六章
「黄泉坂さんは、優しい人なのですね」
大正二十一年の八月。夏風に木漏れ日が砕ける合間に投げかけられた声は、そう聞き取れた。
血の繋がらぬ伯父と甥は、名を与えただけの形式限りの親子は、それぞれラムネ瓶を手に、象が見えるベンチに並んで座っていた。
「……君は、本当にそう思っているのか」
生白い腕を覗かせた十四歳の少年のシャツからは、李が香るようだった。
前を向いたまま問いを返すと、少年は、いいえ、と首を振る。
「父が、父の兄は優しい人だと言っていました。だから、黄泉坂さんは優しい人です」
「……とんだ誤解だな。私が人でなしだと、君も知っているだろう」
「それでも、父にとっては、黄泉坂さんは優しい兄だったのでしょう」
――ぼくも、黄泉坂さんのように、優しい兄でありたいと考えます。そう付け加えた黒水晶の瞳には、清く濾過された世界が映っていた。
「莫迦らしい。やめておけ……」かつて兄だったものはそれきり言葉を失い、代わりに溜息を吐いた。
瞑目すれば、化生の六感が絶えず領域内を行き来する正しい者たちの気配を拾う。不快感は生じたそばから本性に焼べられて、黒い憎悪の炎となり永劫身を焼き続ける。
目を開ければ、光に霞むあの時と同じ雑踏と、あの時とは違う二頭の若い象。自分の学生帽を被せた弟を背負った、十くらいの少年。
隣で、希薄な気配がすっと腰を上げた。
「黄泉坂さん、もっと近くで象を見ませんか」何に惹かれるのか、指で人だかりを示している。
「……勝手に行けばいい。私はここで待っているから」
わかりました。素直に返事をして、母指を握り込んだ右手を歩調に合わせて振りながら、白いシャツの背は見物人に紛れていった。
駅の方からは、号外売りの声が聞こえていた。
「――黄泉坂さん、ごめんなさい」
謝罪を述べる間も、澄んだ双眸は真っ直ぐ前へ据えられていた。
木陰に佇むかつて兄だったものが、そう在るための仮面さえどこかで取り落とした只の化生が、色も変えずにその黒水晶に像を結んでいる。
片腕分の距離の向こうで白い喉元を晒す、果てることのない憎悪の一端さえ絶つことができぬまま。
――否、途絶えた蜘蛛糸の、代用を探しあぐねたまま。
「ぼくは、父との約束を守ります」
どこまでも透徹した声に迷いはなく。相対する鬼は薄い唇を持ち上げ、微かに自嘲する。
「……そうか」
「今まで、ありがとうございました」
――あなたのお陰で、ぼくは優しい兄でいることができます。
律儀に礼をして、陽にますます白いシャツは踵を返した。
大正二十四年の、八月の終わり。遠ざかっていく背を見送りながら、黄泉坂征は同じように左手の母指を握り込んだ。
――ずっと握ってくれていたのだな、と。今になって気がついた。
◇
「まさか、ね。全くの予想外だったよ」
「侯爵家の御曹司が『魔弾の射手』だったことがか? それとも、我々人間が『魔弾の射手』を捕らえたことがか?」
「流石は『狩人』。退任前に、僕たちの手も借りず大手柄じゃないか」
「公にはしていないが、『切り裂きジャック』の方も片が付いた。
――化物共とぐるになっていろいろ隠していたようだな、早乙女」
本当の名前は訊かないでおくが。溜息混じりに言われて肩を竦める。
総監室のソファに座ったまま、ぐっと伸びをする。長時間握り締めてパスタのファルファッレのようになった号外記事を丸め、壁際の屑籠に向けて放った。
侯爵家の若君の逮捕を知らせる記事は、壁に当たってかさりと床に転がった。
「本当の名前かぁ、」呟き、立ち上がる。
「エドワード・モリス、オリヴァー・アンダーソン、トマス・クラーク、ジョン、ピーター、チェン、斎藤治彦、小林丈、早乙女直……いっぱいありすぎて、正直、どれが本当の名前かわからないんだよね」
「諜報員が、そんなことを教えて問題ないのか?」
「もういいんだよ。僕は十分やった。結局、神様の思うままだったけど」
机の前に立つ八の字髭の男のところまで歩いて、徐に手を差し出す。
「本音を言うと、僕としてはずっと、早乙女直で――黄泉坂直で在りたかったよ」
さて、僕をどうしてくれるの――? そう尋ね、唇を曲げた時、窓の外でちらりと光るものがあった。
「伏せて!!」
反射的に男に体当たりを食らわせ、二人して床に転がる。
一拍の間を置き――硬い破砕音。窓に蜘蛛の巣が広がり、細かい硝子の破片が散った。
「『魔弾の射手』……?」
呆然と呟き、危険を承知で割れた窓の外を見る。
遠く皇城の甍の上で、黒い影が薄らいで消えた。
◇
白昼、東亰駅のドーム屋根の上に突如として人影が現れた。
群衆が見上げる先、風に膨らむシャツは晴天を背景に一層白く。騒然とする下界をよそに、青年は構えた長銃の筒先を天に、合計六発、発砲した。
やがて残響の波が引き、しんと静まり返った世界に、彼は宣言する。
「ぼくが本当の、『魔弾の射手』だ」
――帝都新聞 号外――
【真・魔弾の射手現る!
