十八  ノート/頬/校舎裏

 暗くなるのが早くなって、部活も夏に比べると本当に早く終わるようになった。高橋と勉が仲良く帰っていく。本当に、お似合いだな。


 自転車置き場で智と会ったが、彼は僕を一瞥して直ぐに帰ってしまった。彼は時々しか学校に来なくなり、部活だってろくに参加していないらしい。らしい、というのは、智と同じクラスの人から聞いたことで、部活のことは勉から聞いた。


 彼は、僕と同じ時間帯に帰りたくないと言わんばかりに凄いスピードで帰って行く。そんなことがあったから、本来ならジャージで帰るべきなのに、わざわざ制服に着替えて帰ることにした。いつも以上にゆっくりと時間をかけて制服に着替える。そうこうしているうちに誰もいなくなった。


 だれも暗い中帰りたいと思う人はいないってことだ。こういう風に誰もいなくなると、高橋のことで待っていた時を思い出す。あの頃は夏前で、部活が終わってもまだまだ暗くなる気配はなかった。でも今は違う、少しの間ですぐに夜になる。


 学校を出たのはほぼ最後だった。職員室にはまだ明かりが付いていて、先生方の車も何台かあった。先生も大変だな、なんて柄にもないことをふと、考えてしまった。


 ぼんやりしながら家に帰って、バッグから教科書を出しているとき、復習するのに必要なノートを忘れていることに気が付いた。これが筆箱とかなら別に他のシャーペンを持って行けば良いだけだが、ノートは困ったもんだ。おまけに明日は小テスト。仕方なく、母親に理由を言ってもう一度学校に向かうことにした。


 先生がいれば理由を言って開けてもらえれば良い。いなかったら潔く諦める。ダッシュで行く。


 運良く、まだ二、三台車が残っている。もちろん、さっきより台数は減っているけれども。職員用玄関から入って、職員室の扉を開ける。幸い、僕たちの担任である工藤先生がいた。僕が扉を開けると顔を上げた。


「大崎か?」

 一瞬、怪訝そうな顔をしたが、僕だと分かるといつもの先生だった。

「先生、明日の数学テスト用のノート忘れました。取ってきていい?」


「ああ……、鍵がかかっているわ。俺も一緒に行くか」

「鍵? 夜は鍵かけているんですか?」

「そう、一度侵入騒ぎがあってさ……と、この話知っている生徒は極一部だ、黙っててくれよ」


「口が堅いことでは僕は有名ですから」

「ハハハ、確かに大崎はそんな感じだよな。ま、冗談はおいておいて、早速行こう。生徒を危ない目にあわせる訳にはいかないさ」


「ありがとうございます」

「お礼言われるほどでもないよ」


 先生の机には星座の本が載っていた。先生は数学の担当だから、趣味の本なのかな。会話を終わらせて、僕と先生は黙って教室へ向かう。外が暗いと、いつもの教室だって別物みたいだった。鍵を開けてもらい教室に入って、自分の席へ行くと、やはり机にはノートが入っていた。


「ありました」

「おう」

 僕は鍵をかけている先生に聞いてみた。


「先生はいつもこんな時間まで残っているの?」

「ん……今の時期はちょっといろいろあってね。普段はもう少し早いよ」


 僕は先生に礼を言ってまた職員玄関から出て、校門に置いた自転車に乗る。スマートフォンを見るともう八時になる。帰っても勉強するだけ、気分転換にちょっとぶらっとしてみるか……と、帰りの方向とは別の道を行く。


 本当は、こんなことなんてしてないでさっさと家に帰るべきなんだけれど、なんだかそれはしたくなかった。何のためにノートを取りに行ったんだか。


 誰かに会えることを期待していたわけではない。気の利いた奴らは塾に行っている時間だし、そうじゃなくてもこんな田舎じゃ、家で動画でも見ていた方がましだろう。


 僕はそう言うのにはあまり興味がない、だって。だって……。僕が欲しいのは本当の繋がりだ。例えば……。


 自転車のライトは頼りない。車に比べると、ほんの目の前しか照らせない。こんなので安全だとでも思っているのだろうか? 街灯は広い間隔で道を照らしていて、明るい・陰・明るい・陰……と繰り返している。


 前に目をやると何かの陰、自転車だ。自転車が止まっている。近づくと後ろの車輪が見えて、そこに番号シールが貼ってあって、それはうちの学校の物だった。だから止まった。こんな時間にこんなとこで止まっている、自転車のトラブルかもしれないと思ったから。止まってから気が付いたのだけれど、自転車に寄っかかっているのは女の子だった。


