二十六 彼の家/悪いこと/強さ

 智の家は僕の家と近い。自転車で五分もかからないだろう。小学校の頃は毎日のように通っていた道だ。例え今が夜で、自転車のライトや街灯がまったくなかったとしても、きっと彼の家に行くことが出来るだろうな。


 彼の家はとてもひっそりとしているように見えた。でも、いつもと変わらないような気もした。車庫には車がなかった。彼の父親は、仕事に行ったんだろうな。こんな時でも働くのか、大変だな。


 奥に、彼の使っていた自転車が見えた。それを見て、とても悲しくなった。チャイムを押す。反応が返ってくるまで、とてつもなく長い時間が流れた。でも、僕の中だけでそう思っていただけなのかもしれない。実際には、三十秒とか、六十秒とかそんなもんだろう。


 時間はこちらの意識で短くも長くもなる。人生だってきっとそうだ。だから智の人生が短かったなんて思わない。本気で誰かを好きになったんだ、それだけでもいいだろう。そうだろ? 智よ。……でも、彼が納得しているとは思えないよな、やっぱり。


「はい……」

「大崎要と言います」

「要君……。今開けるね」


 そこからまた、長い時間が流れた。しばらく後で、ガチャリと、玄関の鍵が開く音が聞こえた。久しぶりに見る智の母親だった。前にここに来た時、僕は顔を見てないからな。


「久しぶりだね」

「はい」


 僕はその顔を直視することが出来なかった。少し見えただけで、そこに悲しみの色が染みついていたから。それは間違いなく、智の死によってついたものだった。


 僕はまず、居間の隣にある和室に置かれた、彼のお骨に線香を上げた。もちろん手を合わせたけれど、謝りはしなかった。今回喧嘩をした件は、僕がどうこうというより彼が一方的に怒ったことに起因するから。これって、悪いことなのだろうか?


「智、要君のこと一方的に怒っていたでしょう」

 僕はそっちを見た。智の母親はダイニングのテーブルから僕を見ていた。

「どうぞ、座って」


 どうやら、コーヒーを入れてくれたみたいだ。僕はおそらく智が定位置にしていたであろう席に座る。

「こうしてみると、要くんと智は、やっぱり全然違うね。もし、智に要君のしっかりとした強さがあれば、きっと生き残っていけただろうなって思う」

「……僕は全然強くないですよ。体力もないし」


 彼女は笑った。大人は、笑い方にもいろんなバリエーションがある。きっといろいろ経験しているうちに、そういうのも身についていくんだろうな。先生もそうだった。ただ偉そうにしているだけが、大人じゃないんだ。でも、そう考えると深川は? 僕たち同い年だぜ。


「そういうことじゃなくて……精神的な強さ、自分を持てる強さってことだよ。智は、とにかく昔からそういうところが弱かった。だから私たちはいろいろと経験させた。でも、そういうのはどう頑張っても、あとから身につくものじゃないのかもしれない。智にも、それが分かっていたんだね。だから、昔から智は要くんのことを羨ましがっていた」


「初めて聞きました」

「もちろん、智は自分からそういうことを誰かに言うのを嫌がっていたから。でも、母親の私にはいろいろと正直に話をしてくれたのよ。父親には何も話なんてしてなかったけれどね。要君もそうじゃない?」


 僕は何かを言うべきだと思った。でも、何かを言うことは出来なかった。言ったら泣いてしまいそうだったから。

「コーヒー、お代わり入れるよ」


 僕はいつの間にか空になったコーヒーカップを渡した。コーヒーの香りが部屋中に広がる。きっと、智だって自分の話をしているとき、こういう空気になったはずなんだ。彼が初めて、僕が終わらせることになる。僕にその役割はふさわしいんだろうか?


 再び、目の前にコーヒーが置かれる。僕が家で飲んでいるインスタントより苦くて、こういうのが味に深みがあるってことなんだろうって思った。


「智の日記があるんだけど、読む?」

「いや……いいです。彼の本音を、僕は最後まで知らない方が良いと思うんです」


「そう」

「これは僕の想像ですが、智には好きな人がいましたよね?」


 想像じゃなくて、事実なんだけど、僕がそうやって言い切るわけにはいかないよね。彼がどこまで話をしているかなんて、わからないことなんだから。

「瀬川皐月さんね?」

「そうです。僕が彼と喧嘩したのは、どうもそこが理由だったみたいですね」


「あの子は一度こうと決めたら、そこからなかなか動くことが出来なかった。今回のことだって、結局はそれが一番大きかったのよ。でもね、要くん、貴方は、智の気持ちがどうとかなんて、そんなことは気にしなくて良いんだよ。本当に、好きな道を選びなさい。それが生きていくってことだからね。何も、本当に何も気にしなくていいんだよ」


 最後の方は声が震えているような気がした。僕はやっぱり、彼女の顔を直視は、出来なかった。

「わかりました。ありがとうございます」


 僕は礼を言って、智の家から出た。ゆっくりと家に帰る。こんなこと、まさか母親に言うわけにはいかない。母親とこういう相談が出来る智って、結構凄いよな。僕は自分の恋愛模様を、母親に少しでも言うことさえ、想像出来やしない。絶対にわけわからんことを二言三言いって終わりだ。


 でも、智の母親と話をしたことによって、心の底に残ったわだかまりがなくなっていったことは事実だ。後は、純粋な自分の気持ち……それが間違いなく、一番やっかいなことなんだけどね。

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