二十五 座る/君たちより/自分に
僕は座っているから、彼女は僕を見下ろす形になる。でも、こういう体勢じゃなくても、彼女は常にそういう感じがあった。
「帰らないの?」
「人が多いから」
「じゃあ、私も待つ。座るよ?」
彼女は勉の席に座る。深川はじっと僕の顔を見ている。そんなに面白いものでもないだろうよ、僕の顔なんて。
「大崎君、顔ずいぶん変わったよ」
「良い風に? それとも悪い風に?」
深川は答えなかった。僕も別に聞きたいわけじゃない。僕はそんなのどっちだっていいんだよ。
「ねえ、中原中也の詩を読んでいたよね?」
「ああ」
「一番好きな詩は?」
「北の海」
前にも誰かに聞かれたような。いつのことだっけな。
「貴方の人魚は見付かった?」
「多分ね」
「それは皐月のこと?」
「…………多分ね」
「そう。じゃあ、時間をかけて、色々と考えなさい」
「時間ね……最近、僕の周りで起こったことはみんな、時間で解決ってのがキーワードになっている気がするよ。でも、本当にそうなのかな? 僕が動いて、どう動くかはわからなくても、とにかく動いて、解決させるべきじゃないのかなって思うんだよ」
「貴方、結構せっかちでしょう?」
「そう……なのかな」
「この機会に焦っても解決しないことがあるってことを学びなさい。そういう意味で、時間を信じなさい」
「どうしたんだ? 今日は。先生みたいじゃないか」
「貴方の意思を聞きたかったのよ」
「はあ……?」
「私はもう満足。じゃあね、さよなら」
そういって深川は出て行った。あいかわらず、よく分からない人間だ。入れ替わりで工藤先生が入ってきた。まるで僕と深川の会話を聞いてでもいたかのようなタイミングだ。あるいは、深川はタイミングを読むのがうまいのかもしれない。良い成績を取るためには、ただ勉強すれば良いって訳でもないのかもな。時間……。
「大崎か……どうだ、多少落ち着いたか?」
「僕は……まあ。先生はどうですか?」
先生だってあのとき一緒にいたんだ。いくら年上だって、首つり死体をみる機会なんてそうそうあるわけがない。あったら困るよな。彼にとっても大きいショックだったはずだ。でも学校が休みになったときだって、きっと先生達は来ていただろうと思うんだ。
「俺は……ほら、君たちより大人だから」
「先生、僕と先生はちょっと特殊な体験をしましたよね? だからってわけでもないんですが、ちょっと相談してもいいですか?」
「いいさ、もちろん。というかそれが俺たちの仕事だからね。偉そうにばかりするのは本当は仕事じゃないのさ。神様みたいな態度もね」
……先生もいろいろとハードなんだな。今度から、馬鹿な態度はとらないようにしよう。
「もし、誰かを好きになったとしますよね」
「ああ」
「でも、それが本当に『好き』かどうかって、わからないじゃないですか」
「ああ、なるほど、大崎は誰かを好きになった経験がなかったのか?」
「そうです」
「そうだな……。例えば、ふとした瞬間にだな。君たちだったら勉強の間とか、寝る瞬間とかね。そういうときに、顔を思い浮かべるような人がいるとしたら、その人のことは好きだってことだ」
そう考えるとなると光さんと瀬川だ。でも。
「二人います。一人は好きな人がいるって話だったので諦めました。もう一人は……好きなのかどうか、本当にわからないんですよ。深川にもそれを話したんですが、待つことを覚えなさい、と言われました」
先生は笑った。
「確かに彼女ならそう言うかもしれないね。でもそれは間違っているというわけでもないんだ。身も蓋もない言い方をすると、人生に正解はない。だから、今、大崎が迷っているのも正解だし、深川が言ったことも正解」
「つまりどうすれば良いってことですか?」
「耳を澄ませなさい。どんなに小さい声も、それはもしかしたら自分の声かもしれないし、誰かの声かもしれない。両親の声だって可能性はある。君たちの年齢では、両親は色々と鬱陶しい存在かもしれないけれどね。でも、それを絶対に聞き逃さないようにしなさい」
じゃあな、気をつけて帰れよ、といって先生は出て行った。耳を澄ませる、か……。僕はどうして、先生にあんなことを聞いたのかな。本当は、別のことを聞きたかったのにね。たぶん、瀬川と話して、いつもの僕が戻ってきて、深川と話して、これが現実だとわかって、そして先生と話しているうちに、僕の心の底にあった疑問が純粋に浮かび上がってきたんだろうな。
どういう理由であれ、本当の僕が戻ってきつつあるってことに、彼女たちに感謝しなければいけないんだろうな。勉も高橋も僕にかなり気を使ってくれていたし……。なんだ、僕はかなり友人に恵まれているじゃないかよ。
なんて言っていたっけ……とにかく、なんでもトライしてみる価値はあるのだろう。鞄を持って智のクラスを覗いてみる。瀬川も深川ももう当然いなくて、智の机には白い花瓶に花が刺さっていた。
こんなの、漫画とかでしか見たことなかったけれど、実際に見ると凄くリアルだった。そのリアルさは奇妙な立体感を持っていて、美術の授業の時に見る、偉い先生が書く現実を模写した絵のようだった。
もう学校には生徒は誰も残っていないだろうと三年の教室に行ってみることにした。先生はまだ誰か残っているだろうし、鍵をかけられる心配もないだろう。階段を上る。
たった一学年だけれど、小学校や中学校でその差はとても大きいものなんだ。だから、その見知らぬ教室はとても不思議な空間に見えた。そしてそこで、つまらなさそうにしている光さんを見つけた。
「なにをしているんです?」
「待っているんだよ、私の好きな人を」
「工藤先生のことですか?」
桜井光さんは悲しそうに笑う。笑顔も、場合によっては悲しくなるものなんだということを学んだ。さっき聞いた通り、人生は勉強なのか。どんなことでも。
「先生を好きになっちゃいけないってことはないよね」
「そうですね、そういう感情を持っている光さんだからこそ、僕は好きになったのかもしれません」
それは本当に僕の感情だったのかどうか、今も分からないんだ。だけど、その場面にはそれが一番しっくりくる気がしたんだ。だからそう言ったんだ。
……認めよう、僕は、光さんを好き『だった』んだ。
「……ありがとう、でもね……」
僕は首を振った。彼女が、僕を好きになることは絶対にない。それは最初からわかっていたことだ。僕は、誰かが好きな彼女のことが好きだったんだから。
「さよなら、ですね」
「今までありがとう」
僕はその教室を去った。階段を降りながら涙が出てきそうになったけれど、なんとかそれを押しとどめた。別に泣いたって良かった。もう誰とも会わないだろうし。今日はいろいろな人と会話をしすぎて疲れた。自分に戻ったから、疲れたのかもしれないな。
自転車に乗って学校を出た。ちらっとみた部室棟、もう黄色いテープはなくなっていた。どうして、智はあんなところで死んでしまったのかな。あんな寂しいところでさ。僕に分かるわけがないよな、そんなの。
考えてみれば僕は智の葬式にさえ行っていない。熱が出ていたからとはいえ、あんまりだろう。僕は智の家に行くことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます