二十 転校/サボる/ハンカチ
それから少したったある日の昼休み、僕は教室でぼんやりしていた。こうやって一人でいると、僕はこのクラスに勉しか友人がいないことをいやでも実感するな。当の勉はいない。きっと、高橋とどこかで話でもしているんだろう。
「ねえねえ、大崎君」
珍しいな、誰だろう?
「ん?」
顔を上げるとクラスメイトの女の子三人だった。うち、一人は同じ小学校だった子だ。
「前田君のことなんだけれど、本当に転校しちゃうの?」
その子が、僕が前田と昔は仲が良かったってことを話したんだろう。
「詳しいことは僕も聞いてないんだ。誰か知っている人っているのかな?」
「大崎君でも知らないとなると、知っている人はいないかも知れないね」
「そうなの?」
「うん、前田君のクラスでも、誰も何も聞いてないって言ってたよ」
「そうなんだ。僕の母親が何かを知っているかもしれないから、帰ったら聞いてみるよ」
僕がそう言うと、彼女たちは、お願いね、と言っていなくなってしまった。この前母親を怒らせて、それがまだ尾を引いている気がするけれど、多分答えてくれるだろう。……多分。
時計を見る。まだだいぶ時間はある。図書室にでも行くか……。別に誰かに会えるかも、とかって期待しているわけではない。ただどうしてか、もうここにはいたくはなかったんだ。
図書室は相変わらず人が少なかった。見回したが、瀬川と深川の姿はなかった。残念だと思わなかったかと言えば嘘になる。とは言っても、僕は神様でも何でも無い、ただのガキだから、彼女たちがいたからって何が出来るってわけでもないんだ。本を探す。
前に瀬川に借りた萩原朔太郎を借りようと思ったけれど、いくつか読んだ上で立原道造詩集を借りることにした。カウンターは前と同じ図書委員が座っていた。相変わらずの手つきで、丁寧に図書カードに僕の名前が書かれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
本を持って図書室を出る。しかし、考えてみればここで読んだって良かったんだよな。まあいいや、と教室へ戻ろうとしたところ、廊下の真ん中に深川が立っていて僕の名を呼んだ。
「大崎要」
呼び捨てかよ。しかもフルネームって。
「深川さん、何?」
「あ、ごめん。大崎『君』だよね」
「なんでもいいよ」
「話、したいんだ」
スマートフォンを見てみるともう昼休みは終わる時間だ。
「とは言ってももうすぐ授業始まるよ」
「そんなのサボればいいじゃん」
「サボれって……」
この子、結構狂っているのかもしれない。瀬川の友達だけある。
「次、私体育なんだ。体育って大嫌い。本当に嫌い。高校に行ったってあるでしょう? それに、大学でもあるかもしれないって話じゃん。あと八年もやるかもしれないんだよ? 今は、だいたい生理休暇使っているんだけどね」
そんなの、うちの校則にあったのか? 校則なんて読んだこともないや、そういえば。
「成績は?」
「気にしたこともない」
この子、想像以上かもしれない。なにか理由つけてあしらった方がいいか?
「とにかく行こうよ。どこ他場所知っているんでしょ? あ、屋上前はやめてね。あそこは皐月が気に入っている場所だから」
「仲いいんじゃないの?」
「いいわよ、私の親友ね。でも、だからこそってのもあるんだよ」
「深川さんが何を言っているのか、意味がよく分からない」
「そう、頭悪いのね。皐月と仲が良いとは思えない」
もう何も言わないことにして、彼女の意見に従うことにした。彼女が僕に一体何の話があるのか分からないけれど、そうすると決めた。とはいえどこに行くか。中庭に行ったらどの教室からも丸見えだ。
かといって校舎裏に行っても、隣で授業やっていたら見つかるだろう。……裏門にある駐車場ならどうだろうか。あそこならまず人が来ることはないだろう。
