十六  嫉妬/缶コーヒー/秋

 休み明けの初日。皆、気怠いからなのか、さっさと帰って行く。教室に残っているのは僕と勉くらいのもんだ。僕は勉が帰るまで帰るわけにはいかないから、彼の話に付き合っている。でも、本題はここではまだ、話をしないようだ。


 夏休み中に起こった他愛ない話を彼は続ける。時々、智のことも話題に上がる。彼はどうやら、夏休みの途中くらいからあまり部活に出なくなっているらしい。


 僕と彼は今、仲が良いとはとてもいえない状態だから、誰かの目を通して彼の話を聞くのはなんだか不思議な感じだった。まあ考えてみれば、中学校に入ってからはずっとそうだったか……。


「転校するかも、って話だぜ」

「誰が?」


「智が。何か聞いてないのか?」

 何も聞いちゃいない。何も。

「何も」


「そうか、なんだか変な話だよ。信憑性がなくもないし」

 そのことについて何か言おうとしたけれど、何も知らない僕が何かを言うなんておかしい気がしてやめた。


 小学校時代のあれこれを知っている勉なら、僕と智が疎遠になっていることくらいはもう当然、知っていることだろうな。


「そろそろ行くか。今の時間なら誰とも会うことはないだろうよ」

 彼は立ち上がった。二人で自転車置き場まで行くと高橋がいた。

「お・そ・い」


 彼女の表情を見ると、口ぶりほど、怒ってはいないようだった。

「ごめんごめん」


 勉はそう言った。明らかに僕とは違うトーンだったので、僕は察した。僕の表情を見て勉は悟ったみたいだったが、彼は苦笑いをして「じゃあ行こう」とだけ言った。


 春先から夏にかけて高橋と走った道を、今は勉を交えて走る。時々は上田がいたこともあったっけ。懐かしいと思えるだけ救いがあるような気がしたけれど、未来のことを考えるのであればそれは救いと呼ぶにはあまりにも力不足だった。


 先頭が高橋で、その後ろが勉。最後に僕という順番で、仲よさそうに会話を続ける彼らを後ろから見ていたわけだけれど、僕自身に奇妙な感情が生まれているみたいだった。喜ばしいと思う心と、少しだけ、ほんの少しだけ残念と思う気持ちも確かにあった。喜ばしいってのは単純だ。


 高橋は、智を完全に振り切ったと言うことで(もっともそれは少し前からあった傾向なのだけれど)、勉も瀬川に対して同じことを思ったってことだから。じゃあ残念はなんだ? 仲良くなっていた高橋に対して? いやそれはないはずだ。


 だって、僕たちは単純に友達なんだ。勉に取られるって思っているなんて本当、おかしい話じゃないか。


 自転車は、何度か話をした高橋家の近くにある公園に着いた。もうここも懐かしささえ感じる。そんなに時間がたったようには思えないが、案外忙しいんだよな、中学生ってのもさ。


「ごめんね、ここまでつきあってもらっちゃって」

 高橋が自転車のスタンドを立てながら僕に言う。

「もう通学路みたいなものだから」


 それは本当だった。何度、この道を通ったか。少なくとも、中学になってから智の家に行った回数よりは多いだろうな。

「ちょっと学校では話をしにくいことだからさ」


 今度は勉が言う。君たちのコンビネーションはもう、長年連れ添った相棒のそれだった。ずいぶんと仲良くなったもんだ。夏休み後半の、あの短い期間で。それとも恋人同士ってのは、他の人とは違う距離の詰め方を持ち合わせているのか?


 彼らの話は単純だった。あれがこうなって、こうがこう変わって、高橋志穂と佐藤勉は付き合いだしたとのこと。二人はある意味似たもの同士なのかもしれない。今日一日の印象だけど、勉は今までよりだいぶ変わった気がした。


 考えてみれば、別に彼は悪い奴じゃない。ただ、付き合い方が下手なんだろうってだけ。高橋だって別に悪い奴じゃない。ただ、上田との感じを見る限り、彼女もあんまり人付き合いが上手じゃないのかもしれない。という意味では、やっぱりお似合いなんだろうな。それともこの見方だって通り一辺倒過ぎるのか?


「……ってわけなんだよ」

 高橋は少し、恥ずかしそうに勉の方を見て微笑んだ。

「そうか、良かったよ」


 それ以外何を言うんだよ? でも、良かったと思っているのは本当。

「……でさ、今日要に来てもらったのは智のことを聞きたいんだよ。彼の真相」


 勉からその名前が出るとは思わなかったけれど、大方、高橋から何かを聞いたんだろう。今浮かんだ僕の、その感情はなにか?


