第4話 無名の名画

 てるに先導されて“傑作”の前までやってきた。

「この作品ですわ」

 これが木屋輝美の作品ではない、と言い切るのは簡単だ。だが、そのあとになにが起こるのかを考えると、素直に口にするわけにもいかないが。

「あなたの評価が知りたいわ」

 意味ありげな視線でこちらを値踏みしているような気がする。

「この作品は前回来たときから目をつけていましたよ。パンフレットの表紙にもなっていましたし。明らかに他の作品とは別格ですね。たしか非売品、でしたよね?」

「そう。これは絶対に手放さないわ。偶然にしても私にとっては会心の作品だと思いますので」

 こちらも軽く探りを入れてみるか。


「そういえば気になっていたんですよ。この作品、タイトルが書いていないじゃないですか。作品の脇にもパンフレットにもタイトルが書いていないんです。木屋さんが書き忘れたとも思えませんし。どうしてかな、と」

 意味ありげな微笑みを浮かべている。なかなかの策士だ。疑問に思った人物は徹底的に正体を暴こうという腹だろうか。


「これはある夕方、偶然に見た景色を描いたものなんですの。その場で見ながら描いたのではなく、心の中にある景色を描き出したってわけ。だからこんなに幻想的な絵柄になったってわけ」

「へえ、心の中にある景色を描くだけで、こうもタッチが変わるものなんですね」

 その言葉尻をとらえられた。

「そう、この作品は心象描写なの。だから描いたときもそれを再現することだけを考えていたから、タッチがどうこうなんてまったく考えていませんでしたわ」

 この言い訳が真実かどうか。答えはいずれわかるだろうが、心の中の景色を描いただけでここまでタッチが変わるはずもない。いくらか散漫になることはあっても、明らかに色の乗せ方が別人のものである。


「で、この作品のタイトルはなんと言うのですか?」

 話が逸れそうになるのをうまくあしらった。木屋輝美の顔色がやや曇ったようだ。

「この作品にタイトルはありません。売り物ではありませんから、タイトルをつける必要もありませんので」

「では、無名の名画ということになるのですか?」

「無名の名画……。いい響きね。今度から誰かに名前を聞かれたら、そうお答えすることに致しますわ」

 ひとり納得したようで、こちらのことはおかまいなしになっている。

「ところで、ここでの個展は明日で終わりですけど、次はどこで開催なさるおつもりですか?」

 水田の調査を待てばわかることだが、情報を聞きつけ、偶然を装って出会うのは案外難しい。それなら本人から直接聞くに限る。

「次は一か月後のひろやま美術館になりますわね」

「都内ですね。それなら私もまた通えそうですよ」

「目的は絵なのかしら?」

 彼女が妖艶な笑みを浮かべていることに気がついた。これは暗に、好意を寄せていると伝えようとしているのか。

「ええ。とくにこの“傑作”は何度見ても飽きないくらい素晴らしい出来映えですよ」

 視界の脇で表情を確かめる。


「それに木屋さんと知り合えたのもなにかの縁です。食事のひとつも奢らせてもらいたいくらいです」

「あら、お上手ね。あなたとお酒を飲むのは楽しいひとときになるわね」

 途端に俺は小さな笑い声を発した。ブース内の人がこちらをちらちら眺めている。

「あ、すみません。つい笑ってしまって……。実は僕、アルコールが飲めないんですよ」

「女性にモテそうな顔をしているのに、お酒も飲めませんこと?」

「はい。一滴でも入ると強烈な頭痛が襲ってくるんですよ。だから洋菓子なんかでブランデーとか入っていると、死ぬ目に遭いますね」

 木屋輝美はくすくすと声を押さえて笑っている。


「それじゃあ次に会ったときにでも、私のほうからお食事をお誘いするわね。もちろんあなたはソフトドリンクで」

「ええ、それでかまいませんよ。でもいいんですか? 新作も描かなければならないでしょうし、そんなに空き時間があるような仕事とも思えないのですが」

 ここは調子を合わせて、木屋輝美の懐に飛び込んでみようか。

「いいのよ。私にとって作品は売るために存在するんだから。絵を描いて個展で売りさばくだけよ。小銭稼ぎの絵くらい、わけなく描けるわ」

「さすが、この“傑作”を描いた人はレベルが違いますね。じゃあ僕は来週にでも廣山美術館へ行ってみますね。どんな場所にどのような作品が並べられるのか。想像してみたいので」


「あら、来週は館長と打ち合わせなのですけど、なんなら一緒にお話できないかしら。あなたの美術品を見る目を買って、絵を展示する場所についてもご意見を伺いたいですからね」

 どうやらうまく受け入れられたようだ。これで当日の防犯システムの確認もできるだろう。

「それでは僕は他の絵をチェックしたら帰りますね。来週の土曜日に廣山美術館でお会いできたら、食事を奢ってくださいよ?」

「女性に払わせようだなんてたいした度胸ね。でも、いいわ。あなたをわたくしの学芸員にできないか、話を聞くいい機会ですから」

「高校の体育教師も気に入っているんですけどね」

「でも薄給なんでしょう?」

「それは否定しませんよ」

 苦笑いを浮かべつつ軽くあいさつして他の展示品を眺めていくことにした。




〔で、どうだった? セビル葵には接近できそうか?〕

「ああ、来月に廣山美術館で次の個展が開かれるらしい。その打ち合わせを来週するらしいから、僕も来週美術館へ行くつもりだよ」

〔となれば、セビル葵側は攻略できたも同然だろう。来週も必ず接触するんだぞ〕

「当たり前だ。このチャンスは絶対に逃さない。警備状況を知るチャンスでもあるからな」

 怪盗としては、事前に情報を知り、可能であれば仕掛けも残しておきたいところだ。前回のスピーカーとプロジェクション・マッピングも同様の手はずで事前に用意したものだった。


〔で、依頼人とはいつ会うんだ?〕

「これから絵画教室に行く予定だよ。土曜は夜コースしか空いていないらしいって水田も言っていたじゃないか」

〔そうだったな。じゃあ先方にアポイントメントをとっておこうか?〕

 ちょっと考えたがやめておくことにした。

「いや、偶然を装って絵画教室を訪ねることにしたよ。ひょんなところから“彼”の素性がバレかねないからね」

〔それもそうだな。先週頼んですぐ現れたんじゃあ、『僕は怪盗です』って言っているようなものだし。ただ気をつけろよ。実際に盗品とは限らないからな〕

「いや、あの絵は少なくともセビル葵の作じゃない。依頼人のタッチを確認してからじゃないと断言はできないけど、おそらく依頼人の作だろうね」

〔わかった。それじゃあ警察に気をつけて接触しろよ。お前が捕まるとこちらも困るからな〕



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