十七  肩に手を/本題/詩人

 自転車の速度を緩める。そうしないわけにはいかなかった。だってその背中は瀬川だったから。僕の自転車の音に気が付いたのか、彼女は後ろを振り返って僕を見た。


「また大崎くん」

「そう。どうしたの?」


「希望にプリント持って行ってた」

「歩いて?」


「そうだけど、何か変?」

「いや、変ってことはない」


 そういえば彼女は学校にどうやって通っているんだ? 気にしたことなかったな。

「乗っていく?」


 僕がそう言うと彼女は少し面食らったようだった。そりゃそうだよな、こんなこと普通言わない。

「どうやって?」


 僕は自転車を止めて、鞄の底に隠してあるステップを取り出してつける。この間これを使ったときは智を乗せたな。


「僕が止まっているから、肩に手をかけて足を乗せるの。やってみて」

 どうなるかと思ったけれど、彼女は言ったとおりに乗った。

「立ったまま?」


「そう。大丈夫そう?」

「ええ」

「じゃあ行くよ」


 走り出したはい行けれど、僕は瀬川の家を知らない。

「家どこ?」


「直ぐ近く。この先の信号、左に行って」

 左に行って少し走ると、彼女はここで止めてくれと言う。表札は【瀬川】となっているので、ここが彼女の家だろう。自転車で五分くらいか。行動したは良かったけれど。


「ありがとう」

「ああ……」


 そうは言われたけれど、本当にこれで良かったのか? しかし僕もどうしてあんな行動をしてしまったのか。とはいえ、無視する訳にはいかないだろうし。

「ちょっと、話したいことがあるんだけれど」


「良いわ、あがって」

 あがってって、ここ瀬川の家だぞ?

「何してるの? 早く」


 引っ込みが付かなくなったので仕方なく自転車に鍵をかけて、彼女の家の玄関をくぐる。足下を見たけれど、夏休み最後に靴を洗っておいて良かったと心底思った。

「あら、お帰り……お友達?」


 瀬川の母親らしき人が僕を迎えてくれる。大きな目から鼻筋にかけて、瀬川によく似ていた。


「そう。何もいらないから」

「希望ちゃん以外の友達は初めてじゃないかしら?」

「そうよ」


 それだけ言うと彼女はさっさと階段を上る。僕は母親に会釈をしてそれに続く。なんて一日だ、本当の話。彼女の部屋をぱっと見た感じ、まず目を引くのが本棚で、そこには結構な量の小説が詰まっていた。


 漫画もあることはあったけれど、小説に比べると少なかった。ベッドを見るとぬいぐるみなんかいくつかあって、そこは意外な感じがした。


「座って」

 彼女は机の椅子を持ってくる。

「ありがとう」

 彼女はベッドの端に座る。

「それで?」


 ここまできてグダグダと他のことを話したって仕方ないから、さっさと本題に入る。僕はさっき勉と高橋に話をしたことをもう一度、瀬川に話してみた。もちろん、瀬川の気持ちのことは抜きで、智が僕に言われたことだけだ。


 しかし、こうやって今、彼女と会わなければ、話は出来なかっただろうな。でも僕たちは出会ってしまったわけで、そうなったのなら話をしない理由はないんだ。


 僕が話し終わっても、彼女は何も言わなかった。あるいは何も聞いてなかったのかもしれない。それならそれでもいいと思った。だって別にこのことは、瀬川に関係ないことだからね。


「北の海って分かる?」

「ああ、中原中也だろ?」

 人魚の詩だ。僕はあの詩がロマンティックで好きだ。

「本棚に本があるから、読んで。声に出して」


 何言ってんだろうか? と思ったが、もうどうにでもなってくれ、という感じだった。僕は立ち上がって本棚に行き、一番上の段に入っていた詩集を取り出して、目次で北の海を調べて、声に出して読んだ。図書室にあるのとは違う出版社のものだった。そして、たった今、そう言えば前に瀬川と詩の話をしようって話をしたことを思い出した。色々あって忘れていた。