「聞きたいってもな……、高橋さんと上田さんには話したけれど、僕が夏休み中、智に会いに行ったんだよ。瀬川さんのことどう思っているかって高橋さんが聞かれたらしくてさ。そんなことは僕に直接聞けば良いことじゃないか。そうだろ? だからそのことを話しに行ったんだけれど、そうしたらいきなり智は激怒してさ。それからは何も会話していないし、休み中も部活の時、姿を見てない気がする」


 正直に言うと、あのことは思い出したくない。だって、理由が分からないことでこうなってしまっているから、問題を解決する術がないんだ。でも、少し間を置いて、誰かに話をすることで、あの出来事を冷静な目で見ることが出来たような気がするんだ。


 それは良い点で、それ以外は全部、悪い点しかなかった。ふと、さっき思い浮かんだ『嫉妬』って感情が僕の中に生まれてどこかに引っかかった。でも、智が僕に対してそんな感情、どうして持つんだろうか? あり得ない話だ。


「それが僕が智との間にあった出来事なんだ」

 僕が話し終わった後、二人とも同じような顔をしていた。それが本当に同じ表情で、僕は思わず笑ってしまいそうになった。もちろん、笑いなんてしなかったけれど。


「僕は彼がなんでそんなに怒っているのかが分からない。……だから、この話はあまりしたくないんだよな」


 僕は改めて思う、この出来事で僕ははっきりと傷ついているんだ。間違いない。高橋は勉と顔を見合わせている。二人には、もう答えが見えているみたいだった。いつも何も分からないのは僕だけだ。


「要、もしかしたらなんだけれど」

 勉が言う。彼の顔はちょっと、大人びて見えた。僕ではどう頑張っても届かないところに、彼はもう手が届いてる。何かを経験して、誰もが成長する。それは年を取るってことなのかもしれないけれど、ちょっと違うんだ。


「私も、勉くんが考えていることと同じだと思う」

「もしかしたらだけど、瀬川さんは、要のことが好きなんじゃないのかな」


「前田君は、どこかからそのことを知っちゃって、それで大崎くんに対してそういう態度を取ったんじゃないのかな」

「……」


 勉と高橋の言ったことは、僕に衝撃を与えた。間違いない。だって、開いた口が塞がらなかったから。


「前田君は瀬川さんのことが好きなんでしょう? 仮に……仮に、そのことが本当で、本当に瀬川さんが大崎くんのことを好きだとしたら、前田君は多分、大崎くんに対して怒りの感情を浮かべるんじゃないのかな」


 高橋の言ったことが僕の耳を通り抜けていく。二人にとっては当たり前すぎることで、なんてことないのかも知れないけれど、僕にとってはそれはあまりにも大きすぎることだった。


 瀬川が僕のことを好きかも知れないってことはまあいい。というか、僕は好かれるような人間じゃない。だから、そのことは多分瀬川の勘違いみたいなものなんだろう。多分。なんにせよ、人の感情だ、僕にはどうしようもないこと。


 僕がどう思っているかは後で考える。それより大きかったのは、前田が僕に嫉妬しているっていうことだ。彼はそんなこととは無縁の人間であると思っていた。だって彼が何を羨むっていうんだ?


 見た目が良い。

 育ちが良い。

 勉強ができる。

 運動神経も良い。

 女の子に好かれる。

 ……なのに、なんで?



 頬に冷たい感触が。見ると勉が缶コーヒーを僕の頬に当てている。黄色い缶で、すっごく甘いコーヒーだ。昔はこれしかコーヒーって飲めなかった。

「はら、飲めよ。すごい顔しているぞ」

「ああ……、ありがとう」


 受け取った缶を開けて飲む。暫くぶりに飲んで、想像以上に甘かったけれど、精神的ダメージが大きすぎる今の僕にはちょうど良かった。

「勉、実はすごく良い奴なのか? 僕は勉のことを誤解してたような気がする」


「……要が俺のことをあんまり好きじゃないってのは知っていたよ。ほら、俺って少しずるいところあるだろう? こうやって、志穂と付き合い始めてさ、自分の至らないところが見えてきたというか……こんなことは相当、恥ずかしいことなんだけどさ。でも、なんていうかな……俺は要のことが好きなんだよ。正直、変な奴だなって思うこともあるんだけどさ。それでもな」


 いろんな感情が交じってなんだか泣きそうになってしまった。でもこんなところで泣くわけにはいかなかった。それに……泣いたって何も解決なんてしないんだ、それだけは小学校の時に学んだ数少ないことの一つ。僕はとにかく甘いコーヒーを飲んで、一緒に涙も飲み込んだ。


