第27話

「ゆまー。遅いよ、早く早く!」

「んな急がなくても水族館は逃げないでしょ」


 ある日の休日、私たちは水族館に遊びに来ていた。

 例によって今日のお出かけも、花凪の提案によるものだ。

 花凪に付き合うのには慣れているから、私は彼女の提案を一も二もなく了承した。


 水族館に来るのは久しぶりだ。一年ほど前に春香と一緒に来たのが最後だから、それなりに間が空いている。

 考えてみれば、花凪と一緒に来るのは初めてかもしれない。


「楽しみだなー。私、水族館って久しぶり!」


 今日は花凪のテンションがやけに高い。

 かく言う私も、今日はそこそこだ。

 今回は他の奴とのデートの予行とか、そういうのじゃないし。


 これでも一応、好きな人とのデートなのだ。

 私だってちょっとは、テンションが上がっている。


「そ。じゃあ、好きに回れば」

「うん。ちゃんとついてきてね」


 花凪はそう言って、私の手を引いてくる。

 彼女の手は、いつも通り温かかった。


 花凪のことが好きだと自覚してから、一ヶ月近くが経っている。あれから私たちの関係が何か変わったわけではないが、花凪への態度は少し変わったかもしれない。


 今でこそ独占欲を抱いているけれど、元々私は花凪に笑ってほしかっただけなのだ。


 その思いを忘れないようにして、最近の私は彼女と接していた。

 まだ花凪のことを諦められる気配はないけれど。


 それでも少しずつ、私は彼女の幸せを応援しようと思っている。

 それがきっと、普通で正しい幼馴染の形だ。





「クマノミとイソギンチャクって、私たちみたいだよね」


 しばらく館内を回っていると、不意に彼女が言った。

 私は首を傾げた。


「どういうこと?」

「お互いがお互いを必要としてるってこと」

「……」


 私はともかく、花凪はさほど私を必要とはしていない気がする。

 彼女が私の慰めを望むのは、振られたショックを和らげるためでもあるんだろうけれど、それ以上に。


 私をからかいたいという意味合いが強い気がする。

 しているときはいつも余裕がなさそうな割に、私を試すように見てくるし。


 花凪が私をどうしたいのかはわからないけれど、少なくとも純粋な好意を持たれていないのは確かだ。


 好きだったら、変なからかい方なんてしないと思うし。

 私のことを王子様だと言うのなら、お姫様らしくしていればいいのに。

 そうしたら、私は。

 ……私は。


「私は別に、花凪がいなくても生きていけるけどね」

「嘘ばっかり」

「……はぁ。じゃあ、何。あんたは私がいないと生きていけないとでも?」

「どうだろうね?」


 花凪はくすりと笑う。

 あまり好きじゃない笑みだ。


 からかうような、蠱惑的な笑み。もっと無邪気に笑ってほしいと思うけれど、最近の花凪がそういう笑い方をあまりしないのは確かだ。


 だから私も忘れていた。

 無邪気な花凪の笑みが好きだったってことすら。


 私たちの世界は色んなものが歪みすぎていて、元々はどんなものがあったのかすらわからなくなってしまっている。


「花凪は……」


 私のこと、どう思っているの?

