4−5 夜明けのおにぎり(2)

「いつから聞いてたんだよ?」

「何を? 起きたら、いい感じで見つめ合ってるから、キスでもするのかなと思って待っててやったけど、ぜんぜんしないからさ」

 美優の手が、するりと僕の手の中から抜ける。また両手を口元に当てているが、今度はかなり恥ずかしそうな表情になっていた。まったく健二の奴は、デリカシーのかけらも無いな。


「あの、そろそろラストオーダーになりますが」

 バーテンダーがやってきて、テーブルの横に立った。

「もういいかな?」

「ああ。飲みすぎた。お水だけもらおうか」

「じゃ、チェイサー3つだけで」

「かしこまりました。それでは、伝票をこちらに。テーブルでお会計になります」

 バーテンダーは、伝票を挟んだホルダーを置いてカウンターに戻って行った。健二はホルダーを取り上げて伝票をチェックし、しばらく暗算してから、僕たちに言った。

「美優は安い酒しか飲んでないから四千円。宏樹は六千円。残りは、シャンパンのおごりも含めて俺だな」

「安すぎないか?」

 健二が負担しすぎていないか不安になる。長時間いたから、三人ともかなりの杯数を頼んだし、僕が飲んだスコッチは、みんな安いものじゃない。

「大丈夫。今日はお前らのお祝いだからな」

 健二は、僕らが渡したお札を財布にしまい、スマホを出して、バーテンダーが持ってきたQRコードで支払を済ませた。


 店から出ると空はまだ真っ暗で、街灯は点いているが、他のビルの明かりはほとんど消えていた。腕時計を見ると、午前四時だ。

「まだ四時か」

 思わず独り言のようにつぶやくと、健二が反応する。

「こんな時間に街に放り出されても、始発の電車が来るまで、どうしようもないな」

「さむっ」

 美優は、ブーツを履いているとはいえハーフコートだから、足元が寒そうだった。

「ねえ。築地まで歩かない?」

「築地?」

 唐突な美優の提案に、僕と健二は首をかしげた。

「築地の、むかし場外って言ってたところに、朝五時からやってるおにぎり屋さんがあるんだって。行って朝ごはん食べようよ」

「おにぎりか。いいかもしれないけど、ここから築地って遠くないのか?」

「銀座を通り抜けたら、すぐ築地だから。歩いて行ったらちょうどいい時間じゃない?」

「じゃ行こうか」

 美優を間に挟んで三人で横並びになり、新橋駅前から銀座を目指して歩き始める。


 しばらく歩いていると、美優が僕の腕と体の間に手を通してきた。恋人らしく、腕を組んで歩きたいってことか。でも健二もいるのにな。

 そう思って横を見ると、美優は健二の腕も取っていた。

「ねえ、寒いから、二人とも横くっついてよ」

 美優は、僕と健二の腕をぎゅっと引き寄せて「両手に花」の逆状態にすると、鼻歌を歌い始めた。

「なんかご機嫌だな。でも宏樹、いいのか? 俺も、リモートじゃなくて、美優の手触りとか体温とかって、あれになってるけど」

 健二が笑いながら言う。

「今日だけ特別な」

 そう答えると、美優は鼻歌をやめて、上機嫌なまま健二に話しかけた。

「宏樹と健二は、ずっと二人で両側から私のこと支えていてね」

「ええ? ずっと酔っ払いの世話して帰るなんて、まっぴらだぜ。そんなことは恋人に頼め」

「そういう意味じゃなくて。二人は私の青春時代そのもので、どん底になって消えたいと思っていた時に、救い上げてくれた恩人だから、健二も、ずっと一生友達でいてね」

 健二と目が合う。

「友達かあ。すっげー残念だな。どうせなら愛人二号くらいにしてくれよ」

「うん。それじゃ心の恋人予備軍にしてあげる」

「心だけ? 体は?」

「それはダメ」

 美優は、僕の腕をぎゅっと締めた。

「ちぇっ。しょうがないな。じゃあ龍と一緒に残念会でもやるか」

「ふふ」


 深夜の銀座の街は、街灯で明るく照らされてはいるが、ショーウインドウもイルミネーションも真っ暗で、異質な世界に迷い込んだようだった。時々、空車のタクシーやトラックが通り過ぎる以外、歩いている人もなく、シンとしているから、僕たちの話し声や笑い声だけが響いている。

 ふらふらしながら、三越の角を曲がり、歌舞伎座の前を過ぎ、築地本願寺のエキゾチックな建物の横でスマホを出して位置を確認して、少し逆方向に曲がって歩くと、市場らしい店が並ぶ建物の前に着いた。


 ほとんどの店はシャッターを下ろしているが、目的のおにぎり屋さんだけは、開店直後で煌々と明かりが点いている。僕たちは腕を離して、店の前のショーケースに近づいた。

「どれにしよう」

 ショーケースに積まれたおにぎりは、ざっと見ても二十種以上はある。一つひとつの値札に書かれた具を見て、どれにするか決めていく。

「私、高菜」

「俺は、塩辛としそひじき」

「僕は、明太子」

「味噌汁もあるけど、どうする?」

「飲みたい! あったまるよね?」

「じゃ、あさりの味噌汁三つ」

 おにぎりは、まとめて美優がカゴに取って精算し、横に置かれたテーブルに座る。ほどなく味噌汁も運ばれてきた。

「いただきます!」

 美優は、両手を合わせて丁寧にお辞儀をしてから、先にお椀を取り、器用に右手で箸を取って飲み始めた。

「あったまるー。ここまで歩いて来て、体冷え切っていたけど、生き返るよー」

「本当。やっぱり呑んだ朝は、味噌汁に限るよな」

 何も言わないが、僕も同感だ。

「おにぎり、美味しい。こんな美味しいおにぎり、食べたことない」

「だな」

 握りたてで、まだ温かいおにぎりは、かなりの大きさだが、程よくほぐれる柔らかさのコメと、しっかりした具のバランスがよく、絶品だった。

 食べているうちに、空がだんだん濃紺から明るい青色に変わり始めた。遠くでカラスの鳴き声も聞こえる。夜明けが近づいているらしい。


「朝だね」

 美優が、空を見上げながら言った。

「うん。ようやく、朝になったね」

 僕が答える。

「これで、最後に残っていた約束が、果たせたな」

 三人でうなずいた。




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