「美しい友情は置いておいて、これからどうすれば良いと思う? 二人は」

 少し間を置いて、高橋が言った。彼女にもお礼を言わなければいけないな。

「高橋さんもありがとう」


「ううん、私も大崎くんにはかなり、助けられたしね」

「その件に関しては俺も礼を言うよ」

 要が冗談めかして言う。でも直ぐに真面目モードになった。


「……やっぱりさ、要と瀬川が話するしかないだろうよ、智のことに対して」

「仮定が本当だとしたら瀬川に嘘をついてもらわないといけなくなる。それに智は本当に勘が良いから、そんな嘘をついたことでさらに僕に対して怒ると思う。ああいう人間だ、嘘をつかれるのも嫌いだしね」


「ちょっとまって、今の話だと、瀬川さんが嘘をつくってどういうこと? 大崎くんに対する気持ちを、前田君には嘘をつくっていうこと? それは逆効果でしょうよ」

「それに、瀬川さんが本当に要のことを好きなのかどうかなんてことはまさか聞くわけにはいかないしな」

「……」


 僕たちは黙って空を見上げた。夏の部活中に見た空は変わらないように見えて、その実、空にはもう秋の雰囲気が強く、漂っている。いろいろとありすぎた夏が終わる。……正確には、昨日の八月三十一日で気分的には終わっているんだけど。


「ねえ、大崎くんはどうしたいの? 前田君と仲直りしたいの?」

 僕はさっきもらった缶コーヒーを飲む。どうだろうか。


「言われてみれば、仲直りしたいのかどうかはっきりと分からないな。小学校の頃だったら、直ぐに謝りに行ったと思う。でも、今は彼と少し距離があるからな……だから、このままでも良いって思ってしまっている自分もいるんだ。中学校に入ってから、僕たちの関係は変わってしまったんだ。でもそれは、悪いことじゃない。もしかしたら、今までだって家が近いからって理由だけで仲が良くて、今になってそうじゃないって気が付いたのかもしれないし」


「確かに、小学校の頃は要と智はいつも一緒だったよな」

「そうだったんだ」


 高橋が言う。今の僕たちを見ると、確かにそういう感想になるよね。僕と勉は同じ小学校だけれど、高橋は別の学校だ。ちなみに、瀬川、深川も高橋と同じところ出身。だから彼女たちのことはよく知らないんだ。


「それに、小学校の頃は要の方が女子に人気あったんだよ」

「冗談だろ? 僕はそんな実感まるでなかったぜ」

 勉は笑った。


「そういうところが要なんだよな……。ほら、小学校のときって足が速いとモテるだろう? それと似たような感じだよ」

「いや、それだっておかしいぞ、僕はまるで足なんて速くないし、下から数えた方が早いくらいだったよ?」


「だから例えだって。意味分からないけど奇妙な雰囲気があった、それが人気だったんだろう。俺のクラスでも何度か名前が出てたからさ。今だって相変わらずよく分からない雰囲気を持っているよ。だから、本当かどうかは分からないけれど、瀬川さんが要のことを好きだとしても、別に不思議はない」

「へえ」


 驚いたが、でも、だからなんだ? という感情しか出てこなかった。

「でもね、六年になって、少したった後あたりから智が急にカッコよくなってさ。成長してイケメンになったってわけだ。そのころから、もう智の人気は今もずっと続いている」


「勉はよく見ているな。僕はそんなこと気にしたこともなく智と遊んでいたよ」

 僕は感心して言った。

「まあね、お前達と違って、俺は頭を使わないとだめだって気付かされたからな。それからずっと努力の人よ」


 勉がそこまで言ったところで、グー……と彼のお腹が鳴った。彼はバツが悪そうに苦笑いした。

「ごめん」


 ポケットからスマートフォンを取り出して見るともう午後二時を過ぎている。今日は半日で終わって部活もなかったから、何も食べていないという訳だ。でも、それは帰るタイミングとしてバッチリだった。


「そろそろ帰るよ。今日はありがとう。どうするのか、どうすれば良いのかはこれから考えてみる」

「うん」


 僕は一人、彼らをそこに残して家路につくことにした。彼らは、二人だけの時間を過ごすんだろう。それと同時に、僕のことで時間を使ってくれたことにも心の中で大きく感謝した。

「考えるとは言ったけれど」


 声に出していった。どうせ誰もいないし、いたって僕の言葉なんて聞いているはずがない。いつもこの道を通るときは大体、学校に寄っていた。それは、誰もいないであろうそこに行けば、何かがあるかもしれないって思っていたから。


 でも今日は、もう新しい何かを抱える気分にはならなかった。僕は間違いなくそう思っていた。途中で、見知った背中を見つけるまでは。

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