第48話 帰途

 せっかくの名画も焼失を免れたと思った矢先にシュレッダーにかけられてチップが虚しく宙を舞う。

 著名な覆面芸術家バンクシーのように先に名前が売れていたら、裁断された作品にも価値が出たことだろう。しかしまだ画壇を賑わせるようになったばかりのセビルあおい程度の“傑作”が散り散りになってしまっては、価値など存在しないのである。


 一部始終を見守っていたよこやまゆうは、がんさくとはいえ自分の絵がチップ状になってしまった錯覚の中で打ち震えていた。

 もしひと月前に本物を返却していなければ、今頃彼女は失意と無念がせめぎ合った感情の渦の中にいたはずだ。

 俺とれいあきやまたつみたかに連れられて、横山佑子は会場を後にした。


「まさか、怪盗コキアがあれだけの絵をシュレッダーにかけるとは思わなかったわ」

 秋山理恵の言葉に地井玲香は考えている。

「なにか策があったんだと思うのですけれども……。もしかするとわたくしたちが観ていたあの作品が偽物だった、なんて……。そんなことあるわけないわね。私の記憶が確かなら、あの絵は紛れもなく本物だったのですから。でも怪盗は容赦なく処分した。おそらく横山さんの手元に模写が二枚あることを知っていた可能性があるわね」

 地井玲香がこちらを見据えている。


「どうなんだろう。結局のところ“本物”は処分されてこの世に存在しなくなった。でも本来の作者である横山先生の手元には模写がある。怪盗がそれを知っていたとして、それでも非情に“本物”をずたずたにする必要があったんだろうか。やはり正攻法で盗んで、横山先生に返却するのが筋だと思うんだけどね」


「もしかして、怪盗コキアの偽者ってことはないの?」

 秋山理恵が疑問を呈した。

「確かに偽者であれば、盗むと見せかけて処分するのも考えられますわね。でもそんなに都合のいい話ってあるのかしら? 少なくともあの絵が盗品だと知っていなければ、怪盗の名前を出しても誰にもかまってもらえなかったはずよ。警察だって横山さんの作品であることを証明しなければ動けなかったはずですからね。それよりも……」


 地井玲香は秋山理恵に尋ねた。

「あの怪盗コキアのバク転とバク宙に心当たりはないかしら? たとえば見知った人に似ているとか」

「体操関係者だと言いたいのかしら、地井さん? あのくらいならどこにでもいるでしょうね」

「巽くんはどうなのかしら? あなた、義統先生からバク転とバク宙を習ったのよね?」

よしむね先生とは明確に違っていたと思います。先生のはもっと大きく回るクセがあるんです」

「たしかにね。義統くんのバク転とバク宙は、見栄えのする大きな回転が魅力であって、あんな猿芸のようなバク転とバク宙はしないわね」

「ということは、義統くんは怪盗コキアではない、と」


 横山佑子が吹っ切れた表情をしていた。

「いいんです。犯人が怪盗コキアであろうと偽者であろうと。あの絵が処分されたのなら、もう一度描けばいいんです。オリジナルにしか出せない味をしっかりと詰め込めば、今度こそしんがんなんて言われなくなりますからね」

 事情を知っている者が聞くと、かなり際どい内容だ。


「待って。ということは、あの絵は本物じゃなかったってこと? でもセビルあおいはあの絵を盗んだのよね? まさか盗んだ当初から彼女の手元にあったのが模写だった、なんてことがあったりするのかしら」

「なるほど、そういう状況も考えられるわね。横山さん、本当に盗まれたのは本物だったのよね?」

 地井玲香と秋山理恵が立て続けに質問を浴びせる。


「盗まれたのは間違いなく模写の元になったオリジナルです。ですからさっきシュレッダーにかけられたのも本物で間違いありません」

 横山佑子はさっぱりとした表情を浮かべている。これで悪縁が切れそうだと判断しているのかもしれない。

「そういうことなのね」

「そういうこと?」

 地井玲香に問い返した。


「いえね。さっきから横山さんが“オリジナル”と“本物”を使い分けていたのが気になっていたのよ。二枚の模写から見て“オリジナル”だし、それが紛れもないものだったから“本物”だったのね。先ほどから裏読みばかりしていたのですけど、“オリジナル”イコール“本物”ということだったのね。悩んで損しちゃったわ」


