3ー2 つながる人と人(1)

「席を変わりますね」

 於菟さんは、さっと立ち上がって吉野さんの向こうに回った。吉野さんは「いやいや」と言いながら、横にずれて僕の横に座り、こちらを向く。

「あの、内容から、てっきり女性が書いたんだと思っていました」

「ああ、女性主人公ですしね。こんなおっさんが作者で、がっかりしたでしょう」

 吉野さんは、苦笑いしながら、うっすらと髭が伸びたあごを三本指でこすっている。赤っぽいタートルネックのセーターに、ハンチング帽と雰囲気の合った茶色のツイードジャケットを合わせていて、いかにも「文学をやっています」という雰囲気を醸し出していた。

「あの、マスターから聞いたんですが、一度小説を書くのをやめていて、また書くようになったんですよね」

「ああ、そうですよ。君も、あの店にはよく行くのですか? そんな話までマスターとしているなんて」

「いえ。あそこでバイトしています。金曜と土曜の夜だけ」

 吉野さんは、ほうほうというように、口を尖らせている。

「そうですか。いつも、混んでいる週末は避けて水曜日か木曜日に行っているので、お会いしたことはなかったですね。バーテンダーさんですか」

「いや、あの、カクテルを作ったりはできないので、皿洗いとか、フードを出したりとかしてます」

 バーで働いているなんて言うと、ずいぶん勘違いされるが、僕なんかができることは高が知れている。


「あの、作品の中で、服飾デザインのこととか、ずいぶん詳しく書かれていますけど、そういう仕事をされていたんですか?」

「いいえ。そのあたりのことは、於菟さんに教えてもらいました。彼女は、そっちが本職なんですよ」

 横で、都さんがにっこり微笑んでいる。

「じゃ、このブックカバーは……」

「はい。遥音はるとさんの小説のイメージを、刺繍で表現して、私が手作りしました」

 小説を書く中年の男性と、それをブックカバーで表現する若い女性って、一体、どういう関係なんだ?

「だから、このブックカバーで私の本を包むと、全体で完璧になるんですよ」

 ふふふっと、二人で笑っているが、あまりに息が合いすぎていて、見ているこちらが照れてしまう。


 場内放送で、アナウンスが流れ始めた。

『まもなく、一般入場の時間です。管理のため、これより出入口を一旦閉じさせていただきます』

「いよいよ開場か」

 さすがの健二も、少し緊張しているようだった。

「よし。目標五十部完売な」

「おう。俺が、売って売って、売りまくってやる」

 健二は、こちらを向いて親指を立ててきた。

「最後まで余ったら、みんなで山分けにするか?」

「いや、それはしない。余ったら、同人誌販売サイトに登録して売る」

 なるほど。やっぱりこいつは、勢いだけでなく、いろいろ考えているな。


『ただいまから、第二十九回、文学メルカート東京を開始します』

 場内アナウンスが流れるのと同時に、入口から順番にお客さんが入り始めた。ガラス扉の向こうに大勢の人が並んでいるのが見えるが、毎年、開場時間には三十分以上待ちになる列ができるらしい。

 最初に入ってきた人たちは皆、目的のブースがあるらしく、それぞれに迷いなく会場内に散って足早に歩いて行った。その中で、数人がまっすぐP列の通路に入り、そのままこちらに進んで来る。途中で、一人立ち止まり、二人立ち止まりと減ってきたが、一番先頭の黒いハーフコートにブーツをはいた女性は、真っ直ぐに僕たちの前に走り寄ると、両手を振って大きな声で呼びかけてきた。

「おはよう! 設営、お疲れさま!」

 美優だ。四年ぶりに直接見た印象は、リモート会議の画面で見るのとは、ずいぶん違っていた。こんなに背が高かったっけ。シックな黒いコートの印象と相まって、ずいぶん大人びて見える。


「早いな、もう来たのか? 一番乗りって、何時から並んでたんだ?」

 健二が先に返事をする。さっきの「文学メルカートが終わったら美優に告白する」という健二の宣言が引っかかっていたから、僕は最初の一声が出なかった。

「七時四十分に名古屋駅を出る新幹線に乗れば、九時半には東京駅に着くから、十時に、ここで一番前に並ぶなんて、大したことないって」

 ほとんど僕たちと変わらないタイミングで来ていたということだ。それから二時間も、ずっと入口の前で立っていたなんて。

「いい感じに設営できてるね。このポスター、通路を歩いていても目立つよ。でも、小説っていうよりも、アイドル写真集でも売ってるみたいだけど」

「確かに」


 美優は、前向きに立ててあるサンプル本を手に取り、表紙からパラパラとページをめくり始めた。印刷会社とのやりとりはしていたが、事前に見本印刷は取り寄せていないから、美優も完成した本を見るのは初めてのはずだ。

 一番最後のページまで来たところで手を止めて、いきなり大きな声を出した。

「しまったー! 見落としたー!」

「どうした?」

 今度は、僕が先に答える。

「宏樹の書いたあとがき、間違ってるの見落としてた」

「え? 僕のところで間違い?」

 何を間違えたんだろう? 「本を読んでくれてありがとう」という挨拶ぐらいしか書いてないのに。

「『総ページ数二〇二ページの本が出来上がって』って書いてるじゃない。最後に増えたから、二百四十二ページだよ」

「あ……」

 しまった。原稿の差し替えの方にばかり気を取られていたから、あとがきでページ数を書いていたことなんて、すっかり忘れていた。

「あんなにチェックしたのに、最後の最後で。悔しいー」

「別にいいだろ。正誤表出すほどのことじゃないし。どんまいどんまい」

 サンプル本を本立てに戻しながら、美優はくちびるをへの字にして僕をにらんでいる。相変わらず健二は楽天的だが、今回ばかりは、それにすがりたい気分だ。

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