終章

【八重垣清司(修司)の手記】


 勘違いも甚だしく、善良な模倣犯である鎖々戸修司君を逮捕した無能な関係者諸君のために、殺人犯・八重垣清司(修司)の足跡をここに記しておく。


 (中略)母は双子の弟の清司を奉公に出すことに決めたが、ぼくは、あんな貧乏な家から一刻も早く逃れたかった。ぼくは、清司を騙して入れ替わり、清司の代わりに家を出た。

 奉公先の春水屋で、二つ上の櫻子さんは、まるで弟のようにぼくを可愛がってくださった。ぼくが、人を殺すことに興味があるとも知らないで。

 ぼくは、小さい頃から人の死に心惹かれ、いつか人を殺すことを夢想していた。後に起こった悲劇は、櫻子さんとぼくの、欲求の一致から生起したものだ。櫻子さんは死んでみたかったし、ぼくは人を殺してみたかった。殺される直前になって、櫻子さんは涙を流し、震えた。もしかすると、怖かったのかもしれない。でもぼくは、短刀を握った手を止めることはしなかった。

 人を殺してはじめて、ぼくは、自分が殺人という行為を好んでいるということに気がついた。櫻子さんのあばら骨の向こうで赤い心臓が動いているのを見た時、ぼくは言うに言われぬ達成感と、幸福を感じた。

 人を殺めてしまった八重垣清司は、当然のことながら警察に捕まった。でも、捕まったのはぼくではない。

 ぼくの代わりに逮捕され、獄中で死んだ清司は、さぞかしぼくを恨んでいることだろう。

 ついに人を殺してしまったぼくは、ぼくに代わって八重垣修司として暮らしていた弟の清司を呼び出して、再び入れ替わった。

 ぼくは何事もなかったかのように、修司としてみすぼらしい実家に戻った。ぼくを怪しんだ母は、殺して庭の枯れ井戸に捨てた。

 ぼくは立て続けに、二人も人を殺した。その後清司が死んだから、三人殺したことになる。でも、ぼくは、もっと殺してみたかった。

 家に一人きりになったぼくを、亡き父の兄である黄泉坂子爵様が拾ってくださった。人殺しの兄弟でいるのは何かと不便だろうと(当の人殺しはぼくであるのに)、子爵の家の名前まで与えてくださった。

 でもぼくは、黄泉坂子爵様に、自分は奉公に出る時に兄と入れ替わっていて、本当の名前は清司なのだと嘘を言った。濡れ衣を着せられ死んだ可哀想な清司への、ぼくなりの償いだった。

 嘘。ぼくは、八重垣清司としてどれだけ人を殺せるか試してみたかった。ぼくは、清司として殺人を行ってきたのだから。

(中略)ぼくに代わって逮捕された鎖々戸修司君は、気の毒としか言いようがない。婚約者の少女の身の安全を守るため、勇気を奮って銃を構えていたところを取り押さえられたのだから。