 さすが記憶力と洞察力にすぐれた地井玲香である。

 そう、横山佑子本人が描いたものは間違いなく“オリジナル”で、それを参考に俺が模写したものはセビル葵やはままつ刑事と駿河するが、地井玲香などから見て“本物”なのである。

 つまり“オリジナル”イコール“本物”ではないのだ。

 だが、短い時間でその矛盾に気がついたのはさすがというほかない。だが、どうやら勘違いとして片づけられそうだ。

 まあ“オリジナル”を見たら地井玲香も秋山理恵も目を丸くすることだろう。

 それほど“オリジナル”が放つオーラは際立っている。俺の模写もオーラまでは盗めない。だがオリジナルに敬意を込めて、魂を入れて模写することにしている。そこが“オリジナル”とはまた違った魅力となるのだが。だからこそなかなか見抜けないのである。


 それでも地井玲香のようなすぐれた記憶力と洞察力を持っており、“オリジナル”を見る機会があれば、すぐに「違うもの」と認識できたはずだ。だからこそ複製を急いだわけだが。


「そういえば義統くん。巽くんだけど、あなたの教えですっかりバク宙とバク転ができるようになったわ。基本型はもうバッチリね。あとはあなたに影響されて応用をあれこれ試しているわ。あなたに頼んで正解だったわね」

 真面目な表情をした巽孝哉が近づいてきて一礼してきた。

「まあ体育教師としては、本職を遂行したまでだけどね」


「でもあれほど教えるのがうまいとは思わなかったわ。体操部のコーチになる気はない? 協会に紹介してもいいんだけど」

「うーん、パス……かな。体育教師のままのほうがいろいろ携われて面白いし」

「まあいいわ。でも、やりたくなったらいつでも声をかけてね。全日本選抜の男子コーチの稲葉さんにも話は通してあるから」


 やはり秋山さんも抜け目がないな。駿河もお眼鏡に適っているんだから順調に交際を進めたらいいのに。まあ全日本選抜コーチだと、休日も忙しいんだろうけど。


「あの、義統さん。これからうちに寄りませんか? ささやかな祝宴でもと思いまして」

「いいですね。でも僕はアルコールが飲めないんだけど」

「だいじょうぶですよ。私もまだ飲めませんから。ストックがあるのはジュースだけです」

 ふたりで顔を見合わせて微笑んだ。


「義統くんもいよいよ独身貴族を卒業かしら?」

 地井玲香の鋭い視線が飛んでくる。まあ的を外しているから嫌味ひとつも出てこないが。

「いえいえ。まだまだ独身を謳歌しますよ。じゅうぶんに若いですからね。いろいろな出会いをたいせつにしないと」

「横山さん、もしこの男になにかされて訴えたくなったら、うちの探偵事務所を訪ねてきてくださいね」

 ローズレッドのショルダーバッグから名刺を取り出して横山佑子に差し出した。

「ありがとうございます。でも、義統さんは紳士ですからそういうことはなさらないと思いますけど」


「いいえ。下心のある人は、こういう真面目な顔をして近づいてくるものよ。役に立ったと思ったらいつ襲いかかるかわかったものじゃないわ」

「ずいぶんな言いようですね、地井さん。僕はあくまでも絵画の師匠として横山先生を祝福したいだけですよ。下心なんてこれっぽちもありません」

「まあいいわ。今回はあなたを疑っていたのだけど、どうやら杞憂だったようだし。ちょっとカン働きが鈍ったのかしら」

「そうだといいけどね。もし僕が怪盗だったらどうなっていたことか」


「まあ盗品を盗み返そうとせず損壊させたのだから、“器物破損”で捕まえるつもりよ」

「本当にそうだといいんだけどね」


 こうして皆でワイワイ言いながら、廣山美術館の後ろに停めてあった車に戻ってきた。




(本編完・本日19:45投稿のエピローグへ続きます)

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