二十一 街灯/運/人生相談

 家に帰ると母親は別に不機嫌ではなく、いつもと同じように見えた。どうしてこんな時間に帰ったのかって理由を、智の件と併せて話をしたのだが、彼が転校する云々は何も聞いていないようだった。


「転校? 智君が?」

「そう、詳しいことは分からないんだけど。僕も今日知って、学校サボって行ってみたんだけど会えなかった」


 当然のことだけれど、瀬川との一件は黙っていた。そんなこと言ったってどうなるわけでもないし。

「あんたは智君と仲良かったみたいだけれど、私は彼の親御さんとそうでもなかったからね。私は何も知らないんだ。誰かに聞いてみようか?」


 たぶん、誰にも何も言ってないと思うよ、なんてことは言えなかった。僕がショックを受けていると思ったらしい母親は、それ以上何も言わなかった。学校、サボったんだけどな……。制服のまま、部屋のベッドで横になる。


 気が付くと寝てしまっていた。想像以上に疲れていたんだろう。夕方六時頃に勉と高橋から連絡があった。問題ない、とだけ返信をした。


 その後、なぜか学校に行きたくなった。そこに智がいるような気がしたから。僕が、彼と会ったって何をするでも無い。でも、こんな状況の中で終わりにするのは少し違うような気がしたんだ。とは言っても、もう何もかも後の祭り。だって学校に行ったって彼がいるわけ無いんだからさ。正確には気晴らしってのが正しいんだろうね。


「ちょっと出かけてくる」

「ああ、どこ行くの?」

 母親は料理を作るのに使ったらしいフライパンと菜箸を洗っていた。


「学校。今日のノート借りる」

「気をつけてね」


 十一月ともなればもう、この時間では暗い。頼りないからいつか変えよう変えようと思っていても自転車を降りると忘れてしまうライトをつけて、学校までの短い距離を走る。僕は何をやってんだろうなってのと、少ない可能性にかけるってのが交互に見えては消えていく。等間隔にある街灯の明るさ暗さの様に。


 学校に着く。

「大崎? 大崎じゃないのか?」

 運悪くなのか良くなのか、よりによって工藤先生に見つかってしまった。なんてこった。

「先生、具合悪くなったなんて嘘で、前田智の件で早退したんですよ、実は」


 言い訳するのなんて面倒だから正直に言った。前田の名前を聞いて先生は表情が曇った。先生、何かを知っているって顔を、生徒に見せちゃ駄目だろうよ。


「前田か……俺は直接彼を受け持ったことがあるわけじゃないから、彼のことは良く知らないんだよ。でも、去年の学校生活と、今年の生活を比較すると……全然違うんだよな。どうして、ああも変わってしまったんだろうな」

「先生はどこまで知っているんですか?」


「俺は話を少し聞いている程度さ……。木村先生が苦労しているよ。この間の会議で、だいぶ参っていたな」


 僕は頷いたけれど、去年の彼はろくに知らないんだ。どんな学校生活を送っていたのか、なんてさ。

「そんなに変わってしまうものなんですか? なんていうか、そう……恋愛沙汰で」


 先生は意外そうな顔をした。僕がそんなことを言うとは思わなかったんだと思う。確かに教室では静かにしているけどさ。僕は釜をかけたわけじゃなくて、ただ単純に疑問だったからそう言ったわけだけれど、先生は否定をしなかったから、職員室ではそれが問題ってことになっているんだと分かった。


 先生は煙草を取り出して厚い唇にくわえた。彼、唇が厚いんだよな。良くも悪くもそれが結構目立つんだけど、今日は悪くなかった。ライターを取り出したところで、僕がいるのに気が付いたみたいだった。


「ああ、吸うわけにはいかないよな、悪い悪い。いつもこの時間は一人だからさ……他の先生には、言わないでくれよ」

「じゃあ、今度の成績良くしてください」


 ハハハ……と先生は笑いながら、煙草を箱に戻す。大人に冗談が通じてくれると嬉しい。

「……さっきの質問、答えがまだだったな。恋愛ってのは、必要だか必要じゃ無いのか、俺にも分からん。でも、俺たちがここにいるのは、俺たちの親がそういう関係になって、そういうことをしたからいるって訳だ。それが望んだことなのかどうかは分からないけれど、少なくとも生きてはいる。そうだろ?」


 僕は頷く。


「中学生ってのは、大体、冗談やポーズで死にたくなるものなんだ。俺だってそうだった。どんなに時代が変わっても、そう言うのは変わらないんだ。だから、前田が死にたくなるのも分かる。特に、好きすぎる女の子に振られたりしたらね。良くある話だ、本当に良くある話。良くある話だから、一週間くらいグチグチ部屋で悶々としていれば、大体は元に戻る。でも、極稀に、元に戻らないこともある。何が問題なのか、そういうのはたぶん精神科医の領域だから、ただの教師の俺には分かりようがない。だから、彼はその治療を受けにここから遠くへ行くんだ」


「僕は……今ははっきりとは答えられないけれど、僕は彼の友達だったんですよ。でも僕には何も出来ないんです」


「大崎のせいじゃない。というか、誰のせいでも無い」

「じゃあ、運が悪かったとでも言うんですか?」


「運でも無い、運とか、誰かとか、そういう次元の話じゃないんだよ。強いて言うなら、人生ってことだけだ。俺たちが生きているのは、そういうことなんだよ」

「……」


 僕の手に、もう反論のカードは無かった。先生は僕より十歳年上だ。年の差を実感した。初めて、大人が格好良いと思った。もちろん今の会話じゃなくて、何があってもそれを受け入れている姿勢が。もちろん、そんなことは恥ずかしいから言わなかったけれど。


