土地での生活を始める。イズナインが居なくなり、十年の月日が経っていた。

 リーベンスはその日、放牧された羊や牛を眺めながら、辺境の地方でもさらに奥まった場所へ視察に訪れていた。

 空気が爽やかで清々しい、晴れやかな午後。数人の従者と共に、人々を労い、困り事を聞いて回りながら、爽やかな大地を堪能する。

 王都では味わえない、広々とした大地は、心が緩やかに躍った。

 馬に乗り民家を見ていると、ふと、草原の向こうに人影が見える。従者が目を離しているのを良いことに、興味を惹かれて馬を走らせれば、そこには少女が羊を追いかけていた。


「…………」


 リーベンスは馬から降り、ゆっくりと少女に近寄る。彼女もこちらに気がついて、呆けた顔で見つめていた。

 茶色を帯びた柔らかな金髪に、少し垂れ目がちな緑の瞳。可愛らしい、少女だった。


「…………リズ、…………リズリカ……?」


 不意に、言葉が口から溢れる。

 少女の容姿、忘れた事はない。十年前、一度だけ夢に見た、少女の顔だった。

 彼女は息を吸い込んだ後、瞳に涙を湛えながらリーベンスに抱きつく。


「父さま!」

「…………」

「父さまでしょう? 母さまが、いつか、素敵な大人の人が、わたしの名前を呼んで現れたら、それが父さまだって言ってたわ!」


 少女の台詞に、一気に心が騒ぎ立てた。リーベンスは少女を抱き上げ、離れ難い温もりに頬を擦り寄せ、強く目蓋を閉じる。


「そうだ、リズリカ。父さまだぞ、遅くなってごめんな」

「父さま、父さま、いつかきっと来てくれるって、本当だった! やっぱり母さまは、嘘つきじゃなかったわ!」

「っ、っ、母さまは? 母さまはどこだ?」


 いてもたってもいられなかった。

 リーベンスは初めて邂逅した我が子に手を引かれ、少し外れた場所にある古民家の前までやってくる。自然と荒くなる呼吸を必死に整え、リズリカが開けた扉の向こう側を見つめた。

 そこにいたのは、黒く煤けた髪の痩せ細った、宝物のように愛した女が一人、ロッキングチェアに揺られている。彼女は娘の帰宅に気がつき、編み物をやめて視線を上げた。


「まぁリズリカ、今日は早かっ……、……」


 視線があった。疲れてやつれ、落ち窪んだ緑色の目は、どんよりと曇っている。しかし徐々に光を取り戻して、彼女は椅子から立ち上がった。


「…………ベン?」


 細く名前を呼ぶ声は、ずっと変わらない、昔のまま。リーベンスは両腕を広げて、愛しい人を抱きしめた。


「イズナイン、遅くなった、……イズ、……ああ、イズだ、……ああ、ああ、……ああ……っ」


 イズナインが居なくなったあの夜から、十年。リーベンスは一度も泣いたことはなかった。

 だから安堵した。限界だった。幸せだった。誰よりも、何よりも、今まで生きてきた、どんな瞬間よりも。

 彼女の細い腕が背中に周り、イズナインは咽び泣く。彼女もまた、安堵していた。

 親子は互いに身を寄せ合って涙した後。リーベンスは事情を聞くべく──は建前として、妻と娘を離せるはずもなく、そのまま邸宅に連れて帰った。

 使用人達は目を白黒させて、突然現れた主君の家族に困惑していた。

 無理もない。イズナインは十年前と比べて、ずいぶん痩せてしまった。それに加え、髪の色も変化してしまっている。リーベンスは部屋に人払いをかけ、甘えて離れないリズリカをしっかりと膝に乗せ、片腕にイズナインを抱き寄せながら事情を聞くことにした。

 初め、イズナインは躊躇っていたが、大丈夫だと何度も言い聞かせると、覚悟が決まったのか目を見て話し始めた。

 あの日、まだ朝日が昇る前。イズナインは目を覚ました。

 おかしい。予言に書かれていた時刻はとうに過ぎているのに、自分はまだ生きている。もう一度予言を確かめるべく予言書を見ようとしたが、机の上にあるのは燃え滓だけで、どこにも予言書がなかった。

 彼女は自身の身に何かが起きたのだと考え、何か手がかりを探し、髪の色が黒ずんでいる事に気がついたのだ。

 『予言の魔女』は決まって、白い髪の色をしている。それが煤けた黒になり、予言書も消えた。

 彼女は恐怖した。

 と。


「……実はね、あの予言には、続きがあったの」


 ──予言の魔女、明後日の夜が明ける頃、その存在は死に至る。すなわち夫は幸せとなり、愛する娘が生まれる。リズリカと名付け、その命尽きるまで、愛される乙女となるだろう。


 『予言の魔女』の死。それはイズナインの死ではなく、魔女としての死だった。

 王家は代々、『予言の魔女』を妻に迎える。力のなくなったイズナインは、代替わりした『予言の魔女』の登場により、王家を追われてしまうのは目に見えていた。おまけに予言は覆らない。まだ若いリーベンスが他の女の間に娘ができ、愛されるようになる姿を、イズナインが直視できるわけがなかった。