 そんなこと、聞いてどうする。

 花凪は私のものじゃないのに。


「私たちがイソギンチャクとクマノミなら、花凪はイソギンチャクだよね」

「え。違うよ、それはゆまの方でしょ! 似てるじゃん!」

「は? どこが」

「指遣いとか」

「……ばか」


 真昼間に一体何を言っているのか。

 誰がイソギンチャクだ、誰が。

 私は花凪の頭を軽く叩いた。


「髪崩れるからやめて」

「花凪が変なこと言うのが悪い」

「変なことって何?」

「だから……」

「ゆまちゃんは一体何を想像したのかなー?」


 本当に、花凪はいつからこうなんだろう。

 昔はもっと素直で可愛かったと思うのだが。

 や、まあ。


 今も可愛いは可愛いんだけど、媚び媚びなのはちょっとやめてほしいと思う。私は多分、自然な花凪のことが一番好きなのだ。


 だけど不自然でも好きな人によく思われたいというのは、仕方のないことなのかもしれない。


 私だってきっと、花凪の前では完全な自然体ではいられない。

 自然な自分を曝け出すのは、難しい。

 本当は、それが好きってことなのかもしれない。


「……教えてあげようか。今、ここで」

「へ?」

「私はそれでもいいけど」

「な、何言ってるの変態! 馬鹿じゃないの!」

「……ぷっ。冗談だし。花凪ちゃんこそ何を想像したのかなー」


 館内には小さい子を連れた親が多い。

 だというのに私たちは、そんな中で妙な会話をしている。私は少し恥ずかしくなってきて、花凪の手を引いた。


 クマノミとイソギンチャクは、互いに触れ合いながらゆらゆらと揺れていた。


 私もああやって、ずっと花凪と触れ合いながら生きていければ。

 それが叶うなら、私はイソギンチャクでもクマノミでも、どっちでもいい。


「早く来て! イルカ始まっちゃう!」

「待ってよ! はやい!」

「そっちが遅いのー!」


 薄暗い館内を歩いていると、幼稚園児くらいの女の子が二人、私たちの横を走り抜けた。


 振り返ると、母親らしき女の人が二人、困ったように顔を見合わせているのが見えた。


 再び前に目を向ける。

 いつの間にか二人は歩調を合わせて、手を繋いでいた。微笑ましくなるのと同時に、私たちにもあんな時期があったっけと、少し思い出す。


 小さい頃の私は、花凪を置いてはいかなかった。

 昔の花凪は足が遅くていつも困った顔をしていたから、私が手を引いてよく歩いていた。


 あの頃の花凪は手を繋いだだけですぐ笑顔になって、機嫌も良くなっていたよなぁ。


 今はどうだろ。

 ちらと花凪に目を向けると、彼女も二人の女の子を見ているようだった。

 花凪はあの子たちに何を感じているのだろう。


 私は一瞬、花凪の手がとても小さくなったように錯覚した。

 かと思えば、花凪の手が私の手から離れていく。


「花凪?」

「ゆま。私のこと、捕まえてみて?」


 ひらりと、舞うように彼女は私の前を歩き始めた。

 子供みたいに館内で走ることはしないけれど。

 手を伸ばしても触れられない。


 ちょっとした風圧で飛んでいってしまうような、ひどく軽いものになってしまっているかのように。


「私の手を握れたらゆまの勝ちね!」

「なんなのその勝負。高校生のすることじゃないでしょ」

「負けたら今日は、全部ゆまの奢りね」

「ちょ……花凪!」


 花凪は楽しそうに笑っている。

 あの子たちを見て、何を思えばこんな行動に出るんだろう。


 私は不可解に思いながら、ひらひら動いている花凪の手を捕まえようとする。

 無駄にすばしっこい。


「ほらほら。このままじゃいつまで経っても握れないよー」

「水族館の楽しみ方じゃ、ないっての!」

「私はちゃんとゆまの分もお魚見てるから、安心して?」

「このっ……」


 本当に、花凪は昔とは比べ物にならないくらい元気になった。

 もう私の手で捕まえることなんて、できないんじゃないかと思う。


 私はしばらく彼女の手を捕まえようと必死になったけれど、やがて自然に止まった。

 花凪はくすくす笑いながら、私を見ている。


「もう終わり?」

「……そうね。もう、終わりにしよう」

「じゃあ今日はお昼とか全部、ゆまの奢りね!」

「いいよ、それで」


 私は花凪の王子様にはなれない。代替品は結局代替品に過ぎなくて、本物じゃないのだ。


 いつか、花凪の手をちゃんと捕まえて、どこまでも引いていける人が現れたなら。


 私は花凪の傍にはいられなくなる。

 だけど、その人が花凪と手を繋いで幸せの道を歩いてくれるなら、きっとそれが一番なんだ。


 胸が苦しいのも、なんだか泣きそうなのも、仕方ない。

 春香の言っていたことが少し、わかった。

 確かに恋とか愛とかそういうのは、疲れる。


 心はちゃんと花凪の幸せを願っているのに、全部失敗して私のところに帰ってくればいいなんて本能が言っている。


 願いと本能は相反していて、胸が矛盾でバラバラになりそうだった。

 生まれてからずっと抱いてきた好きという感情は、もう私から切り離せなくなっている。


 なら。

 これから先花凪以外を好きになんてなれない。


 それなら仕方ない。花凪が恋人を作ったら、私も春香と一緒に友達の恋を冷やかす人間になろう。


「それならよし。ほら、ゆま。手、出して?」

「はいはい」


 好きだよ、花凪。

 ずっと昔から、誰よりも。


 だから私のことを、ちゃんと置いていって。

 一緒にいたら私は、きっとあなたを駄目にしてしまうから。

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