十九  フェンス越し/棘/新月

 昼休み、約束通り、僕は校舎裏に来た。正直なところ僕がどうして瀬川を呼んだのか自分でもよく理解していない。でも、あのとき助けてくれたのは彼女だから、僕としてはちゃんとお礼と、経緯を語った方がいいかもしれないと思った。


 遅れて来た智の担任も様子がおかしい気がしたし、それも話してみたいと思った。……あとは、昨日、桜井さんに対して感じたことと同じことを、瀬川に対しても思うかっていうのもあった。最後のは、ちょっとずるいことだと思う。ちょっとどころじゃない、相当だろうな。試しているみたいでさ。僕は……。


「お待たせ」

 僕はフェンス越しの外を眺めていたから、彼女が来たことに全く気が付かなかった。


「悪いね、呼び出して」

「私も前田君のことで話したいと思ったから」


「説明すると、朝教室に行ったら智が僕の席に座っていて、僕に話をしたいと言ったから、この前瀬川さんに教えてもらった屋上前に行ったんだ」

「……」


 彼女は上履きで地面の上に何かの模様を描いている。彼女にしか分かりようがない模様を。彼女、こんなこともするんだな。

「そこに行ったら、彼は『この場所は誰に教えてもらったのか』と聞いてきた。だから『瀬川』って答えたら殴りかかってきた」


「私の名前を出しただけで?」

「そう。何がいけなかったのか、僕にはよく分からない」


 彼女は模様を描くのをやめて、靴をこすり合わせて砂を落とした。

「もう気が済んだと思うよ。彼は大崎くんを殴りたかったんだよ。前田君は、私たちが付き合っていると思いこんでいるから。その後、私階段上ってきたでしょう? だから」


「そう勘違いしていた方が、彼にとって良いのか?」

「でしょうね、彼、未だに私のことが大好きだから。でも、さすがに付き合っている人がいれば諦めると思う」


 彼女の言い方には妙に棘があった。関係ない僕でも、直接言われたら刺さるくらいに。でも、なんて答えれば良いのかなんて分からなかった。


「彼、私のことが本当は好きなんかじゃないの。私を好きだと思っている自分が、好きなだけなのよ」

「どうしてそう思うの?」


 僕は単純に疑問だった。だって……いや、よく分からない。

「彼、私の好きなところ、一つも答えられなかったから」

 そういうものなのか? 好きなら、そういう回答も用意しておいた方がいいってことなのか?


「……ねえ大崎くん、もし、大崎くんが私のことを好きだとして、仮にね。そうだとしたら、私の好きなところって、答えられる?」

「そうだね……目、かな。鋭くて、でも柔らかくて。僕とは別のもの見ている気がする」


 僕がそう言うと、瀬川は少し赤くなった。でも、僕の方がもっと赤くなっているだろうなって気がした。鏡がなくて見れないけれど、頬が矢鱈と熱い。

「ちゃんと答えてくれてありがとう」

「ああ……」


 遠く、グラウンドから誰かの声が聞こえる。校舎を隔てているからまっすぐには聞こえなくて、知っている声のような気もするし、聞いたことがない声のような気もする。


 不思議だ、誰かが近くにいるのに、僕たちはまるで世界の果てにふたりでいるみたいだった。……瀬川となら、二人でも悪くないかもしれないって、そんなどこかで聞いた歌のようなことを思った。今日の僕は、どうかしている。肩をぶつけたせいか?