「ありがとう、とても良かった」

「そりゃあ良かった」


 詩を朗読するなんて初めてで、緊張と気恥ずかしさしか残らなかった。……まてよ、授業で詩を学ぶから、初めてではないよな。

「ごめん、忘れてたよ。いつだったか図書室の帰りに話そうって、言ったんだよね」


「……共通の話題」

 そう言って、彼女は笑う。いつもより少し、目が優しい気がした。


「萩原朔太郎は読む?」

「読んでみたいとは思っている」


「じゃあ、どうぞ。貸してあげる」

「ああ、ありがとう」


 僕は彼女から借りた本をバッグにしまう。とても丁寧に扱ったつもりだけれど、それが見えてたらいいな、と思った。

「前田君のことだけれど」


「うん」

「私も正直、彼とは話をしたくない。理由は、ちょっと、言えないけれど……。でも、メッセージくらいなら送れるかも……そうだ、大崎くんの連絡先も教えて?」


 僕は鞄から携帯を取り出して彼女に見せる。電話番号と、メッセージアプリに瀬川皐月の名前が登録された。でも、僕にはさっきの瀬川の言い方がなんとなく気にかかった。


「ちょっとまって、やっぱり良いよ。話をしたくない人に無理に連絡なんてする必要ないよ。そもそも僕だけの問題だった。だからもう、忘れてくれ」

 

僕は勢いをつけてそう言った。そうでもしなければ、きっと彼女は智に連絡を入れてしまうはずだ。無理強いは絶対に出来ない。


「わかった、わかったわ。でも、何か新しい情報を得たら連絡する」

 僕は頷いた。もう話は終わったのだ。疲れているし、さっさと退散するか。


「じゃあ、本借りるね」

「どうぞ」


 椅子を机に戻す。机には深川と二人、仲よさそうに写った写真があった。高橋もこうやって机に写真があったような気がする。写真なんてみんな、スマートフォンの中にしか入れてないものだと思い込んでいたけれど、そうでもないんだな。


 玄関で靴を履く。この間高橋の家に行ったときの反省点として、靴はいつも綺麗にしていて良かったと心の底から思った。


「時間取ってくれてありがとう」

「いいえ」

「じゃあ、また」


 彼女は頷いた。自転車を走らせている間、瀬川のことを考えていた。彼女と深川の噂話は時々、僕の耳にも入ってくる。瀬川とは、ちょっと話をしただけだけの関係だけれど、そういう噂ってやっぱり適当なんだろうなって思う。


 彼女だって普通に生きている人間なんだよな、もちろん深川だってそうだ。深川とは深い話をしたことがないけれど、瀬川の友人ってことはそんなに遠い人間でもないだろう。男子が彼女たちに好き勝手言う。


 それは人間だから仕方ないのかもしれないけれど、そういうのはどうかと思うよな。人のルックスなんて何がいいかなんて、判断基準がないんだよ。それなのにおかしいよな。


 ま、僕が一人こんなこと考えたって何にもなりゃしないんだけどさ。急に空しくなってくる。慣れすぎた道を走って家に着く。部屋に帰って着替えると疲れすぎたのか直ぐに寝てしまった。寝る直前、そういえば朝食べたきりで何も食べてねーなと思ったけれど、それよりも眠気が勝った。


 夜の九時頃に目が覚めて、夕飯を食べた。こんな時間に一人で食べているからか、母親はなんだか怒っているみたいだった。それが理由って訳じゃないけれど、食べ終わった食器は自分で洗った。


 皿を洗うのなんてほとんど初めてだったけれど、数枚の皿洗いがこんなに大変だって初めて知った。どんなことだって、やってみなけりゃ分からないものなんだな。


 部屋に戻って明日の準備をして、どうしようかと思ったが、そういえば瀬川から本を借りたことを思い出した。取り出したところで母親がさっさと風呂に入ってくれと一階から僕に言っている。


 さっきの不機嫌さがまだ残っているみたいだった。いつもはグダグダと時間稼ぎをするけれど、こんな日はさっさと動くに限る。


 風呂から上がってきてスマートフォンを見ると、瀬川からメッセージが届いていた。智に連絡してみたけれど反応がない、といった内容だった。読んでさえないらしい。僕はまず礼を言った。


 話しもしたくない相手に送ってくれてありがとう、今後は無理をしないように、と。読まれたけれど、数分、画面を凝視してもそれに反応する返信はなかったので、借りた本を読むことにした。


 萩原朔太郎は中原中也と比べると一見、読みづらさがあったけれど、何度か声に出していると不自然さはまるでなくなって、また全然違った世界が広がっていると思った。訳の分からない時間に寝たせいで、まるで眠くはならなかったので、ずっと本を読み続けた。