 多分、上級生だろう。見たことがなかったし、中二と中三はたった一年の差だけれど、中一と中二以上に全然違うから。


「あの……どうかしましたか?」

 僕が声をかけると、彼女はスマートフォンから顔を上げたんだけれど、そのとき、光に照らされた頬に涙の跡が見えた。泣いていたのだろうか? 彼女はブラウスの左腕で頬を拭った。それも自然にやっている行為に見えた。まるで、いつもやっていることのような自然さ……とでも言うか。分からないけど。


「……チェーン」

 彼女が右手を車輪の間に向ける。


「チェーン?」

 確かにだらんとしているように見える。


「うん……チェーンが外れちゃったみたい。漕いでもぜんぜん進まないの」

「ああ……直しますよ」


 ポケットからスマートフォンを取り出して、ライトを最大する。そして、バッグの底にある軍手を取り出してはめる。バッグの底には最近大活躍のステップも入っていて、備えあれば憂いなしということを実感する最近。


 そのままだとスマートフォンを持てないから、ライト面を上にして地面に置く。そのとき明るさが変わった。自転車の持ち主である女の子が自分の携帯を照らしてくれているんだ。


「ありがとう、光」

「え?」


「ああ、ライト。スマートフォンの」

「あ、そうだよね。……私ね、桜井光っていうの。だから、名前呼ばれたのかと思って」


 そう言って彼女は僕に笑顔を見せた。

「僕は大崎要です」


 ペダルを手で回すと空走する。見た目通り、チェーンは外れているな。こういうときは指でギアにチェーンをかけて、後輪をゆっくりと逆回転させる。カラカラカラ……と何度か回すと、ガチャン、とかみ合う音がした。


「もう大丈夫だと思うんですが、ちょっと乗ってみてもらえます?」

「ありがとう……」


 彼女は自転車を少し走らせる。

「うん、大丈夫みたいだね、本当にありがとう」


 彼女は自転車の上から僕に向かってまた微笑んだ。……とても綺麗だと思った。光の加減とかじゃなくて、純粋に。

「パンクじゃなくて良かったですよ。僕は学校行くときにパンクして、帰りに直してもらったら帰る途中でまたパンクしたことがありましたよ」


 僕は何を言っているんだ? という感じだが、どういうわけか異様に動揺していた。もしかしたら、さっき泣いていたかもしれない彼女に笑ってもらいたかったから、かもしれない。いや、違うかな……うまく言えない。

「そうなんだ、そんなことあるんだね」


 彼女はとてもおかしそうに笑った。それは愛想笑いだったかもしれない。でもそれでも良かった。

「こんな時、大人ならきっと、どこか良いお店にでも行ってお礼するんだろうけれど、私たち中学生だからお金も、何もないしね」


 彼女はそう言った。そのときの僕は、彼女の言っている意味がよく分からなかった。浮かれていたってのが大きな理由だけど、その意味が分かるのはこの話が終わるころ。

「変なこと言っちゃったね、ねえ一緒に帰ってくれない?」


 彼女は僕に疑問を挟ませないかのように矢継ぎ早に言葉を繋げる。サーブ一本でこっちはフォルトって感じだ。帰る云々もきっとそうだろう。でも、それでも良かった。


 帰り道、彼女は自分のことを話してくれた。

 三年で、受験が迫っているってこと。

 勉強は出来る方だけれど、何のためにやっているのか分からないってこと。

 先生に相談したくて残っているけれど、あまり効果があるとは言えないってこと。


 ……そんな程度のことだ。僕のことはあまり話さなかった。二年で、テニス部で、小学校はどこ出とかそんなこと。


 彼女の家に着くと、連絡先を交換しよう、と言ってくれたので僕はスマートフォンを取り出した。一連の儀式が終わると、彼女は笑顔を見せて僕に手を振って家に入っていった。少しの間、その背中があった場所を見ていたけれど、ため息を一つついて、自転車に乗った。


 少し走ったところで、自転車に乗っている勉を見つけた。

「おーい、勉」


「要か」

「高橋と会ってたの」


「ああ……ところで誰だ? あの人は」

「先輩だ、ちょっとしたことで知り合った」

「そうか……」


 街灯の下、彼の顔を見た。とても複雑な顔をしていた。それがどういう意味なのか、聞いてみても良かったのかもしれない。でも、そういうのは気分が乗らないとうまくできない。今はそういう気分ではなかった。単純に疲れていたってのもある。勉はそれを認めたのか、何も言わなかった。