白昼の東亰駅に銃声轟く】
鎖々戸侯爵令孫修司氏(一七)が、梅雨の帝都を騒がせた青年将校射殺事件の犯人『魔弾の射手』として現行犯逮捕されたことは記憶に新しい。現在修司氏は留置取り調べを受け、侯爵邸には家宅捜索が入っている。決定的な証拠は未だ発見に至っていないが、逮捕時の状況証拠、同氏の婚約者である三好財閥総帥令孫桃子嬢宅に投石があったことから、財界要人の暗殺を企てていた将校らが暗殺された一連の事件との関連が強く疑われていた。しかし本日昼、東京駅の屋根の上に本物の『魔弾の射手』を名乗る青年が姿を現した。異名に相応しく、まるで幽鬼のように突然現れた青年は、修司氏が所持していたものと同型と見られる銃を天に向け、『青年将校射殺事件』の犠牲者の数と同じ六発の空砲を轟かせた。その後自身が本物の『魔弾の射手』であると宣言し、姿を消した。『真・魔弾の射手』の正体は未だ判明していない。帝都の複数箇所において同時刻に目撃されたという情報もあり、人間かどうかすら疑わしい。現在東亰監獄こと市ヶ谷刑務所に勾留されている鎖々戸修司氏を知る人物によると、同氏と瓜二つの顔でドッペルゲンガーのようであったとのことだが、こちらもまた真偽は定かでない。神業のような射撃で青年将校らを殺害し、神出鬼没に姿を現す『真・魔弾の射手』を捕らえることは果たして可能であろうか。続報が待たれる。
【空砲六発 我こそが射手なり】
【婚約者想い銃を手に? 侯爵家御曹司は模倣犯か】
今まで『魔弾の射手』と見なされていた鎖々戸修司氏は廃ビルの屋上で銃を所持していたところを警察関係者に発見され、それが動かぬ証拠となって現行犯逮捕された。殺人容疑による華族子弟の電撃的な逮捕は世間を大いに驚かせたが、仮に同氏がこれまで散々捜査関係者を翻弄してきた梅雨の二大殺人鬼の一角だとすると、些か呆気ない最期ではなかろうか。
『真・魔弾の射手』の出現は、同氏にかかる嫌疑が全くの濡れ衣である可能性を示した。逮捕の直前に三好邸に投石があり、婚約者を守る為、正義感に駆られて銃を手にした同氏の心情も想像に難くない。鎖々戸侯爵家は英国王室とも深い親交があり、修司氏も将来的に日英の橋渡し役を担うことになるであろう。両国の関係保持の為にも、関係者諸君には真実解明に一層奮励努力していただきたい。
◇
「私は、この国と、この国に住む人々を守るためならば何だってする所存だ。たとえ邪道を行き人外の化物の手を借りることになろうとも、それが外敵から国土と国民を守る効果的な手段であるならば、嵩張るだけで役に立たない帝国軍人の矜持など、貴様らに手頃な値段で売りつけてやるつもりだったさ」
暗い広間を、カンテラで照らしつける。
……眩しいです、御影中佐。幾分低い調子の声がする。
煤けた鏡の目を細め、こちらを向いた首元には紅い絞首の痕。暗色の着流しを纏った男の姿は、炎の揺めきに合わせ不安定に揺曳する。
胸の内に湧き起こる様々な疑念を並行して処理しながら、陸軍中佐御影伊鶴は持参した書類の束に今朝の帝都新聞をくくりつけたものを放った。
紐が解け、魔弾の射手の最期と、侯爵家と子爵家にまつわる疑惑が灯火の下に晒される。
「……おそらくこれが、最後の機会だろう。貴様らは、信ずるに値する存在か。国の為に、国民の為に、身命を賭して戦う意志はあるのか。貴様らに、血の通った人間たる資質はあるのか。
――鎖々戸修司が魔弾の射手であると、知っていたのだろう。鎖々戸新太郎の殺しも、黄泉坂子爵の尊属殺及び養家乗っ取りも、奴らが心鬼であるのなら事実であるのだろう。貴様は全て知っていたはずだ。知った上で、隠していたのだろう」
どうなのだ比良景仁。対峙する男の影は、古びた畳の上で深淵の色を呈する。
化生は布巾を置いて、机に手をつき、ゆるりと腰を上げた。ぱきりと膝が鳴る。
「知っていましたが、隠していたつもりはありません。言わなかっただけで」
「それでは隠していたのと同じだ莫迦者」悪びれる素振りもない物言いに歯噛みする。