「でもね、やっぱり彼は最低なのよ」

 突然、どうしたのかと思った。でも、瀬川が理由なくそんなことを言うとも思えなかった。


「何か理由があるの?」

「これ見て」


 彼女はそういえばバッグを持ってきていた。通学用ではなくて、もっと軽いトートバッグ。黒だったから、いわゆるエコバッグには見えなかった。何か持ってきたらしい。


 彼女がそこから取り出したのは制服のブラウスだった。半袖だ、夏服。なんだか変な気持ちになったが、受け取って広げてみると、背中から袖にかけて破れていた。空気が急に冷たくなって背筋が寒くなった。雪が降る前触れみたいに。


「まさかとは思うけれど、これ智がやったの?」

 瀬川は頷いた。


「大丈夫なのか、その……」

 どうしても、その先を想像してしまう。


「うん、安心して。この状態になったときに先生が来て、助けてくれた」

「……ってことは、学校で?」

 彼女は頷いた。


「教室で。もし……」

「うん?」


「もし、その場にいたら助けてくれた?」

 彼女の目は真剣だった。

「冗談抜きで智をボッコボコにするよ。確か漫画で、ライターを握ったら力が増すって読んだことがあった。どっかから持ってきて、殴っただろうね」


 ブラウスを畳んで返す。警察沙汰になったっておかしくない。というか、あの馬鹿野郎は逮捕されるべきだろう。逮捕って、聞くだけで詳しく知らないけれども。

「ちょっとまって、もう済んだことだから、彼に何かしようと思わないでよ」

「ああ」


 自信は無い。今度彼の顔を見たら僕の方から殴りかかってしまいそうだ。

「本当に、何もしないでね。それに、彼はもう学校には来ないって話だから……」

「転校云々ってのは入院するってことだったの?」

「それは……分からないけれど」


 スマートフォンが震えた。多分勉だろう。

「じゃあね、もう昼休みは終わりよ」


 彼女はそれだけ言うと行ってしまった。ポケットからスマートフォンを取り出すと、確かにもう時間だった。僕も教室に戻る。そんな話を今聞いて、午後の授業に身が入る方がどうかしているってもんだ。


 授業が終わって、部活の方もひどいもんだった。本当に、ひどいと思っていたけれど、二年の男子に聞いてみると『いつもと変わらなかったっす』だそうだ。僕みたいのが部長じゃ、今年も先が思いやられるな。秒で着替えてさっさと帰ることにした。こんな日は一人になるに限る。誰かに声をかけられる前に、急いで逃げた。


 いつから僕はこんなに人気者になったんだ。変な話だ。でも、帰り道で誰かと一緒になる可能性がある。大体、同じ時間に終わるからね。だから一度、誰もいないルートに行ってから引き返して、帰宅ルートに入るという馬鹿なことをしようと考えた。


 それくらい、今日の僕は誰とも会いたくなんて無かった。瀬川から聞いた話がずっと頭の中に響いている。朝、智に殴られそうになったことなんてもう心底どうでも良いくらいに。あれが今朝のことなんて嘘みたいだ。ざっと千時間くらい前のことのように感じる。


 途中、考え事をしすぎて自動販売機にぶつかりそうになった。ぶつかった方が良かったかもしれない。そうして、思い切り頭でもぶつけた方が、考えがまとまったかも。いや、どうあがいてもまとまり様なんてないんだ。


 自分が何で今こんなところにいるのか、訳が分からなくて、コーラでも買って頭からかぶろうかと思った。今の季節寒いだろうけれど……。もう暗いし、ここがどこだかかも分からない。


 何もかもが嫌になってきた。もう、僕の抱え込むキャパシティを超えている。capacity、この前の英語の授業で習った。受け入れる、だ。何が受け入れる、だ。何もかもが糞だ。でも一番糞なのは何も出来ない自分なんだ。僕は本当に……。


「要くんじゃない?」

 誰かの声、聞いたことがある。ごく最近だ。顔を上げる。僕はどうやら泣いていたらしい。信じられないことだが、僕は泣いていることさえ気が付かなかったんだ。でも顔を上げないわけにはいかなかった。だって彼女の声だったから。