 本当の魔弾の射手であるぼくを隠れ蓑にする企みがあったかは知れないが、正義感溢れる侯爵家の御曹司と、人殺しが好きな貧しい家の子では、「修司」違いも甚だしい。

 各新聞社は魔弾の射手の逮捕を大々的に報じているが、真の魔弾の射手の立場からすれば、鎖々戸修司君に手柄を横取りされたような気分で、不愉快である。

 ぼくは、真の魔弾の射手として、世間の間違いを正さねばならない。

 春水櫻子さんを殺し、母を殺し、双子の弟を殺し、そして将校ら六名を殺した殺人犯は、八重垣清司であり魔弾の射手である、このぼく、八重垣修司であると。


     ◇


「全くの予想外だ」

「早乙女と同じことを言うのだな」

 沈黙を返し、席を立つ。居間に通された八の字髭の男は、騒々しい家宅捜索の後、機を失した野次馬のように渦中の子爵家を訪れた。

 西日の差す邸内に音はない。廊下の古びた木目に薄らと積もる、無数の足跡に踏み散らかされた塵埃が、過ぎ去った騒乱を物語る。

 雑草が繁茂する庭の片隅には、証拠探しのため念入りに掘り返され、家人によって埋め戻された小さな畑。水を撒かれた土壌から、未だ生命は芽吹かない。

「ご足労いただいたところ申し訳ないが、そうとしか言いようがない」

の行方は」

「さあ。ここ十日ほど、連絡もない」

「人探しは得意ではなかったか」

「軍にいる知り合いに訊いた方が早いのではないか。火消しに追われてそれどころではないのかもしれないが」

「……流石に敏いな。もしや、においでも付いているのか」

 男は背広の肘に鼻を寄せた。いくら含意的に纏わされたものであっても、化生の体臭は人間にはわかるまい。

 得心のいかない顔で、男は首を傾げた。「まあいい」

「『真・魔弾の射手』が引っ掻き回してくれたおかげで、我々は対応に困っている。あの手記を、よりにもよって帝都新聞社に送り付けてくれたせいで、世論は侯爵家の御曹司を擁護し、真犯人探しに躍起だ。苦労して尻尾を掴んだ『魔弾の射手』も、嫌疑不十分で釈放された。我々は黄泉坂清司が行方不明になっている今のうちに手記の真偽を明らかにし、騒ぎを収める必要がある。

 ――手記の内容は虚偽、八重垣清司も、替え玉にされた八重垣修司も獄死しておらず、八重垣中尉の二人の子は、それぞれ黄泉坂清司と鎖々戸修司として生存している。そういうことで間違いないな」

「さあ、どうだか」

 短く返答する。背後に感じる気配が、僅かに揺れた。

「自分でやったことだろう。三年前、貴様は早乙女と結託し、八重垣修司を使って八重垣清司の獄死を偽装した。だが、替え玉にした八重垣修司もシンキで、奴は偽装に関わった者たちの記憶を誤魔化して遁走し、鎖々戸侯爵家の子になった。そうではないのか。

 何故手記が虚偽であると証言しない。八重垣清司は、無実の罪を被ろうとしているのだぞ。三年前に貴様が殺そうとした、八重垣修司が犯した罪を。

 貴様にとって八重垣清司は、片割れを殺してでも生かしたい、弟君の忘れ形見なのだろう」

 人間の言葉を理解しながら、深く息を吐く。斜陽が翳る。

「別に。どうだっていい」

「何だと。血は繋がっていなくとも、弟の子だろう。貴様の養子だろう」

「使えそうだったから、生かしただけだ。情もない」

「貴様にも少しくらいは人間らしいところがあると、期待した俺が莫迦だった……弟君が不憫でならない」

「今更だろう」

 ――今更だ。

「……一度救った子を見捨てて、どうするつもりだ」

「どうもしないさ」

 もう、遅い。そう告げ、場を辞した。


 ――ああ、黄泉坂さん。警視総監さんはお帰りになったんですね。まったく、急に訪ねてくるもんだからびっくりしましたよ。清司が帰ってきてるか、見に来たんですかね。清司の奴、あんな突飛なことをして散々世間を騒がせた挙句、行方を眩ませて……一体、何を考えてるんだか。あの手記には、流石に驚かされましたけど。でも、ちょっと笑えますね。知ってます? 黄泉坂さん。清司ったら、いっとき推理小説やら怪奇小説やら、とにかく猟奇的な小説ばかり読んでた時期があって……絶対あれ、お手本にしてますよ。どうして侯爵家の御曹司を庇うような真似をしたのかは謎ですけど、食い気ばかりのあいつに、あんな心理が備わっているはずないじゃないですか。――あ、そうそう、さっきラヂオで言ってたんですけど、『魔弾の射手』の父親の、鎖々戸新太郎さん? 最近体調を崩して寝込んでいるそうですよ。そりゃ子供が殺人容疑なんかで捕まっちゃったら、精神的に参っちゃいますよね。結構深刻みたいで……あれ、黄泉坂さん……?


