臆病者はキスをする①

 一通り水族館を回った私たちは、館内にあるレストランで食事を取ることにした。


 ゆまはオムライスを頼んで、私はパンケーキを頼んだ。

 私は写真を撮りながら、ゆまの様子を窺った。


 彼女は特に写真を撮るということもなく、静かに「いただきます」と言ってオムライスを食べ始めていた。


 見たところ、いつも通り。

 すごくいつも通りな感じなんだけど、どこかおかしい気もする。


 でも、最近のゆまはずっとそうだ。なんだか妙に雰囲気が柔らかくて、ちょっといつもより優しい感じで。

 まるで、昔に戻ったみたいな。


「……何?」

「な、なんでもない」

「ふーん。……あぁ、そうか」


 ゆまはオムライスを一口分スプーンに乗せて、私の方に差し出してくる。


「食べなよ」


 そんなにオムライスを羨んでいるように見えたのかな。

 私はもやもやしながら、スプーンに口をつけた。


 デミグラスソースのかかったオムライスは、家で作るものとはまた違った趣があって、美味しい。


 だけど今日は、その美味しさに集中することができなかった。

 私はパンケーキを一口サイズに切って、フォークで刺した。

 差し出してみるけれど、ゆまは首を横に振った。


「いいよ、私は。花凪が全部食べなよ」

「いいから、ゆまも食べて!」

「……しょうがないなぁ」


 ゆまは静かにパンケーキを食べて、微妙な顔をする。

 なんなんだろう、この顔は。


「美味しくない?」

「ん? いや、美味しいよ」

「……ゆま、なんかおかしくない?」

「なんかって言われても。ちゃんと目は合わせてるでしょ?」

「そうだけど、でも。そうじゃなくて」


 そう。

 ちゃんと目は合っている。


 今だってゆまはまっすぐ私のことを見てくれているし、不満なんてないはずだ。

 そのはずなのに、どうしようもなく違和感を抱いている。


「最近、私に優しい」

「優しい方がいいって、前に言ってなかった?」

「それは……うん」


 私はそれ以上何も言わず、パンケーキを食べた。

 美味しいのに、美味しくない。

 私は結局、あまり楽しめないまま食事を終えて、また館内を回り始めた。


 ゆまと手を繋いで、どんな魚がいるとか、あの魚が綺麗だとか言い合ってみるけれど、心が満たされることはない。


 やがて私たちはぐるぐる館内を回るのにも飽きて、外に出た。

 水族館が静かだったから気づかなかったけれど、外は雨が土砂降りになっていた。


 遠くで雷鳴が響いている。

 私はびくりと体を跳ねさせた。


「……怖いの?」


 彼女は私を純粋に心配しているようだった。

 ゆまに優しくされるのは、嬉しい。

 嬉しいんだけど、なんでだろう。


 胸がざわざわする。ゆまが遠くに行ってしまったみたいで、落ち着かなくなる。ゆまはいつだって、私のことを追ってくれている。私のことを愛してくれている。


 そのはずなのに。

 さっき私を捕まえてくれなかったことを、気にしてる?

 それもあるかもしれないけれど、それだけじゃない。


「んー、どうするか。このまま駅まで行って、急いで家に帰る? それとも、どっかで休む?」

「近くで、休みたい」

「そ。じゃあ、そうしよっか」


 ゆまは折り畳みの傘を開いた。

 私もバッグから傘を出そうとして、入っていないことに気がついた。

 ゆまを見ると、彼女は私の肩を抱いてきた。


「傘、小さいけど。入れば」

「……うん」


 私たちは静かに体を寄せて、雨の中を歩き始めた。

 小さな傘では二人が濡れずに歩くのは無理だったけれど、密着しているだけで幸せな気持ちになる。


 私たちは二人でいる時が完璧だから。

 二人じゃないと生きていけないから。

 こうしているのが、きっと一番自然なのだ。





「とりあえず、エアコンつけるから」

「うん、お願い」


 私たちは結局、水族館の近くにあるカラオケに入っていた。

 雨の日のカラオケはそこまで人がいなくて、ドリンクバーにも人の姿はなかった。私は温かい紅茶を入れて、ゆまは緑茶を入れていた。


 狭い部屋で、二人並んでソファに座る。

 モニターではアーティストのインタビュー動画が流れている。私は少し迷ったけれど、音量はそのままにしておいた。


 静かになったら、きっとゆまの呼吸音が聞こえる。

 でも、もしその息遣いの中に、私が求めていない感情があったら。

 そう思うと怖くて、室内を静かにすることができなかった。


「結構、濡れたね」

「うん」

「なんか、食べ物とか頼む?」

「いい。さっき食べたばっかだし」

「……そ。じゃ、なんか歌う?」


 ゆまはマイクを私の方に差し出してくる。

 受け取ってみたけれど、どうにもしっくりこなくて、テーブルに置いた。


「ゆま、なんか慣れてるね」

「そりゃ、カラオケくらい何度も来てるし。花凪はあんま来ないの?」

「そんなには」

「ふーん」


 会話が止まる。

 いつもならいくらでも話すことができるのに、今日はどうにもうまくいかない。


 その時ゆまの方からスマホが震える音が聞こえてきた。ちらと見てみると、誰かからメッセージが来たみたいだった。


 彼女の画面には、いつか撮った私の写真が表示されている。

 ちゃんと私の写真を壁紙に設定したままでいるらしい。


 嬉しくは思うけれど、誰からメッセージが来たのか気になってそれどころではなかった。


 誰から?

