エピローグ

新しい季節(1)

 ベッドの枕の横から、アラームの音が聞こえる。手を伸ばすと、柔らかくて温かいものに触れた。

 はっとして目を開けると、ゆるくパーマをかけた明るい色の髪をかきあげて、大きな目がこちらを見ていた。

「おはよ」

「おはよう」

「そんな時間じゃないけどね」

 カーテンの外は、薄暗くなっていた。アラームを止めたスマホの時計は、午後四時を表示している。スマホを置き、彼女の肩に手をまわして抱きしめながら、口づけをすると、甘さを感じる間もなく、ぐいっと押し返される。

「もうダメ。起きて着替えないと、バイトに遅れるでしょ」


 午前十時半到着の新幹線で、美優は東京にやって来た。文学メルカートが終わって一週間しか経っていないが、僕がバイトに入る日に、どうしてもバー「エンボス」に行きたいというので、最初の土曜日にすぐやって来たのだ。

 前の晩も午前三時まで働いているから、昼間から出かけるのはつらいと言ったのだが、「どこにも出かける必要はない。ただ八王子の駅まで迎えに来てくれるだけでいい」と言って、聞かなかった。

 小さなスーツケースを引いて改札口に現れた美優は、開口一番、買い物をしたいと言う。そのまま駅前ビルのスーパーに連れて行くと、パスタの乾麺に、アサリの缶詰やベーコン、玉ねぎ、マッシュルームなど、材料を袋いっぱいに買い込み、昼にはパスタを作るからと言って微笑んだ。買い物袋は僕が持ち、エンボスの入っているビルや、曲がり角の目印を教えながら、手をつないでアパートまで歩いて帰ってきた。


 そして、そのまま僕らはずっと部屋にいた。カーテンも閉め切り、ひたすら抱き合い、愛し合った。そのまま眠ってしまったから、美優の手作りパスタは食べられないまま、こんな時間になってしまった。

 

「バイトに行く前に、ちゃんとシャワー浴びていきなよ」

「ああ」

 とりあえず、コーヒーくらいは飲んでおきたいので、やかんでお湯を沸かしに行くと、ベッドの上に腰掛けている美優から声がかかる。

「後からお店に行くけど、宏樹が出ていってからシャワー借りてもいい?」

「先に使ってもいいぞ」

 美優は、恥ずかしそうに下を向いた。

「髪の毛を乾かすのに時間がかかるし、それに……」

「それに?」

「ここだと、キッチンで裸の体をふくことになるでしょ……」

 確かに、狭いアパートだから、風呂場に脱衣所なんてスペースは無い。風呂あがりはキッチンに足ふきタオルを敷いて、そこで体を拭いて着替えることになる。

 でも、今さら、そこで恥ずかしがるのか? 女心はわからないが、あえてそこは追求はしない方が良さそうだ。

「わかった。後からゆっくりどうぞ」


 シャワーを浴びてから制服のシャツに着替え、ムースで髪のはねを押さえて、玄関に立つと、美優が上から下まで何度も見て、にこりとした。

「これ、部屋の鍵。出る時に忘れずにかけてきて」

「わかった。宏樹のこういうスタイルは初めて見たけど、かっこいいね」

「そうか?」

「うん。とっても新鮮」

 コートを着てドアを開けると、キンと冷えた空気が入ってくる。

「いってらっしゃい」

 小さく手を振っている彼女に見送られてドアを出ると、まるで新婚のような気分だった。


***

 開店準備を済ませ、カウンターの中でマスターと並んで最初のお客さんを待つ間は、いつも雑談タイムになる。今日は、文学メルカートの報告。

「『夢の向こうに咲くスズラン』を書いた吉野遥音よしのはるとさんとお会いしましたよ。偶然、隣り合わせの席で出店してました」

「そうなんだ」

 マスターは、うれしそうだった。

「何か、話をした?」

「はい。作品のこととか、僕がこの店でバイトしていることとか。あ、そうそう。今日ここに来るって言ってました」

「珍しいね。いつも週の中日にいらっしゃるのに」

「確かに、そう言ってましたね」

 そうだ。美優のことも言っておかないと。


「あの、今日、僕の彼女がお店に来るんですけど、いいですか? 迷惑にならないように、隅の方の席に座って、普通のお客さんとして扱うようにしますから」

 マスターは、お笑い芸人のコントのように、大げさに驚いた表情になって後ろに反った。

「矢形君から、『彼女』の話が出るなんて初めてだね。毎週末、こんなところで深夜バイトしているから心配していたけど、ちゃんといたんだ」

「はあ、あの、最近できたんで」

「いいよ。どうせならカウンターに座ってもらいなよ。バーのカウンターは、レディがいた方が華やいでいいからね」

「いや、レディという感じでもないんですけど……」

 カウンターに座ってもらうのはいいけれど、間近で美優に見られながら仕事をするなんて、緊張しそうだな。

「彼女さんは、同じ大学の人?」

「いえ。今は遠くの大学に行ってます。高校生の頃は東京に住んでいたんですけど」

「遠距離恋愛か。それは大変だね。高校生の頃からの知り合いなんだ」

「はい。小説を書いている仲間だったので」

 マスターは、流しの上の水滴を布巾でふき取りながら言った。

「同じ志を持っている人と付き合えるなんて、羨ましいね。ずっと大切にしなよ」

 気のせいか、マスターの表情が少し寂しそうに見えた。そういえば、マスターが結婚しているかどうか、聞いたことがなかった。左手の薬指に指輪はしていないが、食品を扱う仕事だから、結婚していても外しているのは不思議ではない。


 ドアを開く音がして、お客さんが入ってきた。

「こんばんは」

 聞き覚えのある声。

 ツイードのジャケットを着てハンチング帽をかぶった、吉野遥音さんだった。

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