 剣先からは、どす黒い憎悪が音もなく滴っていた。

 本性は胸の傷口と腹部の空洞から止めどなく流出し、足元に闇色の血溜まりを作った。果てることのない憎しみに、自らにかけた呪いに、鬼の核は自壊を始めていた。

 ――兄貴。写真の中、唯一の血縁を呼んだその口の形のままの笑顔が思い出させた、掌中の蜘蛛糸の存在。

 醜い化物にも救われる道があると、正しい者で在れる蓋然性があると。かつて確かに我が手にあったか細い、しかし暗闇に明らかな一条の光。別離の苦しみがあろうともいつかの救済の希望を示したそれは、ある日唐突に途切れ、糸の先に二人が共に在れる理想世界を夢見た鬼は、生まれ落ちた地獄で、その罪でありそこに在る理由、どす黒い憎悪に身を焼かれ、ただそう在ることしかできなくなった。

 愛する者が愛したものを、愛することができず。

 正しく在るための理由を失くした鬼は、本性に殉じることでしか、自らの正当性を示すことができなくなった。

 紅い花の咲く地獄は、憎しみの果て、身を焼く憎悪が尽きるまで終わらない。


(――必ず迎えに行くと、)


 黄泉坂征は剣を振り上げた。

 未だ漆黒を呈するは――仇敵を討ち滅ぼし得る化生は、生真面目そうに椅子に腰掛け、同じく線画の世界に複写されたカンバスに向かっていた。

 刃が閃く。迷いなき剣閃は黒い人型を真二つに斬り裂き、白い画布に墨を散らせた。

 人ならざる血肉は燃えるようであるのに、内に備えた理智は澄明を保っていた。切先を翻し、間髪入れずに逆袈裟に切り払う。立て続けに切り刻まれた画家の血潮は凄絶な模様を描き、絵画は最後に後ろから蹴りつけられた画家自身の血判によって完成された。

 かろうじて人型と判じられるが、ずるりとカンバスの上を滑り、床に崩れ落ちる。末端から霧散し始める曖昧な断面からは暗黒の液体が滲出し、影のように足元に広がった。

「鎖々戸啓太郎」

 その名を口にすれば、無音の返答。黒い粒子となって解れていく同居人の身体を蹴りつける。応答はなく、剣を逆手に持ち替え、上から何度も突き刺す。

 かつて化生であった者の本性は、時の流れの縁に少しずつ取り残され、御匣梅子という別人格が描く絵に吸われ、日に日に遠ざかっていくようだった。その喪失を物語るように薄らいでいく影法師。入り日に影が淡くなるように、本性に終止符を打つ希望さえ翳っていくような気がしてならなかった。

「鎖々戸啓太郎。お前の兄が死ぬ前に殺せ」

 ――『約束』に殺してもらえなかった憎悪の鬼が、二度と戻れなくなる前に。

 ――行き場を無くした憎悪が片割れを殺し、永遠に『約束』が履行されなくなる前に。

 化生の肉体が変じた黒煙は、線香のように静かに漂った。

「――まだやってるんですか? 哲学のお薬は依然効果がないようですね」

 声はカンバスからした。塗りたくられた禍々しい墨が、身震いをするように蠢く。

「鏡は見ましたか? 随分と、酷い姿におなりだ」

 流動する絵画の中に、一瞬だけ現れた青年のかんばせ。直後、中央に結集した黒い影は絵を抜け出し、天へと駆け上がった。

 影が溶け入るや否や全天に広がる鏡面。天地逆転した鏡の世界に、いつぞや目にした背広姿の青年が逆さに映る。常から物憂げな眉を持ち上げ、上目に髪の具合を気にする美貌に重なるように、薄らと映る醜悪な鬼の姿。

「いくら醜いお姿になろうとも、辿君の仇は取れず、辿君から慕われた兄の姿からは乖離し続け……なのに、当の仇は貴方の憎しみの一端と、仲良く楽しく人生を謳歌している。死ぬ時だって、あいつはきっと、美しく死ぬのでしょうね」