「裏門の駐車場でいい?」
「どこでも」
しかし、深川は一体どこを想定していたんだろうか? 駐車場は言うまでもなく先生方の車が止まっているところで、校舎と特別棟の奥側にある。裏門が直ぐ近くにあって、そこから車で出入りするというわけだ。人は来ないと言っても、先生が車に戻ってくることは十分あり得る。注意が必要だ。
「へんなとこ連れてくるね」
「ここくらいしか思いつかなかった。深川さんの言うとおり、どうも頭が悪いみたいだ」
「本当はそうんなこと全然思ってないくせに。まあ、ここなら誰も来ないでしょう」
「で、何の話?」
「前田智君のこと」
そんな気がしてたんだ、嘘偽り無く。
今やってる授業はなんだろ。そういえば、良く漫画では授業をサボるシーンって見るけれど、実際自分がやってみると、罪悪感が心の奥から生まれてくる。お勧めはしない、特に僕みたいは小心者には。深川希望は全然、そんなこと考えないらしい。
「どうかしたの? 不安そうな顔」
そんな僕の不安を読み取ったのか、深川はそう聞いてきた。
「いや……実際に、授業をこうやってサボると、結構ドキドキしちゃうよなって思って」
深川は笑う。口は大きく、声は小さく。こういうときにどういう行動をとるべきかってのがよく分かっているみたいだ。さすがだな。
「いやいや、大崎君は真面目だね、そういうのは私には全然、ないんだよ。それに、よく全校集会はサボっているじゃない? 皐月と一緒に」
「あれは授業じゃないからな」
彼女の成績は僕よりずっといい。いつも一桁で、それより少し下がるのが瀬川。僕は……比べるまでもない。
「僕より遙かに成績良いじゃない」
「本気で言っている?」
「もちろん」
「あのね、大崎君。成績と頭の良さ/悪さっていうのは、全く、全然関係無いんだよ。成績なんてただの数字、社会に出たら全く役に立たない。本当だよ。いわゆる『良い会社』に入るのには役に立つのかもしれない。『かも』ね。でもね、そんなの何の意味もないよ。本当にね」
彼女は今まで見たことない勢いで僕に食って掛かってくる。
「だから学校生活なんて何の意味も無い。小学校の頃からずっとそう思っている」
「なかなかハードな人生を送っているみたいだね」
僕がそう言うと、深川は微笑む。彼女、瀬川よりずっと、表情にバリエーションがある。まともな思考ならきっと、瀬川よりずっと人気になれただろうな。まともなら。
「どう?」
僕の質問は無視かよ。
「なにがどうなのかな」
「私が今まで話してきたことに対して、感想を」
「……僕は今までずっとこのテンションで生きてきた。付き合ったことがある人もいない。それに働いたこともない。今が当たり前だと思っていた人間だ。だから、深川さんの言っていることはイマイチピンとこない。理解できないってのが正しい」
「ふうん。『思っていた』ってところが高評価。想像よりずっとまともな人なんだね。皐月が……いや、なんでもない。じゃあ本題に入りましょう、そのためにここに来たんだからね。授業をブッチして」
僕のせいで、と言わんばかりだったが、これが彼女のやり方なんだろうな。不思議な人だ、瀬川とは違った意味で。僕は余裕を持って会話をするフリをずっと続けていたけれど、内心『今にも誰かが来るんじゃないか』って考えに引っ張られすぎていた。
冷静に考えれば、この時間、先生は基本的に授業をやっているはずだから、それを抜け出してここに来る、なんてことはあり得ない。だからその心配はいらぬ心配だったのだけれど、何かに心を支配されていると、それがどんなにあり得ないと思えたことでも、現実になってしまうんじゃないかって、思ってしまうものなんだよ、人間って。それは心の弱さか?