 そう聞いたら、ゆまは怒るだろうか。面倒臭がるだろうか。

 どうにもゆまの反応が怖くなって、何も言えなかった。


「春香だ」


 ゆまはぽつりと言う。

 スピーカーから流れてくる会話が、うるさかった。


 私はゆまがスマホを操作している最中、彼女の膝に触れてみた。

 そのまま指を滑らせて、太ももへ。

 そして——。


「監視カメラ」

「え?」

「あるから、やめて」

「……うん」


 監視カメラがなかったら、してもいいってことなんだろうか。

 私はそっと彼女から手を離して、カップに触れた。

 温かいけれど、これじゃないと思う。


「今何してるー、だって」


 なんで私にそれを言ってくるんだろう。

 ゆまを見つめてみると、彼女も私のことを見つめ返してきた。

 その瞳に宿る感情は、期待に似たものだった。


 ゆまは何を期待しているのだろう。私は少し考えてから、ゆまのスマホを奪った。


 抵抗はされなかった。

 ただゆまは、私が何をしようとしているのか見守っている。


「写真、撮ろう」

「……いいけど」


 自撮りするのは慣れている。

 今度はゆまからじゃなくて私から、彼女の肩を抱いて写真を撮った。写真に写る私たちはどこか非現実的というか、ある種のよそよそしさがあるというか、そんな感じだった。


 これが今の私たちの、本当の姿なんだろうか。

 違う。

 私たちはもっと近くて、二人で一つの存在なのだ。


 私はそれを証明するように何枚も写真を撮るけれど、そこに写る私たちが変わることはなかった。


 なんで。

 ゆまは私のことが好きで、私もゆまのことが好き。

 そのはずなのに、どうしてこんなに他人みたいに写るんだろう。


「もういい?」


 待って、もう一枚だけ。

 そう言おうとする前に、彼女の手にスマホを取り上げられる。


 さっき私を捕まえてくれなかった手は、スマホを奪う手になって私の手に触れる。

 私は呆然とした。


「……ゆま」

「何?」


 暖かいエアコンの風に乗ってきたゆまの声は、いつも通り少し冷たくて、乾いた感じだった。


「なんでもない」

「……そ」


 ゆまはいつも通りの涼しい顔で、瀬川さんにメッセージを送っているようだった。


 バレンタインの時、私は瀬川さんに嫉妬した。

 私より瀬川さんの方が大事なんじゃないかと思って、胸が痛くなった。


 結局ゆまは私にもちゃんとチョコを用意してくれていたけれど、でもそれは手作りじゃなくて。


 美味しさで言ったら既製品の方が確かに上かもしれないけれど、私は彼女の手作りのチョコが欲しかった。


 だって、瀬川さんだけずるい。

 私が一番ゆまに想われていないと嫌だ。

 でも私の努力は、明後日の方向に行きがちだ。


 日常の感情だけでは満足できないから、彼女を嫉妬させた。独占欲を感じたくて、好きだと言ってもらいたいから、彼女を惑わせた。


 そうしないと、彼女は一生私に好きだと言ってくれない気がしたのだ。

 だけどそのせいで余計に、ゆまが遠くなってしまっている気がする。


 正解なんて、わからなかった。

 私はどうしようもない。


「やっぱり、なんでもなくない」

「え?」

「こっち、見てよ」


 私はゆまを押し倒して、そのまま彼女の唇にキスをした。

 ゆまは少しの間されるがままになっていたけれど、しばらくして状況が把握できたのか、私の肩を押してきた。

 私は仕方なく、唇を離した。


「どうしたの、急に。カメラあるって、言ったじゃん」

「キスくらいなら、いいでしょ」

「いいわけない」

「なんで」


 好きって言えばいいだけなのに。

 私から好きって言えば、きっとゆまは好きだと返してくれる。

 そのはずなのに、言えないのはどうしてなんだろう。


 もし私より瀬川さんの方が好きだって言われたら、私はもう生きていけなくなる。だけどゆまから好きだと言わせようとしても、今までうまくいかなかった。


 ゆまは私のことが好きだけど、素直になれないだけ。ずっとそう思ってきた。


 でも、本当は違う?

 とっくの昔に私に愛想を尽かしていて、惰性で付き合ってくれているだけ?


 そんなわけない。

 そのはずなのに。


「なんでも。こんなところでするとか、ありえないし」

「してよ、ゆまからも」

「や、だから」

「……して?」


 ゆまは私に好きだとは言ってくれない。

 だけど振られたら慰めてくれるし、私に触れている時の彼女はいつも幸せそうだ。それに、彼女は私に優しくしてくれる。


 絶対、多分、きっと。

 私のことが好きなはずなんだ。


「……わがままお姫様」


 ゆまはゆっくりと体を起こして、私にキスしてくる。

 触れるだけじゃない、深く舌を絡ませるキスだ。

 背中には強く手を回されて、痛いくらいだった。


 ゆまはちゃんと、私を求めてくれている。その瞳にはどろりとした独占欲がある。それに安心して、私は彼女に身を委ねた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る