「わ! どうしたの」

「分からない、いや、分からないわけじゃないんだけど、理由もちゃんとあるんだけど、泣かないわけにはいかなくて……」


 何言ってんだ。本当に。彼女は僕の手にハンカチを握らせる。これで拭けってことかな。

「借ります」

「いいよ」


 涙を拭く。馬鹿みたいで、格好悪い。いや、実際に馬鹿なんだけれど。

「ねえ、ちょっと歩かない?」

 僕は頷く。


「自転車は?」

「そっか、今日は二人とも自転車があるのか。じゃあついてきて」


 彼女は自転車に跨がって走り出した。一瞬、スカートが翻って中が見えそうになった。女の子ってのは、結構大変だな。心の底からそう思った。気を使うべきことが多すぎる。


 僕は後ろをついて行く。どのくらい走ったか……そこは彼女の通っていた小学校だった。こんなに近かったのか、それとも僕が訳の分からないところまで来てしまっていたからなのか。


「見てよ、空。すごいでしょう!」

 どうして校門が開いていたのか、彼女がこの時間に入れることを知っているのか、聞きたいことはいくつかあったけれど、もう良いかという気になった。だってどうでもいいんだ、本当の話。僕も空を見上げる。確かにすごい量の星だった。


「ね! この辺高い建物ないし、この時間は校庭の電気も消えるから」

「良く見つけましたね」


「昔、小学校の頃天文部でね、学校が終わった夜に、こうやって学校に来たことが何度かあるんだ。思えば……」

「……思えば?」


 彼女は暗い中、僕のそれを聞いて笑ったような気がした。暗くて表情まではっきり見えたわけじゃないから、なんとも言えないけれど。


「何でもない」

 彼女のさみしそうな笑顔、今度は暗闇の中ではっきりと見えた。どうして? さっきまでは暗かったのに。目が慣れた?


「今日は月がないから星がよく見えるんだ」

「どうして月がないんですか?」


「新月」

「そう言うのがあるんですか?」


「あははは……本気で聞いている?」

「冗談です」


「要くん、面白い人だね」

 そうなのだろうか? それにしてもよく笑う人だ。


「そうでもないですよ」

 僕は控えめに言った。



 それから僕は光さんから星を教えてもらった。彼女は、小学校の天文部ではきっと習わないような星も知っていたから、星が好きなんだろうな。それとも誰かの影響かな。誰だろう。その人のことがほんの少しだけ、羨ましかった……気がした。

「でね、あれが……」


 僕たちはそれから何時間星を見ていただろう? 時間が流れていることを忘れてしまうくらい、素晴らしい夜だった。親からスマートフォンに電話が来なければ、朝まで星を見続けていただろう。僕はそれくらい楽しかった。


 彼女も、楽しんでいるみたいに見えた。でも、あくまでも、『そう見えた』だけ。本当にそうだったのかはもちろん分からない。分かるわけがない。でも、心の底から分かりたいと思った。


 彼女を家まで送って行った後、一人で帰った。僕はきっと光さんのことが好きなんだろう。本当か? 分からないよな。高橋志穂は? 違う。上田里香は? 違う。瀬川皐月は? ……分からない。


 何が何だか分からないまま家に着くと、母親は激怒していた。そりゃあそうだよな、今何時だ? 十時半くらい? 何時だっていいだろう。父親は……別に怒ってなかった。僕を見ても、苦笑いをしていただけだった。ビールでも飲んで酔っていたのかもしれないが、僕を見たその目は『俺も昔、同じことを良くやったよ』と言っているような気がした。


 今度、おばあちゃんに会ったら詳しく聞いてみてもいいかもしれない。知らない親父を知れそうだ。

「……あんたは本当に何を考えているか分からない、今何時だと思っているの? 云々」


 母親はさっきと同じことを何度も繰り返している。僕は早く終わってくれることを願ったけれど、こうなってしまうともう時間が過ぎるのを待つしか無いんだ。僕だって多少は学んでいる。


 でも、本当に学んでいたとしたら、こんなことにはなってないよな。

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