「我々大日本帝国陸軍に与する以上、貴様らシンキが国の為国民の為、心血を賭して働くのは絶対の義務だ。それなのに同族でぐるになり殺しやらその隠蔽やら、貴様が守るべき同朋は同類か? 違うだろう。私は貴様が守るべき国を差し置いて同類を庇い、果ては国を超えてシンキ共の共同体を組織し人類に反旗を翻すところまで案じて問うているのだ比良景仁。同類の為ではなく国の為にその力を使うと約束しろ。人殺しの結果ではなく、国と同朋を守った証として神波に勲章をくれてやれ。人間なのだろう? 人間であることができるのだろう、貴様らも」
「――そういえば、御影中佐に、御兄弟はいらっしゃいますか?」
呼吸を整えるには十分すぎる長尺の沈黙の後、比良景仁は唐突に質問した。
「出し抜けに何を……」それでも正直に答える。「血は繋がっていないが、男兄弟なら三人いる。母親の再婚相手の子だ」
「ご両親は?」
「実の父は七つの時に死んだ。母は少佐になった時、養父は盆前に死んだ」
「そう。今度、お経を上げに行きます」
「気を遣ってもらわなくていい。私の家のことなど訊いて、脅しの材料にするつもりではあるまいな」
「そんなことはしません。ただの確認です」
「何の確認だ」
「そう在れたかもしれない可能性の。
――僕らを人間として見てくれて、ありがとうございます。御影中佐」
怪訝に見つめられながら、化生はどこかの関節を鳴らして、恭しく頭を下げた。
「有耶無耶にしてやるつもりはないぞ。貴様が信ずるに値する存在なのか、今ここではっきりさせてもらう。同類の所業を明かさなかった理由は私に訊かれなかったからか」
結局釈然としないまま、再度問う。
「もし、僕が本当のことを伝えていたら、御影中佐は僕のことを、血の通った、信用に値する人間だと思ってくださいましたか? 鎖々戸新太郎君がたくさん人を殺したり、黄泉坂君が家族を皆殺しにしていたとしても、同じ心鬼の僕を信じてくださいましたか?
御影中佐は何を以て、僕を信じてくださいますか?」
「それは――」
「〈心〉?」
穏やかな声は、目の前の対象に向けてはっきりと発せられた。
「僕の全ての言動が、人間らしい感情と、人間らしい道理……即ち、貴方たちのいう〈心〉に基づいているかどうか、僕に、人間たり得る精神の動きが備わっているかどうか、証明できれば、信じてくださいますか。僕が、貴方たちと同じように、悲しんだり、怒ったり、笑ったり……命を奪うことに、罪悪感を覚えたりできれば……
――できないって言ったら、どうされますか?」
陸軍中佐御影伊鶴は拳銃の銃口を持ち上げた。
「どちらにせよ、貴様らの存在が我が国にとって不利益となるようであれば私が責任を取る。それだけだ」
「そう、」他人事のような返事があった。
静寂。
「ふふふ……ふふ、あはは……」半開きになった口から漏れ出る笑声。
「何がおかしい」
「何がでしょうね。
――あ、吾妻君が帰ってきたみたい」
宗教めいた香が鼻先を掠め、そちらを向く。
部下は拳銃を構えていた。上官の額を照準して。
「どういうつもりだ、吾妻――」
思い至って、咄嗟にカンテラの明かりで照らしつける。部下は糸が切れた操り人形のようにその場にくずおれた。
「比良ッ!! いや、五色か!! 吾妻に何をした!!」
「やっと気ぃ付かれたんですか?」
きつく香木が香った。草いきれのような熱を孕んだ気配は、真後ろにあった。
「吾妻さんは、ずっとこうでしたよ? 鎖々戸修司さんを捕まえた晩から、ずっと」
「何だと――」
広間を見る。何をするつもりだったのか、化生は両手で招き猫を保持していた。何も映さない虚無の目が、じっと陸軍中佐に据えられている。
ごとり。陶器が机に置かれる音が、嫌に大きく響く。
「本当ですよ、御影中佐。いつも通りの吾妻君に見えていたのは、五色君がそう動かしていたから」
「……笑った理由は、それか」理由を悟った口角が、自嘲もできずに痙攣する。
