第7話 保管場所
美術館をあとにするとき、
「先週すでに売却済みになっていた絵はひじょうに抽象的で、木屋さんの作品の方向性が表れています」
「ありがとうございます。私の絵の特徴はあの抽象的な絵柄なんです」
ぶどうジュースを飲みながら、ワインを飲む木屋輝美との会話を楽しんでいる。
「それに比べると、あの“傑作”はひじょうにリアルな画風で、今までの木屋さんの画風とは明らかに異なりますね」
「あれは神が降りてきたのですわ。いつも抽象的な絵ばかり描いているから、たまにはリアリズムを突き詰めてみるのも悪くない、って」
あの出来になったのもご神託にしてしまおうというのか。
横山佑子の絵画教室で彼女の絵を次々と模写しているからわかったことがある。間違いなく、あの“傑作”は横山佑子の作だ。彼女のタッチが自然と表れていた。木屋輝美のタッチではあの筆遣いは絶対に再現不可能である。
「“傑作”にとらわれず、木屋さんの描きたいものを描いたほうが伸びしろがあると思うんですけど。ああいうまぐれ当たりに頼っていると、もしあの絵を手放したら支えがなくなってしまいますよ」
「絶対に手放しませんわ。あの絵を手に入れてから運勢が格段によくなりましたもの。今個展が大盛況なのも、あの絵のおかげ。何億積まれても売るつもりはないわね」
「会場でも申しましたが、賊に持ち逃げされる可能性はゼロではありません。警備を強化して鉄壁の守りを
盗めるものなら盗んでみなさい、と高笑いする木屋輝美を見ていると、あまり気にしてはいないようである。
“傑作”が手元にあるから勝ち誇っていられるが、もしあの絵を失ってなお今の精神状態を保てるのであれば、すぐ世界に出てもじゅうぶん活躍できるだろう。“傑作”に頼っているうちは、いくら絵が売れても素人同然である。
「聞いた話ですが、フィンセント・ファン・ゴッホは『ひまわり』を七枚描いたそうですね」
「あれは連作。最初から何枚も描くためのモチーフだったのですわ」
「あの“傑作”も何枚か描いてみたらどうですか? 『ひまわり』のように売れるかもしれませんよ」
木屋輝美はやや苦い表情を浮かべたが、すぐに顔を元に戻した。
「それもいいかもしれませんね。どれが最初に描いた“傑作”なのか。ファンの方も喜んで予想してくれるかも。いいお遊びを教えてくださってありがとうございます」
「できれば一枚は僕にくださると嬉しいんですけど」
「そうね。七枚描くとして、一枚はあなたに差し上げてもよくってよ?」
肉食獣が獲物を前にしたかのごとく視線を外さず、にやっと微笑んだ。どうやらこれが彼女の本性のようだ。
表情を変えずに見つめ返すと、やっと視線を外した。
「これからあの作品の保管庫へ向かいます。ちょっと飲みすぎてしまったけど、あの絵を見れば酔いも覚めるわ」
夕食もそこそこに、彼女が“傑作”を保管している倉庫へと向かった。
倉庫というから埠頭にあるものかと思ったが、都内の警備会社が運営している貸倉庫だった。なるほど、人的セキュリティーは確保されているというわけか。
それを突破すると簡単なセキュリティーは付いているものの、ガードは思いのほか手薄である。
「この場所を知っているのは私だけ。だったけど、あなたも知ってしまったわね」
「まあ僕は絵を見る目はあるようですけど、所有したいとは思わないので別にかまわないんですけどね。セキュリティーは見ませんから、解除したら教えてください」
といって彼女に背を向けた。
“怪盗”としてこの程度のセキュリティーは難なく突破できる。知りたかったのは“傑作”の所在地だけだったからな。場所さえわかれば、あとはどうにでもできる。
横山佑子の実際のタッチを見ながら勉強していた自分にとって、“傑作”の本物に触れるチャンスは逃せなかった。背後でなにやらがさこそやっている音が聞こえる。倉庫の中のどこに隠してあるのか。だいたいの位置も手にとるようにわかる。
「もういいですわ。こちらを向いてくださっても」
ゆっくり振り返ると、額装に収められた“傑作”がお出迎えしていた。
「何度見てもいい絵ですね。これが七枚並んだら、さぞ壮観でしょう」
「確かにね。これをあと六枚も描かなければなんて思うと、気が遠くなるわね」
ちょっと意地悪しておくか。
「まあ、一度描いたのですから、その要領で量産もできるでしょう。プロの画家ならそのくらいわけないですよね?」
「言ってくれますわね。確かに一枚あればそれを模写して何枚も描けるのがプロよ。でも今すぐは無理ね。これだけ酔っ払ってしまうと筆をまっすぐに走らせることもできやしないわ」
「それは残念ですね。今日はダメだとして、早いうちに模写だけはしておいたほうがいいかもしれませんよ。木屋さんが何億出しても譲らないと知った犯人が、いつ盗みに来るかわかったものではありませんからね」
木屋輝美がせせら笑った。
「まあ、警備会社の中の倉庫にまで侵入してくるおバカさんはいないとは思いますけど。来たら警備員がボコボコにして返り討ちしてくれるでしょう」
「だといいんですが」
俺の態度を見た輝美はなにか引っかかりを感じたようだ。
「それとも、誰かに盗まれるという情報でもあるのかしら? 今話題の“怪盗”は盗品専門でしょう? あれは間違いなく私の筆よ。盗品なんて思われていたら心外だわ」
「いえ、盗品であるとは思っていません。ただ、価値がわかる泥棒がいないともかぎらないので。知名度の高い絵画は、それだけ盗まれやすいってことでもあると思うんです」
「泥棒の窃盗リストに載っているのなら、いっそ光栄と思うべきかしら。まあこの警備のスキを突けるものならやってみなさいっていうのよ。どんなに強くてもこれだけのツワモノに囲まれて逃げ切れるものかしら。ひとりは百メートルを十秒台で走るらしいわよ。逃げ切れるとはとても思えませんけれども」
その不可能を可能にするから“怪盗”と呼ばれるんですけどね。
心の中でそう毒づいた。
(次話が第一章の最終回です)
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