 深夜一時を回ったところで、スマートフォンが光った。瀬川だった。内容は……智と話をしたってだけだった。彼女と智が何を話したのかは分からない。それに、彼女が何も書いてこないところを見ると、それを今、言う気もないってことも分かった。だから、本当にありがとう、とだけ返信した。


 直ぐに読まれたけれど、相変わらず返信はなかった。これでどうなるかはまったく分からない。あとは野となれ山となれ、明日は明日の風が吹く、だ。瀬川が智に何を言ったのか、結局は分からずじまいだったが、聞いても良かったのだけれど、どうしてか、聞く気にはならなかった。



 今でも時々、瀬川から連絡が来ることがある。それは詩のことだったり、学校生活のことだったりする。まあ他愛のない話だし、相変わらず返事は不規則だけれど、僕自身も瀬川に対して興味を持ち始めているってことなのかもしれない。少なくとも、前よりはずっと。


 勉とは相変わらずで、本当にたまにだけれど、休みの日に会ったりもする。それに高橋がついてくることもある。一度、僕と、勉と、高橋と、上田で出かけたこともあった。上田も新しい恋をしているらしく、応援してよね、といっていたが僕が何かを出来るはずもなく。僕の知り合いとかならともかくね。でも、うまくいけばいいとは本当に思った。



 そんなこんなで夏は急速にその陰を潜めて、気が付けば冬服に替わっていた。もう半袖で運動をするってことも信じられなくなりつつあって、そんなことが本当にあったとは思えないくらいに寒くなった。

「その後、前田君とはどう?」


 その日は僕は、部活の部長ミーティング(という名の部長同士の雑談会だ、はっきり言って)があったせいで遅くなってしまい、一人で帰ろうとしたところ瀬川が僕に声をかけてきた。深川はいないのか、と聞いたら帰った、とのこと。


 最近は、文化祭前で、瀬川が美術部で忙しく、帰りは一緒になることは少ないのだそうだ。前に彼女は一人は嫌だって言っていたような気がするけれど、そういう時はどうしているんだろうか?


「相変わらず話を全くしていない。せっかく瀬川さんが話をしてくれたのに、彼には結局許せないことだったんだって思うよ」

「そうは思えなかったけどね」


「じゃあ、本音とは別の部分で動いているんじゃないかな。そういえば、前に勉が、智が転校するかもって言ってたんだよね。それについては何か知っているの?」

 瀬川は首を振る。もう何も興味がないっていう感じで。……正確には、『もう』じゃなくて『初めから』なんだろうな。


 彼女は何を着ても様になる。田舎の中学校のイートン制服だって、ジャージだって、体操服を着ていたってそう。私服は……見たことないな。僕なんかとは大違いだ。僕なんて何を着たってなんだかちぐはぐな印象を受ける。この差はなんだろうな。そんなことを話していると彼女の家に着く。


 今日は二人乗りなんてしないで、僕が自転車を押しながら歩いた。もう、手袋なしで自転車に乗るにはちょっと寒すぎる。彼女と深川は歩いて学校に通っている。家も近くだそうだ。

「ところで、何か話したいことでもあったんじゃないの? 僕を待っててくれたんだろう?」


 彼女が家に入る前に、僕は彼女の背中に声をかけた。そうじゃなければ彼女が待っていてくれている理由がないと、単純に思ったから。

「ううん、何も。偶には、大崎くんと一緒に帰りたいって思ったの。それだけ」

「そう」

「うん」


 彼女の雰囲気は少し柔らかくなった気がする。前はもっと言葉一つにも、ナイフのような鋭さや、植物の棘みたいなものがあったような。

「じゃあね、ありがとう」


 そう言って、彼女は玄関のドアを開けた。僕たちの関係はなんだろうか。友達? それとも少し違う気がする。じゃあなんだ、って言われると何も答えられない。そして、これから先、僕たちがどうなっていくのかも分からない。分かることが何もないんだ。本当に。


 僕は鞄から手袋を出してはめる。十月も終わりになって、風がだいぶ冷たくなっている。もうすぐ冬が来るんだ。それが終わって春になれば僕たちは三年になる。まだ先のことで、はっきりとそれがみえるわけではないのだけれど。


 それでも、自分の気持ちだけははっきりとさせなければいけないと思った。それがどんな気持ちであれ、僕のものだ。

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