「鎖々戸新太郎を殺せ」

「放っておいてもあいつは死ぬんでしょう? いいじゃないですか」

 鏡の中から、秘めやかに笑う声。

「あいつは美しい、貴方は醜い。あいつは何をしても許される、貴方は何をしても許されない……正しい存在で在ろうと苦労して生きてきた貴方は、好き勝手無責任に、やりたい放題生きてきたあいつに勝ち逃げされるんですよ。仇討ちなんていう自己満足も果たすことができずにね。アハハ、どんなお気持ちですか?」

 無言を嗤うように、澄んだ音を立てて空がひび割れていく。

「最後にお会いすることができて良かったです、黄泉坂子爵。惨めな貴方を見ていると、やはり俺の理想世界は美しいと再確認できる」

「――待て、」

「待ちませんよ。貴方と違って、俺には、理想世界アタラクシア行きの切符がある」

 青年が踵を返すと同時、天は粉々に砕け、燦めく瀑布となって地上に降り注いだ。

 無数の輝きを反射する紗幕の中で、鎖々戸啓太郎はひらりと手を振った。ちらりと地上を振り返った横顔に、美しい嘲笑を浮かべ、

「さようなら、黄泉坂子爵。貴方はどうか、醜いままで。なるべく長生きしてくださいね」

 アハハ……その背が光輝の向こうに消えるまで、朗らかな笑声は、絶えることなく反響していた。


     ◇


「――黄泉坂さんですか?」

 後ろに気配を感じるも、手を止めることはできなかった。

「すみません、ちょうど絵の構図が舞い降りまして……大作が描けそうなんですよ」

「……こいつは誰だ」

 低く、家主の声がした。わたしの趣味に関してはいつも無関心、怪我人を監視する代わりにこの六〇号のカンバスを請求したときも、「勝手にしろ」としか言わなかったくせに、珍しいこともあるものだ。

「さあ……ふと浮かんで。でも、もしかしたら、夢でわたしの後ろに立っていた人かもしれません」

 黄泉坂は何も言わなかった。わたしはこの機に、話すことにした。

「昔、よく見る夢があったんです。わたしはどこかの家の縁側に座っていて、空を眺めているんです。季節は夏で、蝉の声が聞こえていて……わたしの後ろには、『誰か』が立っているんですけど、夢の中のわたしは、絶対に振り返らないんです。気配だけを感じていて、でも、その『誰か』が、ちょうど清司と同じか、少し上くらいの青年だってことはわかるんです」

 木炭で下絵を描くこの瞬間でさえ、カンバスには鮮明な色彩が浮かんでいた。

「その彼は、夢の中では何もしないんですけど、わたしが起きている時に話しかけてくるんです。俺を殺してください、って。全部幻聴で。実は、三年前まで、ずっと聴こえていたんですよ、言ってませんでしたけど。普通に生活していても、四六時中聴こえるんです。殺してくれっていう彼のお願いが。耳の奥か頭の底かは知りませんけど、ずっと、彼の声があったんです。もしかすると、わたしの記憶喪失と何か関係があったのかもしれません。でも、結局何も思い出せないままで、彼がどうなったのかもわからず……ちょうどわたしが酔って頭を打って入院したくらいからですかね、段々と聴こえなくなって……最近は全く。あの夢も、もう見なくなりました。きっとこの絵は、彼からの別れの挨拶なんでしょうね。そんな気がします」