 だから黙って走ったわけだけれど、その沈黙は、必要ない会話をしなくても良い関係になった、僕と勉の親密さを表しているようだった。たとえ、お互いが全く違うことを考えていたとしても、ね。



 正直な話、このときの僕は、勉がいなかったらかなり厳しい状態になっていたと思う。智とは相変わらずだったし、僕は知り合いは多いかもしれないけれど、友達は実はすごく少ないんだ。だから、彼の存在は僕にとってとてもありがたかった。


「じゃあね、また明日」

 彼はそう言って自分の家に帰っていく。僕も家に帰った。テストの勉強をやる気が出れば良いと思いながら。



 次の日の朝、自転車で走っていると、稲が刈り取られていることに気が付いた。最近ではない、もうずっと前だ。夏前はあぜ道に露草が咲いていた。それを見て、感じてもいないノスタルジーを実感していた。


 今はその余裕さえなく、稲が穂を実り、刈り取られたことさえ気が付かなかった。ちょっと、いろいろなことで僕は余裕がなくなっているのかもしれない。


 学校に着いて、教室に入ると、なんと前田智が僕の席に座っていた。学年で人気の男だ、ちょっとした騒ぎになっていた。でも、それはもしかしたら、人気の男っていう理由だけではなかったのかもしれない。そのときは、もちろんそんなことには気が付かなかったわけだけれども。


「よう、要」

「智、おはよう」


 一見、普通の挨拶。でも、僕は彼に良い印象をもっていなくて、彼も僕にはまるで良い印象を持っていない。そんな空気が周りにも漏れていて、教室は気まずい雰囲気で溢れた。


「智、外に行こう。まだ早いし」

 彼は頷く。僕はこの間、瀬川が教えてくれた屋上前に行くことにした。階段を上る足が、とてつもなく重かった。僕たちは話すことなんてないんだ。少なくとも、僕には話すことなんてない。もし、今彼に謝られたとしても、僕は彼に何を言う?


「ここ、誰に聞いた?」

「瀬川」


 僕がその名前を言うと、彼は僕に殴りかかってきた。いきなりのことだったけれど、僕はなんとか避けた。避けたけれど、肩が壁に思い切りぶつかった。いてぇよ、おい。


「いってぇな、おい」

 さすがに文句の一つでも言ってやろうと思った。

「お前が、その名前を呼ぶなよ」


 彼は尋常じゃない怒りに満ちていて、握った右拳を僕に向かって見せている。威嚇か、野良猫のようだ。


「智、お前がその気なら僕だって手を出すぞ。本気だぜ。僕が言ったことはやる男だって、お前なら知っているよな?」

「いいよ、望むところだ。要とは白黒はっきりさせようと思っていたんだ。ずっと、ずっと!」


 彼は左手も強く握ってファイティングポーズを取る。まるで格闘ゲームじゃないか。レディ・ゴーってか。僕もため息をついて構えのポーズを取る。もちろん、見よう見まねだ。僕は格闘技やボクシング、その手のものにまるで興味がないし、テレビでも一切見たことなんてないんだからさ。ゲームだったら、丸ボタンがキックだっけか。


「やめなさい!」

 瀬川の声が響く。

「なにやっているの!?」


 彼女は僕と智の間に割り込んできた。僕はともかく、瀬川だけは殴らせるわけにはいかない。絶対に。続いて先生も何人か来た。ここに来ることなんて誰も知らないはずなんだけれどね。


「僕は智と話をしようとここに来ただけだ」

 こんなのは言い訳にもならない。殴ろうと思っている時点で僕らは同類だ。

「俺は……」


 彼は言い淀んだ。それだけでも、彼の方がまともだと思えてしまう。

「行こう、要くん」


 瀬川は僕の手を取る。先生は智に何かを話しかけているが、僕には何を言っているのかは全く聞こえない。

「いいのか?」


 彼女は頷く。僕と瀬川は智達を残して階段を下りる。途中、息を切らせた彼の担任とすれ違った。必死の形相だった。その表情を見る限り、彼はやはり何か問題を抱えているのだろうか? 途中で瀬川の手が離れ、彼女は先に行ってしまった。


 クラスに帰ると、皆、もう関心がないようで、新しい話題が始まっていた。僕は自分の机でこっそりと瀬川に連絡を入れた。昼休み、校舎裏で会おう、って。

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