「貴様は、近しい部下の異変すら見抜けなかった私の愚かさを笑っていたのだな。〈心〉の在り様を求めておきながら、何たる節穴よと」
「いつ気づかはるか思て待っとったのに、ぜーんぜん、一向に、なぁんも疑わんと、普通に吾妻さんや思て喋ったはりましたね」
代わりに背後の青年が応えた。「早よ
視線を落とす。背を丸めて横たわる部下は、ただ眠っているだけのようにも見えた。常から熱っぽい手が伸びてきて、大人しく下ろした腕から武器を奪い去った。
顔を上げれば、四十五だという男は何かを言いさした口のまま、ふるふる首を振った。
「僕ら以外が心の所在を知ることはできませんから、御影中佐は節穴ではありません」
上達したね、五色君。上官に褒められた二等兵が、仮面の下ではにかむ気配がした。
「吾妻は何故……いや、」
わかりきった理由を尋ねようとした口を閉ざした。「貴様のことだから、全部知っているのだろうな」
他人の頭を覗く化生は、頷くともなく頷いた。
「御影中佐は、僕らに内緒で作戦を立てるうちに、気がついたのではないでしょうか。殺された将校たちの計画が、どこから漏れたのか……将校たちは、記憶を覗かれたんじゃないか、って」
「そうだ。貴様がいる以上、同様に記憶を覗くことのできるシンキが他に存在していたとしてもおかしくはない。そいつが食いつくような餌を頭の中に隠し、少々手荒だが撒き餌をした上で、不届き者たちを狙い撃つには格好の場所を用意してやった。後はこちらで時間を指定してやれば、『魔弾の射手』との――鎖々戸修司との待ち合わせは成功するはずだった。貴様らの世話にならずともな」
「修司君は、記憶を読んだり、操作することのできる心鬼だから。良い方法だったんじゃないでしょうか。
僕に相談するべきだったとは思いますが」
貴様も言っていなかったのだからおあいこだろう。反論は噛み殺した。
「吾妻は……鎖々戸修司にやられたのか」
「ええ。僕の記憶に関する力は、おまけのようなものだけれど、修司君は、記憶を読み取るだけではなくて、記憶に付随する感情に働きかけて混乱させたり、記憶を食べてしまったり、もっと深い場所にある記憶まで引き出すことができるんです。
御影中佐なら、お分かりでしょう。吾妻君が、修司君を取り押さえた時、呪いの火の明かりが少し遠ざかった時、追い詰められた彼に、何をされたか――何の記憶を、引き摺り出されたか」
耳元で、かた、と音がした。
「暁夫君は、大人しい子ですねぇ……まるで、本物のお人形さんや」
声の方へ首を回すと、市松人形の黒い両目。その奥には、亡き養父の形見である小面の能面が微笑を浮かべていた。
目を落とす。床に横たわる部下は、泣き疲れて眠る子供のようでもあった。
手を額に、深く嘆息する。「……私のせいだ」
脳裏に蘇る、青々と晴れ渡った皐月の葉陰。白無垢の花嫁衣装と、緊張に強張った部下の顔――夫婦の仲人になった責任感が、そうさせたのかもしれない。
部下の妻となった従兄弟の娘は、産後に精神の均衡を崩し、一歳にも満たない赤子を連れて心中した。
母親は乳飲み子を抱いて橋の上から身を投げ、先に死体となって上がった。子供の方は、二日ほど経ってようやく見つかった。どこかで打ち上げられたのか、それとも母親が最後の親心で岸に放り投げたのか、どちらにせよ野犬に食われて惨い有様だった。
変わり果てた我が子を見て、部下は首を横に振った。子はまだ生きていると言って聞かなかった。
たった一つの矛盾以外は、部下の自己認識は不幸にも妻を亡くした男鰥に他ならず、老婢に何度も子の所在を尋ねる姿を憐れんだ上官は、老婢を巻き込み、一か八かで嘘を吐いた。稚拙な、侮辱にも等しい、遠からず破綻することが目に見えている大嘘を。
老婢の手から差し出された嘘を、部下は容易く受け入れた。何も疑わず、息子と思って人形を抱いた。それから、伴侶を亡くした悲しみこそあれ、以前と同じように職務に戻った。周囲は精神異常者を辞めさせるよう言ったが、昇進を犠牲にする代わりに多忙が予見される補佐として手元に置いた。