 わたしは幸福のうちに閉じられた『彼』の睫毛を描写する。白黒の絵の中で、彼は彼の望み通りに死んでいた。

 ――この絵の完成が、彼の。この絵の完成が、わたしと彼との永遠の別れになるだろうと、わたしは妙に確信していた。

「楽しみにしていてくださいよ、黄泉坂さん。この大作を描き上げて、わたしは有名画家になってみせますから。もう穀潰しとは言わせませんよ!」

 よし、と一区切りつけて振り返ると、黄泉坂はもうそこにはいなかった。

 開け放たれた背後の襖から吹き込む涼しい風が、夏の名残をさらう。

 夕闇の落ちる廊下は、しんと静まり返っていた。


     ◇


『魔弾の射手』の犠牲となった将校は六名。しかし、梅雨が明け、夏の終わりが近づいても、彼らの頭部を貫通した銃弾は五つしか見つからなかった。

 射手が一度に二人の頭を撃ち抜いてみせたのか。それとも記念に一つ持ち帰ったのか。その夜聞こえた銃声が五と言う者も六と言う者もあり、真相は知れないままだった。

 だが、急転直下、侯爵家の御曹司が射手として捕縛されたかと思いきや、真の射手を名乗るものが現れ、その住処に捜査の手が及んだ九月。

 意図的に洗浄された、ひしゃげた金属が、『真・魔弾の射手』の自室から押収された。

 それが直接の判断材料になった訳ではないが、『魔弾の射手』と目されていた鎖々戸修司は、およそ二週間の勾留の後、嫌疑不十分で釈放された。

 家人の証言により、鎖々戸修司が逮捕時に持っていた銃には同型のスペアがあったことが判明しているが、家宅捜索では見つからずに、昨日、ビルの狭間の路地で発見された。

 小銃から検出された指紋は『真・魔弾の射手』こと黄泉坂清司のもののみ。黄泉坂清司が侯爵邸から盗み出したものと見られているが、鎖々戸修司が自室にて管理していたため、家の者は誰も、その父も、保管箱からいつ銃が片方消えたのか証言し得なかった。共に鳥撃ちに出かけた婚約者の少女も、鎖々戸修司がどちらの銃を使っていたかまでは覚えていなかった。

(……清司君は、最初から、修司君のことしか見ていなかったんだね)

 途切れ途切れのひぐらしの声が、暮れの空に物悲しく響いていた。

『真・魔弾の射手』の出現以降、偽装工作をしないようにと本部にて監視付きの生活を送ること十余り二日。ようやく解放され帰路についた鼻先に、七輪で魚を焼いているのか、それとも野焼きでもしているのか、何かが焼けるにおいが触れる。

 夕飯は秋刀魚を焼くか、もしくは鰻の出前か。ふと考えて、唇を歪める。眼裏に浮かんだのは、ちょうど去年の今頃、庭先にしゃがみこみ、団扇片手に七輪で魚を焼いていた義理の甥の姿だった。

 ――早乙女さん。もうすぐ焼けますよ。

 しみったれた手ぬぐいで作ったねじり鉢巻きと、とびきり綺麗な顔立ちが酷く不釣り合いで。一体誰がこんな風にしたのかと、口には出さずに笑ってしまった。

(シンキっていう生き物は、いつだってそうだ)

(いつだって、僕が勝手に、そう思ってるだけじゃないか)

 家の方向とにおいが流れてくる方向は同じで、家路を辿る一歩毎に、追想を幇助した。

(……清司君は、きっとあいつらのところだ。比良少佐はこれ以上事が大きくならないうちに上手く処理して、両方とも手に入れるつもりなんだ。弟の罪を被った清司君と、大きな守りを失くしてしまう修司君を)

(でも、そうなったら、征君はどうするんだろう……)

 肌寒い秋風が吹いて、臭気が強まった。はっと視線を上げる。あちこちひびの入った、見慣れた子爵邸の築地塀。その向こうから、細く煙が立ち昇っていた。

「――ただいま、征君」

 庭先に立つ、外出の装いの義兄。その足元には、黒く燻る何かの残滓があった。

 燃え残った白い頁が、李の花びらのように風に転がる。灰は書で、論文で、人間の思想と言葉だった。

 視界の端、庭の片隅に置かれていた枯木の残骸は、消えていた。

「今日の夕飯、どうしようか。出前でも取る?」

「私は要らない。好きにしろ」

「どこかお出かけ?」

「ああ。居候に後始末をしろと伝えろ」

 地面の燃えかすを一瞥して、義兄はその場を去った。

(火事じゃなくてよかったけど、とても嫌な予感がする。不安材料がありすぎる。征君、鉄砲持ってた? いや、わからない。見逃した。もし持っていたら――違う。もしそうなら、梅子君ははずだ。今みたいに、部屋でガサガサやってるはずがない)

