1−2 道標の本(2)

 アパートに帰り、座布団の上に座ってインスタントコーヒーを飲みながら、持ち帰った本を一気に読み終えた。

 主人公は、服飾デザイナーになりたいという夢を持っていた高校生の女子。親の反対で、専門学校に行くのを諦めて大学に進み、目標を見失う。卒業して商社に就職するが、やはり夢を捨てきれず、三十歳を目前に退職して服飾専門学校に入学。デザイナーとしての道を模索し始めるまでのストーリー。ここに、高校時代からずっと横で寄り添ってきた男子との恋が絡まって、ラストでようやく、お互いの両片想いが通じるハッピーエンドで終わる。

 ところどころ誤字があったり重複表現があったり、小説としては粗があるけれど、芯になっている「夢を諦めない」「好きなことは、やっぱり好き」というメッセージが心に沁みてくる。読みながら、じんわり泣けてきてしまった。

 服飾のことはよく知らないけれど、かなり具体的に描写されているから、作者は本当にその関係の仕事をしている女性なのかもしれない。マスターが言っていた、小説を書かなくなっていたが諦めきれずに再開したという体験があるせいか、主人公の悔しさや喜びがダイレクトに伝わってくる。

 やりたいことに夢中だった高校生の頃に読んでいたら、多分、わからなかったと思う。「挫折」という言葉も、ストーリー展開で主人公に試練を与えるために必要な要素というだけで、実感がなかった。今となれば、この著者が込めた思いの深さもわかる気がした。

 本を閉じて、あらためて表紙を見る。『夢の向こうに咲くスズラン』。著者、吉野遥音。ふり仮名がついていないから読み方がわからないけれど、「よしのはるね」かな。どんな人なんだろう。書くことを一旦諦めたのに、また書き始めて、自費出版で本を出すところまで頑張るなんて。


 ぼうっと考えていると、テーブルの上のスマホがかすかに振動した。健二からしつこく電話が来てから、ずっとオフにしていたLineメッセージの通知設定を変えて、バイブだけはするようにしていた。画面を開くと、やはりあいつだ。

『来週の土曜日、十六時からこのリンクでリモート会議するから。ぜってー参加しろよ』

 ぶっきらぼうなメッセージと共に、リモート会議のリンクが届いている。どうするかな。読み終わったばかりの本の主人公のセリフ「好きなものは、好き」がまた浮かんで来る。

 画面が切り替わり着信音が鳴り始めた。予想はしていたが、もう一時過ぎだぞ。

「おい。いま何時だと思ってるんだよ。こんな時間にかけてきやがって」

「既読が付いたからな。まだ起きてるんだろ。土曜日の十六時から一時間くらいなら、夜のバイトに間に合うよな?」

「まだ参加するとは言ってない」

「いいから来いって。またみんな集まるからさ」

 とことん楽天的というか、能天気な奴だ。他のみんなだって、もう四年前とは違うから、何人集まるかなんてわかったものじゃないだろう。

「みんな集まるなんて言っても、そんなに参加しないんじゃないか。約束なんてもう覚えてないだろうし」

「いや、もう八人は確定だ。お前が参加すれば九人だな」

 そんなに来るのか。高校二年生の時に企画したオフ会では、僕が作品を読んで、これはと思った奴だけ十人に声を掛けたけれど、結局集まったのは六人だった。それより三人も多い。


「この間も言ったけど、僕はもう小説は書いてない。だから参加する資格はないんだ」

「また書けよ。書けばいいだろ。他にも、ここしばらく何も書いてなかったって奴もいたから大丈夫だよ」

「簡単に言いやがって。僕には、もう書けない。書けなくなっちゃったんだよ」

「声かけた連中は、みんなお前に会えるの楽しみにしてたぞ。あの時、琥珀先生に励まされたおかげで前向きになれた。的確なコメントがいいヒントになった。また作品を読んでもらって感想を聞きたいって」

 そんなのは幻想だ。僕はランキングを上げるためのノウハウに沿って、良いと思える作品を選んで前向きなコメントをしていただけだ。

「それにな、美優に言われたんだよ。絶対にお前を連れて来いって」

「……」


 日向美優ひなた みゆ。ペンネーム三村優。圧倒的な筆力で、家族からのプレッシャーに押し潰されそうな少女の、ひりひりとする心の痛みを描いていた天才。そして、僕と健二の二人が深く関わった少女。

 若すぎた僕らには、何もしてあげられなかった少女。






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