第5話 横山佑子

 セビルあおいの個展を立ち去ってから、今回の依頼人が開催している絵画教室へと向かった。

 依頼人は関東美術大学の学生でよこやまゆう。画家名をないとうと称するその人物は、自宅の一角を絵画教室として土日に生徒を集めて絵の描き方を教えているのだそうだ。

 この話を最初に聞いたときから、横山佑子がなぜ美術大学に通いながら絵を教えているのか疑問だった。そのあたりも聞き出せれば正誤の判断が正確にできるだろう。


 水田から聞いた場所はこのあたりだけど。

 あ、あった。

 「横山」と書かれた表札と門構えに「内藤絵画教室」の看板が目を惹く。そこには茶色い猫と黒い犬がとてもリアルに描かれていた。これに惹かれたことにして、早速門の外に設置されている呼び鈴を押した。

〔……はい、どなたですか?〕

 周囲を見渡すと防犯カメラが仕掛けられていた。あれでこちらを見ているのか。

「あ、僕、絵を習いたい者なんですけど。看板の猫と犬が描けるようになるのにどのくらいかかりますかね?」

〔絵画の経験はおありなんですか?〕

 ここはちょっとはぐらかしたほうがいいか。

「いえ、まったく。ただ、この看板に興味を持ちまして。“絵画教室”とあるので、この描き方を教えていただけたらなあと」


 相手からの反応がない。

 しばらく待つと門の向こうにある扉が開いて、二十歳前後の若い女性が現れた。

「あなたが受講希望の方ですか?」

「はい。あ、男じゃまずかったですかね?」

「そんなことはありません。お教えするのに老いも若きも男も女もありませんので」

「ですが、まったくの初心者ですから、こちらの作品のようなものを描けるようになるまでどのくらいかかるのかなあと」


 少し考えているようだ。

 背は意外と高そうだ。165センチくらいはあるかな。ポニーテールに結いてメガネをしている。スウェットのような生地の上下に絵の具の付着したエプロンをしている。

「そうですね。まずはデッサンがしっかりとれるようになることですね。それができてから塗り方の指導に入ります。デッサン力さえあれば、すぐに色をつけられるでしょうから、そんなに時間はかからないかもしれません。受講するしないはデッサン力を評価してから考えてもらえますか?」

「わかりました。あと無料で教えてくれるわけではないんですよね?」

「はい、月謝をいただくことになりますけど……」

 横山佑子はやや言いよどんでいる。


「おいくら万円ほどでしょう?」

「主に未就学児と小学生に教えていますから、月謝といっても二千円ほどです」

 俺はやや表情を崩して吐息した。

「よかった。それなら払えそうです」

「よろしければご職業を伺っても?」

「僕は高校で体育を教えています」

「あ、教える側の方なんですね。私が絵をご指導してもだいじょうぶでしょうか?」

 横山佑子はやや驚いているようだ。

「かまいませんよ。自分にどんな絵が描けるのか。知りたい意欲のほうがプライドよりまさっていますから」

「ここで長話もなんですから、お上がりください。汚いところですが」




「ねえねえ、おじさん年いくつ?」

「僕の絵を見てよ〜!」

「私が先だって〜!」

 子どもたちは見知らぬ大人の男が入ってきて、かまってほしそうな態度をとっている。

「すみません。いつもはこんなにうるさくないんですけど。皆、絵を描き始めると静かになりますので」

 改めて子どもたちの絵を見てみると、かなり正確なデッサンがとれている。小学生以下でこれだけきっちり描けるというのはそれだけで驚きだ。横山佑子はかなり教えるのがうまいんだな。


「改めて自己紹介致しますね。私は横山佑子。関東美術大学の三年生です」

「僕は都立先枚高等学校の体育教師で、よしむねしのぶです」

「先枚の先生でしたか。あそこの卒業生が私と同期で、よく一緒に絵画展なんかへ足を運んでいるんです」

「世間は意外と狭いですね」

 どうやら高校教師ということで、あまり身構えられずに済んだようだ。


「ではさっそくですけど、デッサン力をチェックしてもよろしいでしょうか?」

 彼女はデッサン帳と鉛筆、消しゴムを持ってきた。

「人にお見せするほどのものではないんですけどね。人前で描くのも実は初めてなんです。で、なにを書けばよいのですか?」

 視線を上に向けて少し考えているのだろうか。

「そうですね……。まずは基本のりんごとバナナを。それを拝見してから、より細かいものをチェックさせてください」

「わかりました。久しぶりに絵を描くなあ」




よしむねさん、すごいデッサン力じゃないですか! これほどなんてプロでもそうはいませんよ!」

「そうですか? なんか思ったようにうまく描けていないんですけど……」

「義統さんって空間認識能力と美的感覚がとてもすぐれているんですね。長年デッサンを描いてきた私なんかでも、とてもここまでは描けませんよ。私がお教えしなくてもじゅうぶん描けると思いますよ」

 ある程度下手に描いたほうがよかったんだろうけど、どうも絵は妥協したくないんだよな。まあこれで横山佑子の関心が惹ければそれでよしとしよう。


「うーん、そうですかね? でも絵の具を使ったことがないので、これに色を塗るっていうのがよくわからないんですよね」

「人にはそれぞれ向き不向きがありますから。デッサン力にすぐれていても、着色でしくじって台無しにするプロがいくらでもいる世界ですから」

「なんかハードルが上がっている気がするのですが……」

「これだけデッサンが描けるのなら、スパルタででも色塗りを憶えてもらいますからね」

 どうやら見込まれたようだな。これでなにかと話がしやすい状況になったな。


「横山先生の作品を何枚かお借りできますか? それを見て参考にしたいんですけど。あ、お借りすると言ってもこの教室の中でだけです。外に持ち出すわけじゃありませんので」

「いいですよ。つまらない作品でよければ、ですけど」

「できれば表の猫と犬の看板の元になった絵を見せていただきたいんですけど」

「義統さんって、よっぽどあの絵が気に入ったんですね。私もあれは上出来だと思っていますけど。あの絵を見て教室に通いたいって子、本当に多いんです」

「あれだけ動物を生き生きと描けるなんてたいしたものですよ。できるだけたくさん拝見して、そこからテクニックを吸収したいと思います」



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