「また絵ばっか描いて。掃除も飯炊きもすっぽかしてるんじゃないよこの居候――」

 足早に階段を上がって部屋を覗いて。いつものように小言を述べた口が、凍りついた。

 ――カンバスの中で眠るように死んでいる、青年の顔立ちは。

「あ、早乙女さん。お久しぶりですね」

 それはそうと見てくださいよこれ! まだ下絵ですけど大作の予感が――

 部屋を飛び出し、階段を駆け降りた。残照の幽かな光明は薄れ、暗闇に沈んでいく廊下を走る。

「征君!!」

 義兄は、玄関の引き戸に手をかけたところで停止した。

 何もかも死に絶えたような無音に、努めて平静に押し殺された生者の息遣いが染み入る。

「どこへ、行くの……?」

 応答はない。浅黒い顔が、呼び止めた義弟を振り返ることもなかった。

 透明な壁に遠く隔てられたその背に、永く忘れ去られていた胸の奥の古傷が、さめざめと冷たい血を流し始める。

「ねぇ、清司君が帰ってくるの、皆で待っていようよ。今日は出前にしてさ。清司君なら、そのうちひょっこり帰ってくるよ……清司君が帰ってきたら、皆でどこかへ旅行するのもいいかもね。ほとぼりが冷めるまでさ……実は、ずっと秘密にしてたけど、箱根に別荘を買ったんだ。ここよりずっと手狭だけど、のんびり静かに暮らすにはもってこいの場所なんだよ。もし征君が気に入ったら、皆でそこに引っ越しちゃおうよ。ミィちゃんも一緒に。掃除は清司君と僕でちゃんとするからさ」

 義兄が振り向くことはなく、取り繕った笑みは無用と化した。

 刻々と濃度を増す闇に、義兄の暗色の背広が溶けていく。三和土たたきを覆う暗がりで、靴底が砂利を噛む音がした。

「征君、行かないで……」

 口にして、不意に視界が歪んだ。偽る度に張りつけてきた笑顔が、剥落していく。

「征君は、人間としてだって、生きられたじゃないか。辿君を、愛せたじゃないか。どうして、シンキとして生きようとするの。征君が憎んでいる人はもう死んじゃうんだから、許してあげたっていいじゃないか。辿君だって、そんなの望んでないよ……もし、何かを憎まないと生きていけないのなら、僕を憎んで。

 ――僕は、ずっと君を騙してた。君と手を組んで嘉宣よしのりさんも義兄さんたちも、そのお嫁さんも子供たちも、みんな殺していく間もずっと、君の義理の弟になってからもずっと、本国に情報を流してた。僕は、英国のスパイなんだよ。シンキを養成する機関で教育を受けて、素質がなかったから諜報員として日本に送られた。かまととぶってたけど、小さい頃からシンキのこと知ってたんだよ。『切り裂きジャック』とも知り合いさ。征君は気づいてるんだろうけど、比良少佐には正体も知られて利用されてる。アルバートとも比良少佐に呼び出される度に会ってる。僕はずっと君に嘘を吐いて、騙し続けてきたんだよ。僕を憎む理由なんて、たくさんあるだろう? だから、僕を憎めばいい。僕を憎んで、憎んで、それで、」

 ――一緒に生きて。無駄と知りつつ表情を知られぬよう押さえた口が、願いを吐いた。それは、さも美しい懇願のように唱えられた、反吐のような願望だった。

 本懐を遂げられぬまま恥辱にまみれ、果てぬ憎しみに苛まれ、地獄の炎に身を焼かれても尚生きよと。裏切り者の幸福の為に、願えどもそう在ることができなかった存在になれと。