「ごめんなさい、あなたは愛してくれると言ったわ、でも、予言は覆らない。怖かった、恐ろしかった、あなたを信じられない自分を恥じた。ごめんなさい、ベン。わたくしには、……わたくしには、どうしても、怖かったの……!」


 腕の中で泣きじゃくる彼女は、少女の面影を残している。

 イズナインがここまで病的に痩せているのは、予言を全て発言しなかったからだ。日に日に衰えていく体に恐怖はしたが、リーベンスが知らない姫を愛す姿を見るくらいなら、百億倍我慢できた。

 だから彼女ができた事は、逃げる事だけ。自分の痕跡を残したまま、必死に現実から逃げた。そして確かな愛によって生まれた娘に、心を蝕む恐怖に抵抗するようリズリカと名付けた。愛娘にリーベンスの面影を見つけるたびに、幸せを与えて暮らす事だけを必死に、生き抜いてきた。

 リーベンスは泣き腫らす妻を見つめる。そしておもむろに片手をあげると、愛らしい額を思い切り指弾した。


「痛いっ!? 痛いじゃない、ベン!」

「お前、予言書、ちゃんと読んだのか? 本当にこれで予言の全部か?」

「読んだわよ!」

「なら、。現実を見ろ」


 リーベンスの言葉に、イズナインは呆けた顔で彼を見た。


「良いか、イズ。よく聞けよ。俺は再婚もしていないし、生涯、妻はお前だけだ。お前の夫は? 俺以外にいるのか?」

「え……、い、いないわ、あなただけよ」

「ほれみろ、予言は覆ってない。予言の魔女が死ねば、夫は幸せになり、リズリカが生まれて死ぬまで愛される。……どうだイズナイン、?」


 イズナインが予言を恐れた根底の理由は、リーベンスも理解していた。

 国王と『予言の魔女』の間に子供がいたことは、建国し魔女を正妻に迎えるようになってから、一度もない。記録が残されていない可能性もあるが、おそらく本当に、一人もいないのだ。

 だからイズナインは、リーベンスの愛が離れる事を恐れた。いずれ側妃を娶り、珠のように可愛い女児が生まれてくるのだと。

 

「今、この場が現実だ。夢じゃない。何も予言は覆っていない。……それにお前は、心のどこかで俺を信じてたんだろ? だから俺たちの子にリズリカと名付け、いつか迎えにくる俺の事を、信じていた」


 リーベンスは、安心して眠ってしまった我が子に頬を押し付け、イズナインに愛情を見せつける。ふにゃふにゃと柔らかな少女は、父親の温もりに包まれ、幸せそうに口元を緩ませていた。

 イズナインは目を見開いて、笑おうとして、失敗する。何度か上がった口角は戦慄いて、彼女はリーベンスに抱きついて泣き声を上げた。

 彼女は心のどこかで信じ、期待していた。そんなことはないと頭が否定するのに、リズリカと娘に名付ければ、リーベンスが来てくれるのではないのかと、逃げ出した身で身勝手に信じていたのだ。

 泣きながら謝る彼女を片腕に抱いて、リーベンスは目蓋を閉じる。

 今、この場が現実だ。この幸福が全てだ。彼女の居なかった十年などリーベンスにとって、ただの過ぎ去った夢の中だった。


 ◇ ◇ ◇


 前をゆく娘を追いかける。リーベンスが腕を伸ばすとリズリカは笑って、草原を走って遠のき、しかしすぐに振り返って、こちらに向かって手を振った。


「リズリカ、……リズ、こっちにおいで」


 可愛い愛娘を呼べば、彼女は嬉しげに走り寄って抱きついてくる。抱き上げて頬擦りし、リーベンスは背後にいるイズナインへ振り返った。

 柔らかな髪を髪に遊ばせながら、美しい妻は誰よりも幸せそうに笑う。リーベンスが片腕に抱き寄せれば、彼女は慣れた様子で寄り添った。


「母さま、父さま、今日はマンサさんの家で、新しい羊が生まれたんだって!」

「まぁそうなの、お祝いを贈らなくちゃ。ねぇ、何が良いかしら、父さま」

「んー、この間、ルロイエ卿にはワインを送ったしなぁ。……そうだ、先日仕入れたレースのショールなんてどうだろう、母さま」



 『予言の魔女』がどうして死んだのか、この先もついぞ、解明される事はなかった。

 ただ幸い、若き王が必死に整備した法のおかげで、予言をあてにしない、左右されない国づくりは進められ、そのうち人々の関心から『予言の魔女』の存在は薄れていった。

 リーベンスには時折、王都からの打診があったが、彼は断固としてこれを辞退した。曰く、幸せで順風満帆な生活は、これ以上の場所には存在しないのだ、と。

 いつまでも仲睦まじい辺境伯家族は、領民に愛されて幸せに暮らしたという。

 

 『予言の魔女』の最期の予言は、この先もずっと、覆らない。


 

 


 


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予言の魔女は、明後日死ぬ。 向野こはる @koharun910

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