新しい季節(2)

「いらっしゃいませ」

 吉野さんは、帽子を脱いで入口のコートハンガーの上にかけ、まっすぐにカウンターまで歩いて来た。迷いなく、カウンターの一番端の、本棚の横の席に座ったので、きっとそこが定席なのだろう。


「お、琥珀先生もいるね」

「どうも。文学メルカートではお世話になりました」

 マスターが正面に立ち、おしぼりを差し出す。

「隣同士だったらしいですね」

 吉野さんは、カウンターの上に肘をついて両手の指を組み、生真面目な顔を作って言った。

「琥珀先生とは、同じ文学の道を志す者として、真剣に切磋琢磨して来ました。残念ながら、本の売上では負けてしまいましたが」

 そこで、ふっと表情をゆるめて笑う。

「あのサークルの団結力は素晴らしいですね。見ていて実に気持ちいい」

「ありがとうございます」


「今日は、何になさいますか?」

 マスターは、メニューも出さずに聞く。常連だから、今さらメニューなど見なくても覚えているのか、いつも同じものを注文するのだろう。

「スモーキーなやつがいいかな」

「それでは……」

 酒の種類も何も聞かずに、マスターはカウンターの後ろのボトル棚に向かい、ウイスキーボトルを一本取ってカウンターに置く。

「カリラ・ディスティラーズ・エディションですが、いかがでしょう? シェリー樽で2段熟成しているものです」

「では、これをいただきましょう」

 阿吽あうんの呼吸というのか、飲み方も指定していないのに、マスターはテイスティンググラスにストレートでワンショットを注いで、吉野さんの前にそっと置いた。吉野さんは、グラスを軽くゆすって香りを吸い込んでから、ひとくち含む。

 出す方も、飲む方も、洗練された大人の所作で、とてもマネできそうにない。同じ銘柄のウイスキーを飲んでいても、雲泥の差があった。

 こんな大人になれるまでに、どのくらいかかるんだろう。


***

 いつもの土曜日のように、七時近くなると、ぼちぼちお客さんがやってきて、カウンターもテーブル席も半分くらい埋まってきた。

 夜遅くなると、タイミングによっては満席になってしまうこともある。Reservedの札を置いてもらうにも、時間がわからなければ気が引けるので、美優が何時に来るつもりか聞かなかったのは失敗だった。

 Lineで、何時に来るか聞いてみようと思いながらも、次々にお客さんがやって来たり、追加オーダーの声がかかったりで、スマホを開く余裕はなかった。


「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥で、引き上げてきた皿を洗っていると、マスターがお客さんを迎える声が聞こえた。洗い終わった皿をカゴに立ててカウンターに戻ると、シックな赤いドレスの上に、黒いハーフコートを着た女性が立っていた。大人びたメイクをして見違えるようだが、間違いなく美優だ。

 マスターが近づいて、後ろからコートを脱ぐのを手伝い、そのままカウンターに案内してきた。空いているのは、吉野さんの隣の席だけだった。


「お待たせ」

 カウンターに座った美優は、緊張しているらしく表情がこわばっていた。元から大きな目に、しっかりアイメイクをしているから、余計きつい印象になっている。

「い、いらっしゃい」

 カウンターの中から、僕の方も緊張しながら、おしぼりとメニューを出す。

「すごいお店だね。想像していたより、ずっと高級な感じ」

「そうかな」

 照明を落としているし、調度品も木製で彫刻をしてあるようなクラシカルな雰囲気だから、高級そうには見える。

「何にする?」

「えと、こんなお店に来たことないから、何頼んでいいかわからない。なんか変なもの頼んだら恥ずかしいし……」

 相当緊張しているようだった。


「あの……」

 隣の席の吉野さんが、声をかけた。

「もしかして、文学メルカートでお隣にいた、琥珀先生のサークルの方ですか?」

 美優はびっくりして、声をかけられた方を向き、初めて吉野さんだと気がついたようだった。

「あ、ハルノートの」

「はい。あの時は、お買い上げありがとうございました」

 知っている人がいて、美優は、ほっと緊張が解けたようだった。

「あの本、とても面白かったです。家に帰って一気読みしました。ラストの、両片想いが通じるところで泣いてしまって」

「ありがとうございます」

 吉野さんの笑顔につられて、美優も微笑んだ。

「注文に困ったら、マスターにお任せでカクテルを作ってもらうのも、お勧めですよ」

「マスターに?」

「ええ。甘いのとか、フルーティーなのとか、アルコールは濃いのがいいとか薄いとか、好みを伝えると、おすすめを作ってもらえますから」


 カウンターの反対側の端に行き、美優のコートをバックヤードのコートハンガーにかけて戻って来たマスターに、声をかけた。

「あの、彼女が、さっき話していた僕の彼女なんですけど、おすすめのカクテルを作って欲しくて」

「了解」

 マスターは、カウンターで吉野さんと話をしている美優を見てから、僕の方を振り返り、片目をつぶって小声でささやいた。

「素敵なレディじゃないか。きっと、大人の雰囲気のカクテルが似合うな」


 いつの間にか、こんなオーセンティックバーにドレスを着て来ても違和感がなくなった美優を見て、不思議な気分だった。

 僕も、いつまでも「青春」なんて言っていられないのかもしれない。


 テーブル席のお客さんが、手を上げるのが見えた。僕は、カウンターを出てそちらに歩き始めた。


<完>

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