 そうやって他人を利用する自分の浅ましさが、心底嫌いだった。

「お願い、征君……僕を、憎んで……」

「……憎いさ、最初から。何もかも」

 戸が後ろ手に閉じられた。嗚咽を漏らし、その場に崩れ落ちる。

 共に穢れ、共に地獄を行くことを願った共犯者は去り、また小鳥は一人きり、逃れ得ぬ神の掌中に取り残された。


     ◇


「うわ、どうしたんですか早乙女さん!? 大丈夫ですか!?」

 玄関に蹲る同居人を発見し、思わず声を上げて駆け寄った。近くで見ると、その体勢はまるで土下座。他人に頭を下げる事なんてほとんどないようなお高くとまった奴なのに、何とも珍しい。白い仔猫も、不思議そうにその様子を眺めていた。

 むくりと身体を起こした早乙女の顔の、何と酷い事。

「すごい顔ですよ」

 早乙女は言い返してこなかった。不気味だった。

「一体、何があったんですか?」

「……僕の部屋の、一番奥の襖の中」

「はい?」

「箱根に別荘を買ったんだ。行くかどうかは、梅子君に任せるから。ここに住み続けるなら、貸家にしてくれてもいい」

 そこまで言って、早乙女は立ち上がった。服をはたいて、髪を整える。

 はぁ。とりあえず返事をしたわたしの腹が、図らずしも、ぐぅ、と鳴った。

「ゆ、夕飯どうしましょう……」

 飯炊きをすっぽかした手前謙虚に尋ねると、早乙女はこれまた不気味な無表情のまま、二つ折りの財布を丸ごとわたしに差し出した。

「これで出前でも取りな。寿司でも蕎麦でも、好きな物食べていいよ」

「ええっ、いいんですか!? 早乙女さんはお出かけで?」

「うん、僕と征君の分は要らないから。あ、庭の燃えかすの始末しといてって征君が言ってたよ」

「はぁい。こんな時期に焚き火でもしたんですか? しょうがないですねぇ」

 燃えかすを肥料にすれば、警察の奴らに乱暴されたスモモも元気になるだろうか。

 それにしても、財布も持たずに外出とは。わたしがその違和感に気がつくと同時、早乙女は無音で何か言葉を紡いだ。

 ――鎖々戸啓太郎君。

「え? 何か言いました?」

「ううん、何も。

 ――さよなら、梅子君。ミィちゃんも。今までありがとう」

 楽しかったよ。似合わない科白を残して、早乙女は出かけていった。

 清司は帰らず、黄泉坂も早乙女もいない。わたしは同じく取り残された、白い毛玉に手を伸ばす。仔猫は逃げずに、わたしの手の中に収まった。

 胸に抱き、ふふんと鼻を鳴らす。長きに渡る戦いに勝利した瞬間だった。

「今日からわたしがお前のご主人様だぞ、猫畜生。子分になった祝いに、今日は寿司を食わせてやるからな」

 寿司を注文して、居間のソファに座る。アトリエと化した自室の椅子も、これくらい柔らかければ腰が楽だろうか。

 静けさが気になって、ラヂオをつける。

 鎖々戸侯爵家の長男・新太郎氏が前々から患っていた血の病と心労が原因で危篤状態。その息子の『元・魔弾の射手』こと修司氏は先日釈放され、最後の面会が叶った。爵位は現在留学中である鎖々戸侯爵の次男・啓太郎氏ではなく、修司氏が継ぐ線が濃厚とのこと。

 膝の上で、仔猫がその名の通りの声で鳴く。まったく、猫は気ままでいいものだ。

 天からふわりとお告げがあって、ふと、『彼』のお願いを思い出す。

「殺してください……か」

 にっと笑んで、わたしは目を瞑った。鮮やかな色彩が眼裏に広がる。

「お望み通り、殺してやりますよ。天才画家のわたしが、誰よりも美しくね」

 瑞々しい荷葉から雫が零れ落ちる。蓮華が咲き乱れる天上の極楽には天女が一人。

 その足元には、幸福の内に息絶えた男の死体が転がっていた――


 了

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アルカロイドは理想世界の幻想を見せるか 仲原鬱間 @everyday_genki

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