――物言わぬ愛し子と、その矛盾に気づいてしまう日を、少しでも遠ざけるために。
「吾妻君の〈心〉は、暁夫君が亡くなった時に既に壊れていました。でも、御影中佐の吐いた嘘が、完全に壊れてしまうのを防いだ」
「亮一は、もう戻らないのか」
化生は眠たげな瞼を僅かに下ろした。「駄目でした」
「そうか……」
「心鬼になれたら、良かったのにね」
莫迦者。声は掠れていた。
考えなかった訳ではない。どうにかしてくれと、目の前の男に縋ることもできた。だが、思い詰める度に息子を抱く部下の幸せそうな顔が浮かんで、終ぞできなかった。
「あいつは、なれなかったさ。何度言っても、外食の度に自分の財布を出すんだから」
「僕らは、〈心〉を見て、感じることができます。僕らの〈心〉が、人間の〈心〉と全く違うということは、よくわかる……」
入眠したかと疑うほどの長い瞬きの後、比良景仁は述べた。
「僕は心鬼ですが、人間でもありたいと思っている。僕の〈心〉は、人間とは違うけれど……辿君から愛されていた黄泉坂君みたいに、心鬼でも、立派な人間だと思ってもらうことはできる。人間として、信じてもらえたら……僕も、何かになれるような気がするし、僕の存在にも、何かしら意味を見つけられるような気がするんです。
――外食した時に財布を出せば、御影中佐は僕を信じてくださいますか?」
叱る気も失せ、代わりに特大の溜息を吐く。
その前に家賃と出前代を払え莫迦者。力のない請求をかき消すようにして、滑りの悪い戸が力任せに開かれるけたたましい音がした。子守りを任せていた寺生まれの少尉が呼ばう声がする。
「ごーがぁい!! ごーがぁい!!」
どたどたと廊下を駆けてきた赤いワンピースが、横をすり抜けて懇意の化生に飛びついた。座布団の上で受け身を取った比良景仁に馬乗りになり、ありったけの声量で叫ぶ。
「ごーがぁい!! 『しん・まだんのしゃしゅ』は清司だって!!」
◇
――牛込区・神楽坂。
「魔弾の射手だ!!」
牛込見附へ至る下り坂に叫びが響き、慌てて振り返った芸妓が悲鳴を上げる前にその横を走り抜ける。顔を強張らせた学生二人が行手を塞ぎ、必死の形相の紳士が足元目掛け杖を差し出してくる。
長銃を肩にかけた魔弾の射手は、坂を下る勢いそのまま、地を蹴り杖を飛び越したかと思うと虚空に消え、次の瞬間、学生らの背後に現れた。不気味な笑みの断片を人々の脳裏に残し、晩夏の坂道を風と駆ける。
――浅草区・浅草六区興行街。
色とりどりの幟が雑踏の塵風に翻る午後、ア、と誰かが声を上げ、群衆は電氣館の屋根に、世間を騒がす凶悪犯を見る。
「魔弾の射手――!!」
その登場はまるで映画の一場面のよう。射手の姿はふわりと吹いた風の噂に聞いた通り、すらりと優雅な体躯の紅顔の美青年。肩から長銃を提げ、心持ち切れ上がった目元には、無力な衆生への憐憫ともとれる不思議な笑みを浮かべている。
人殺しめ、と誰かが怒鳴る。人々が見つめる中、青年は応えるように静かに口角を引き上げ――消えた。
――京橋区・銀座通り。
本物の魔弾の射手が現れると踏んで通りを張っていた帝都新聞の記者は、十四時の鐘が鳴り終わると同時に悲鳴を聞いた。
書店を飛び出した瞬間、目の前を駆け抜けて行った白いシャツ。視界に焼きついた一瞬の交差、ほのかに上気した色白の美貌には、透徹した無表情。
殺人鬼の人物像とは大いにかけ離れた、神々しささえ感じさせる横顔が背筋を震わせる。真っ直ぐ前へ向けられた黒い瞳は、何か大きな目的を見据えているようにも見えた。
「魔弾の射手!! 君の話を――!!」
蜂蜜色に粘る日差しの中を駆け行く背中は振り返らない。止まることが命の終わりであるかのように、拳を握り締め、死にゆく夏をひた走る。
その背を追って走り出した鼻先を、何やらゆかしい香が掠めた。水底を通過する巨魚のように、目には見えない何かが、鬼気迫る勢いで心の底を泳いでいく。
◇
全身に響きわたる拍動が、少女の赤い心臓を思い起こさせる。