「帰ります、気まぐれで来ただけなんですが、先生と話ができて良かったです」

「俺も物凄く帰りたいけど、成績まとめないといけないからな。仕事だ、仕事。……気をつけて帰れよ」


 先生は、僕が来るのがなんとなく分かってたんじゃないのかな。昼間学校から帰るって授業をしていた先生に言ったとき、担任に言ったわけじゃなかったのに、工藤先生が知っているってのもすごいよな。先生はそういうケアを結構やっているんだ。そりゃハードな仕事だよな。


「大崎、頑張れよ」

 僕は頷いた。帰るとは言ったけれど、家とは違う方向に行った。そのまま帰る気分では無かったから。最近、こういうことが多いよな。僕も早く、こういうことをきちんと解消できる何かを見つけないといけないよな。いつまでも自転車で町を走り回るってわけにはいかないだろうよ。変な噂になるのも困るしな。田舎だし。


「要くん!」

 誰かが僕を呼ぶ。振り返ると光さんが小走りで近寄ってきた。

「良いところに、乗せてってよ」


 僕は鞄に手を伸ばそうとしたが、そうだ今は鞄も何も持っていない。手ぶらってこんなに身軽だったんだな、忘れてたよ。

「いいですけど、ステップが無いんですよ」

「いいよいいよ、後ろ座るよ。乗せて貰うんだから文句言わないって」


 彼女は荷台に座る。

「大丈夫すか?」

「うん、良いよ」


 僕はゆっくりと走り出す。最近二人乗りばっかりで特にハードな使い方をしている気がするな。今度の休みにメンテでもしたほうがいいかもしれない。タイヤの空気とか、ブレーキとか、チェーンとか。

「どうしたんですか? 今日は」

「んーとね、進路相談。一応……人生相談って言ってもいいかも」


 まあ、そういうこともあるだろうと深くは考えなかった。それより、こうやって光さんと会えたことが嬉しかったから。さっきまでいろいろと考えてたのが嘘みたいだった。いい加減なもんだよな、人間なんて。気分が秒単位で変わってしまうんだよ。


 光さんの家は高橋の家の方面に近い。慣れた道だから、荷台に座って貰っている状況だけど問題ないだろう。

「ねえ、要くん? 聞いてもいい?」

「なんでも」


 この人、元気だなぁ。進路相談って結構神経使いそうだけど、そんなこともないのかな?

「要くんみたいな人って、好きな人っているの?」


 今日は矢鱈と恋愛沙汰の話を聞くな。流行っているのか? まあ、流行っているんだろうな。先生の言葉を借りるのであれば。


「いるんだか、いないんだか分からないんです」

 正直な答えだった。純粋な本音、嘘偽り無い。

「分からないって?」


「誰かを好きって感覚が分からないんです」

「……でも気になる人はいる?」


 僕は後ろに座っている光さんの顔を思い浮かべた。そのあとに瀬川のことも。

「それならいると思います。でも、それがどう気になるってのかも、僕には良くわかりません」


「何か、きっかけが必要なのかもね。それがどういう感情かって、ね」

 きっかけ、ねぇ……。

「光さんは、いるんですか? 誰か、そういう人」


 こんなこと聞かなければ良かったって、今なら思う。でも、聞かなければ絶対、僕はずっとひとりぼっちだったろうな。そういう意味では結果、良かったんだと思う。聞いた直後の、ハード時間を除けば。そして、本当に不思議だったんだけど、この後、別の方向から思いっきり殴られることになる。良いも悪いもない、現実ってのはそういうものなんだ。


「いるよ、好きな人。でもね、何を言っても絶対、こっちの方は向いてくれない。でもね、好きなんだ。友達は『恋に恋している』って言う。もしかしたら、そうかもしれない。その人、結構年上でね。相手も、私を生徒しか見てないし。でもね……」

「…………」


 ガッカリしてないかというと嘘だ。よく、殴られたような衝撃って例えを聞くけれど、本当それに近かった。身体じゃ無くて心に対するダメージ。しかも、しばらくその衝撃は消えなかった。


 ああ、僕は多少なりとも、分からないながらも彼女に『好き』って感情があったんだろうな。さっき彼女が言ったことは本当だった。何かきっかけが必要だったんだ、僕には。それからは何を話したのか覚えていない。ただ、彼女には好きな人がいて、それは僕ではないってことだけだ。

「ありがとう、楽しかったよ」


 彼女が荷台から飛び降りて、僕に微笑む。僕はさっきの話から受けたダメージから回復してない状況だったけれど、きちんと彼女の顔を見て、手を振った。


 彼女の家には桜の木があった。何度かここには来ているはずなのに、それに気が付いたのは今日が初めてだった。大きく枝を広げていて、花が咲けば見事な桜が見れるだろうなって思った。この花が咲く頃、僕はどうしているんだろう? 死んでたりしてな……まさかね。


 ふと気が付いて携帯電話を見ると、瀬川からメッセージが届いていた。別に彼女にやましいことなんて何も無いのに、桜井さんの家から少し離れた場所で内容を確認した。別に意味のある行為じゃない、でも、僕たちは常に意味のある行為ばかりをしている訳じゃないんだ。そうだろ?


 瀬川からの内容は電話をくれないかってことだった。だったら電話すれば良いじゃないか……と思ったが、さっきの状況を考えたら、あの状況で電話貰っていたらやばかったな。何がやばいのか知らんが……、とにかく、メッセージで助かった。電話をかけると直ぐ彼女が出た。


「要くん? 落ち着いて聞いて。……前田君がいなくなっちゃったみたいなの」


 さっきまでの気分は完全にどこかに行ってしまった。瀬川は落ち着いていたけれど、声には焦りが入っていたのが、僕にも分かった。そんな動揺した彼女の声を聞いて、状況が只ならぬことになっているのかもしれないって思った。

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