「前田智君、今日引っ越しのはずだよ。知ってた?」
「引っ越し? どこに?」
「そう。彼一人で遠くに行くの。たしか茨城県だったかな。そういう専門の学校があるみたいだよ」
「そうなんだ、教えてくれてありがとう。でも、なんでそのことを深川さんが知っているの?」
「そりゃあ前田君は、それを皐月に知っててもらいたいからだよ。それも直接本人が皐月に言うんじゃなくて、誰かから皐月の耳に入れて欲しいってこと。面倒だって普通は思うけれど、また又聞きの方がミステリアスで記憶に残りやすいんだって、言ってたよ。私はそんなの初めて聞いたけどね」
「つまり、智は深川さんに言って、それを瀬川に伝えて貰いたい、と。智はそんなに瀬川のことが好きなのかな?」
今の僕には理解できない現象だ。ふと、光さんと瀬川の顔が浮かんだ。二人の顔が一瞬だけ。頭を振る。
「そうみたいね、前田君も皐月の本当を知らなくて、ただ意地になっているだけなんだよ。多分前田君、今までずっと、欲しいものを手にしてきたんじゃないかな。どんなもなのでも。でも、皐月はそうじゃなかった。そりゃそうだよね、だって皐月は生きているんだから。私や大崎君もね。納得できない前田君は意固地になっている。変だよね、目的と手段が変わっちゃったんだろうね。頭でしか考えることが出来ないと、そう言うの思考が、出来上がっちゃうんだろうね」
深川はため息をついた。それが誰に向けてなのか、僕は少し考えた。
「今日、瀬川は?」
「前田君の家に行っているよ、見送りとお別れに」
「一人で大丈夫なのか?」
見せて貰った、破れた夏服が思い浮かんだ。そんなことにはならないとは思うけれど。
「うん、まさか殴りはしないでしょう」
深川は例の件を知らないのかもしれない。
「僕、行ってみるよ」
「そう、実はそれを期待してたんだ。私が行くわけには行かないから」
「ありがとう、教えてくれて」
「どういたしまして。頑張ってね」
僕はその言葉を最後まで聞かず、とりあえず授業中の教室に飛び込んだ。先生は驚いた顔をしていたが、どうやら勉が『要は頭が痛く、保健室に行っている』と言っててくれたらしい。「医者に行くから早退させてください」と、いつもとまるで違う勢いで言ったら、先生は黙ったまま頷いた。途中の鏡で見た僕の顔はやけに白くなっていたから、これなら先生も納得するだろうな、って思った。
それから先は信じられないスピードで智の家まで飛ばした。自転車ってのは、しかも中学生が通学に使うような自転車でも、本気を出せばこんなスピードだって出るんだってくらい飛ばした。智の家に着くと、瀬川が立っていた。
「瀬川さん!」
「大崎くん……」
彼女は右の頬が赤くなっていた。
「殴られたの?」
「そうだけど、落ち着いてよ。目が違う人みたいだよ」
僕は目を閉じて、何度か深呼吸をする。もう一度目を開けると、瀬川の顔があった。いつもと変わらない世界のように見えた。
「大丈夫?」
「うん、見た目ほど酷くはないのよ。もう前田君は行っちゃったから、今から殴りかかっても遅いわ」
なんなんだ、ここ最近。僕に何が出来る? 僕はまるで道化じゃないか。いや、笑われない道化ほど悲しいものはない。笑うのも、笑われるのも自分しかいないんだから。
「ちょっと落ち着いて。もう行きましょう。ここにても意味が無いから」
僕はまた泣いていたらしい。自分のポケットからハンカチを取り出す。大抵の男はハンカチなんて持っていない。でも僕は持っている。家庭教育の賜物だ。
この間光さんと会ったときに泣いたのは、感情がぐちゃぐちゃになったから。でも今は自分の無力さにうんざりしたからだと思う。
帰り、一緒に瀬川の家まで行ったのだけれど、彼女が僕を待っていた理由は、深川から連絡が入ったからだそうだ。多分、深川はこうなることを見越して、僕にあの話をしたんだと思う。そうじゃなきゃ、僕はほとんど深川と会話なんてしたことがなかったから。
でも、僕は瀬川の連絡先を知っているわけで、もし本当に何かあったのであれば言ってくることも出来たはずだ。まあ、彼女達の駆け引きかなんかなんだろう。頭のいい人達が、何を考えて何を行動するのかなんて僕には分かりようがない。僕たちはぽつぽつと話をしながら歩いた。
まだ昼すぎだが、歩く人も少ないから、僕たちを不審に思う人いやしない。それに彼女は制服を着ていた。遅れても学校に来るつもりだったのだろうか?
「頬、大丈夫?」
「もう痛くないわ」
「ハンカチ使う?」
「使わないけど、借りようかしら」
彼女は僕のハンカチを頬に当てる。どこかで濡らせば良かったな。
「それ、なんて説明するの?」
「正直に言うわよ、前田智に叩かれたって」
「そんなこと言っても大丈夫なのか?」
「うん、多分ね」
「なにか困ったことがあったら言ってよ」
「優しいじゃない?」
僕たちは彼女の家に着いたので、手を振って別れた。なんとなく、深川に何かを言いたかった。スマートフォンを取り出して探すけれど、僕は彼女の連絡先なんて知らなかった。
学校に戻るわけにもいかないので家に帰ることにする。もう母親が帰っている可能性があって、しかもこの時間じゃあまた怒りを買うだろう。しかし、僕は智のことを伝えなければならない。昔なじみの彼についてだ、きっと機嫌を直して、質問には答えてくれるだろう。多分。
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