短く連なる呼吸は他人のものであるかのよう。行く手から吹きつける風が熱い身体を冷ますことはなく、風を感じている額だけが妙に涼しい。
通行人を避けるために異界に沈む、その一瞬だけ身体の感覚が消失する。温熱も消え失せ、ただ自己意識だけが前進する。進みすぎないよう意識を制御し現世に戻れば、再び肉体の熱が虚空から浮かび上がり、纏わりつく。
――心はない。だが、肉の身体は確かにある。魔弾の射手は思考する。
(ぼくは、ここにいる)
なるべく人目につくよう走りながら、肩をひりつかせるベルトに指をかける。それだけで人々は凶悪犯に怯え、悲鳴を上げ、時に進路を妨害した。
開始の時機こそ唐突だったが、計画は概ね順調に進んでいた。
確認するように、ポケットに触れる。指先が、常に携行している約束の形象をなぞる。
(黄泉坂さんがいたから、心がないぼくも、優しい兄でいられる)
そうか、と短く応えた伯父は微かに笑っていた。少しだけ、安堵したように。
初めて目にしたその表情は、おそらく、父がずっと心に飾っていた兄の肖像と近しいものに違いない。そう考えることができた。
――お前たちは二人で一つだ。
――忘れちゃだめよ、清司。
記憶の中で、二つの声が重なった。右手の母指をぎゅっと握り締める。
(――修司、)
「清司さんっ!!」
直後、強い力が手首を引く。
「五色さん」
ビルの狭間、薄暗い路地に能面が見えた。
「こっちです!! 逃げましょう!!」
「いえ、ぼくは――」
手を振り払おうとした瞬間、襟首を掴まれた。身体が浮き、世界がぐるりと回転する。
背中に強い衝撃。長銃のベルトが肩から抜け、視界の外に消えた。
「要らんことせんといてください」
見上げた先、ゆらりと上体を起こしながら、小面の面が醒めた声を発する。
「五色さん、ぼくは、」
「皆さんが好き勝手されるせいで、比良さん大変なんです。大人しぃしといてください」
赦しませんよ。敬愛する恩人が絡んだ際の若い心鬼は厄介だった。
異界に潜って撒けば、多少は時間が稼げる。そう判断し、潜没を試みた。
「逃げはるおつもりですか?」
化生は地面に横たわる同類を見下ろし、「赦しません」
「赦しません、赦しません、絶対に赦しません……」
呪詛が重なる度に濃く、香気が立ち込める。
「五色さん」
「赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません赦しません……」
暗転していく視界の中、何かを
――気がつくと、清司は布団の上にいた。布団は一つなのに、枕は二つあった。
「ああ、良かった。上手くいった」
香の漂う部屋の両側は襖。すとんと片側の襖が開いて、白無垢に綿帽子、花嫁姿の化生が姿を現す。
「五色さん、ここは」
「僕の心の中ですよ」綿帽子の下、小面の面が答える声は弾むよう。
「清司さんには心鬼の力が効きませんから、僕の心域の中におってもらうことにしたんです。心域ごと心影界を歪ませて歪ませて、深ぁく、深く、誰も気づかんようなところまで潜ったんです。そうしたら、いくら清司さんでも逃げられへんでしょう? まあ、清司さんには僕の香りがしっかり染みついてるんで、逃げも隠れもできませんけどね」
「ここから出してください」
「そんな寂しいこと言わんといてください。清司さんは、比良さんが全部解決してくれはるまで、ここでずぅっと、僕と楽しく暮らすんです」
「出してください」
「さ、何して遊びましょうか。僕の心域やから、お手玉とかあやとりの紐とか、そういうのは置いてないんですけど……」
「五色さん、お願いします」
「僕たち二人だけやから、もう顔隠す必要もないですね」
気恥ずかしそうに言って、化生は能面に手をかけた。
「実は、清司さんとお揃いなんですよ」
面を外した顔は、どす黒い影でべったりと塗り潰されていた。
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