1−2 道標の本(1)
「今夜は、もうお客様は来なそうだな」
「そうですね」
八王子駅の北口から歩いてすぐの、飲食店ビルの三階。バー「エンボス」の店内は、マスターと僕の二人しかいなかった。お客さんが多くて忙しい金曜と土曜だけ、夕方から明け方まで、皿洗いやフードの準備でバイトに入っている。実家は世田谷だが、大学の近くの方が便利だからと、ここから歩いて五分のアパートに住んでいるので、明け方に帰っても問題なかった。
今日は日曜日だが、明日が海の日で三連休だからと頼まれて、特別に入っていたけれど、深夜零時を過ぎると、ぱったり客足は途絶えてしまった。
「矢形君。もう上がっていいよ」
黒いベストとパンツをピシっと着こなして、髪をオールバックに固めたマスターは、カウンターの後ろで手を洗いながら言った。バーテンダー歴二十年のベテランで、この店を開く前は麻布のバーで働いていたらしい。
「あ、でも、まだ洗い物があるんで」
「じゃ、それだけ片付けたら上がって。時給は、いつもと同じように三時まで出してあげるから」
「すみません」
最後のお客さんが使った皿とグラスを洗って戸棚にしまい、カウンターをアルコールシートで拭いていると、本棚のスペースに見慣れない背表紙の本があることに気がついた。カウンターの隅に木彫りの本立てを置き、ウイスキー事典とか酒に関わる本が何冊か並べてある中に、『夢の向こうに咲くスズラン』というタイトルの、一見してお酒とは関係のなさそうな新書本が立っている。
「マスター。この本なんですか?」
手に取って、裏表紙のあらすじを読むと、大人の女性を主人公にしたラブストーリーのようだった。
「ああ。常連のお客様が
「へえ。すごいですね。でもこんな出版社、聞いたことないな」
「出版社を通さないで、全部自分で制作した自費出版だそうだよ」
「なるほど」
自費出版だとしても、表紙や本文に差し込まれたイラストもしっかりしているし、表紙タイトルや作者名の文字や配置も品よくデザインされていて、センスのいい作りをしていた。本人がデザイナーでなければ、相当金をかけて作ったに違いない。昨日の健二の電話で思い出させられた、チーム『月夜ノ波音』のアンソロジーを作ろうとした時に、印刷会社の同人誌作成パックの料金やイラストレーターの依頼費用を調べたから、大体の相場は知っている。
「昔は自費出版と言うと、印刷代もかかるし顔見知りに手売りするしかなかったし、大変なイメージだったけど、今はずいぶん楽になったらしいね」
「そうなんですか?」
「そのお客様が言うには、アマゾンで、オンデマンド印刷っていうの? データを登録しておくと、注文があるたびに印刷して発送してくれるサービスがあるんだそうだよ。自己負担で印刷しておく必要もないし、普通の本と全く同じように注文できるっていうから、便利だよねえ」
「え、そんなサービスがあるんですか」
高校生の時にいろいろ調べたけれど、その方法は見つからなかった。もし知っていたら、きっと使っていただろうな。
マスターは、カウンターの裏に並べてあるナイフやメジャーカップを布巾で磨いては、引き出しの中にしまいながら続けた。
「そのお客様、若い頃は、自分の本を出したくて出版社のコンテストにずっと挑戦していたんだそうだ。だけど、何年やってもぜんぜん芽が出なかったから、書くのをやめてしまったんだって。でもやっぱり書くのが好きだから、子供が独り立ちしたのと仕事が一段落して時間ができたのを機会に再開して、ようやく出版できたって喜んでいらした。この本は、そういう思いの
「すごいですね」
その人に比べて、僕はどうだろう。あんなに書くことに夢中になって、必死になって書いていたけれど、すっかりやめてしまった。昨日の健二からの電話で、せっかく忘れていたその時の感情を思い出してしまった。
この本の著者も、同じ思いをしていたのかな。
「マスター。この本、借りていってもいいですか?」
「いいよ。来週くる時に戻してくれれば」
「ありがとうございます」
カウンター奥の倉庫スペースに入り、制服の黒ズボンをジーパンに履き替えて、また客席側に出た。本をしまったリュックを背負い、カウンターの中に立っているマスターに一礼する。
「じゃ、お先に失礼します」
「お疲れさま。また来週金曜によろしく」
「はい」
店のドアを出て、共用スペースのエレベーターで一階まで降りると、駅前のネオンが煌々と明るく点いているのが目に入った。いつもなら午前三時に帰るから、駅前の店はとっくに閉店していて真っ暗だが、今日はまだ大勢の人が歩いていて賑やかだった。
さて、予定外の時間ができてしまったがどうしよう。どこか寄り道していくか? いや、それもめんどくさいし、まっすぐ家に帰ってこの本をゆっくり読むとしよう。僕は、賑やかな駅前のイルミネーションに背を向けて、アパートに向かって歩き始めた。
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