【第六章】
一
あの花園に、クラウスは立っていた。
春の陽射しをいっぱい含んだ風を全身に受け、黒い髪をさらさらとなびかせている。
空は眩しく光り、遥か遠くまで澄み渡っている。噴水からあふれる水が、さらさらと耳に心地よい。
「アリスを殺してしまうかもしれない」
柔らかに瞼を閉じつつも、彼の唇からこぼれたのは物騒な言葉だった。
自分の耳を通して聞こえる声に、アリシアはこれは現実だと知った。踏みしめる固い石畳。身体に触れるたくさんの花の群。頬を撫でる優しい風。目の前にたたずむ甘やかなクラウス。
「わたしを殺してしまうって……?」
だから、クラウスの言葉は理解できなかった。黒の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
「誰にも、渡したくないから。あのヴォルだって、本当は気に食わない」
「ヴォル?」
どうしてヴォルを知っているのだろうという疑問は、これは現実ではないという答えとともにやってきた。何故なら自分は、オーヴルに刺されたのだから―――。
アリシアははっと脇腹に手をやった。傷も痛みも、そこにはなかった。そんな彼女に、クラウスは悲し気な色を瞳に浮かべた。
「もしも」
クラウスは小さなベンチにアリシアを誘う。
「もしもわたしが武人でなかったら」
クラウスの背後に、彼が鬼のような顔で戦い合う戦の光景がうっすらと揺らめき、風に流された。
「240年後の時代に生まれていたら、なんの疑問もなく、貴族の遊びに漬かりきっていた」
「まさか、そんな」
アリシアは軽く笑う。クラウスは難しい顔をして首を振った。
「わたしは特別な男じゃない。時代を疑えるほど、器用な男じゃない」
「そんなことない」
「生まれた時代が、たまたま戦国時代だっただけ。わたしは戦国の世を疑わなかったし、王陛下を疑わなかった」
切なさと苦しみの入り混じった声は、アリシアを不安にさせた。いつも自分を守り導いてくれたクラウスの悲しい顔は見たくなかった。
「なにかあったの?」
瞳を覗くが、クラウスはすっと顔をそむける。
「どうしたの。クラウスらしくない」
「わたしはきっと、オーヴルに似ている」
「え?」
眉を
「この時代にはなんて時間がたくさんあるんだろう。これだけあれば、アリスを思う存分愛せられる。一日中一緒にいられる。あなたのことだけを考えればいいんだ。そうなったらきっと、なにも見えなくなる。アリス以外なにも見えなくなる。―――あなたを愛しすぎているから。誰にも奪われたくないから。わたしだけを愛して欲しいから」
こちらに向けられたクラウスの眼差しには、深い苦悩が宿っていた。
「オーヴルの気持ちが判るんだ、痛いくらいに」
黒い瞳は涙で潤み、助けを求めるように、アリシアを映しだしている。
「あれはわたしなんだ。240年後のわたし。アリスを刺すなんて許せない。だけど、わたしも同じことをしてた。アリスを失うなんて絶対に嫌だ。アリスが他の誰かを愛するくらいなら、殺してでもわたしだけのものにしたい。わたしだけを見ていて欲しいんだ」
血を吐くような告白に、アリシアは混乱する。クラウスの中に、こんなにも激しい思いがあったとは思ってもみなかった。
「こんなわたしを、あなたはどう思う? 失望、する?」
「……」
答えられないアリシアに、クラウスは泣きそうな顔で笑う。
「オーヴルに向かい合ったアリスを見て、胸が潰れる思いがした。もしもこの時代で出逢っていたら、あのままあなたとともに一緒にいたなら、愛されないのかって、どうしようもなく怖かった」
アリシアはクラウスの震える
「わたしは、なんだったんだろう。アリスの愛を受け入れられるだけの男だったんだろうか? 教えて欲しい、わたしの気持ちは、アリスには邪魔にしかならないものだろうか?」
「そんなわけないじゃない……!」
「オーヴルがわたしだったら、どうしてた? わたしとヴォル、どちらを選ぶ?」
「え……」
即答できなかった。
愛と信念、どちらを選ぶのだろう。
クラウスを裏切りたくはない。
けれど、自分を裏切るのはもっと嫌だ。
誇れる自分でクラウスを愛したいし、愛されたい。
「そう、か……」
なにも答えぬまま、クラウスは理解してしまう。アリシアは慌てた。
「でもクラウスはわたしを判ってくれるじゃない。ちゃんとわたしに居場所をくれたじゃない!」
「それは、240年前のわたし。この時代じゃ、きっとあなたを受け止められない。一方的に愛することしかできない」
「そんな……」
どうすればクラウスの絶望を止めることがっできるのだろう。
「ごめん」
なにもできず、ベンチで困りきるアリシアに、クラウスはこぼす。
「困らせるつもりで来たわけじゃなかったのに」
「だけど」
「いいんだよ。自分の気持ちに気付いて、まだ驚いてるんだ。大丈夫。わたしは、そんなアリスだから好きになったんだから」
「……」
「自分を貫くアリスでいて欲しいって思ってるのは本当だよ。オーヴルに負けなかったアリスを誇らしくもある。―――それでいいんだよ」
胸の内を、熱いなにかが満たしてゆく。
「……ヴォルを、選んだことも?」
アリシアは恐る恐る口にしてみた。案の定、クラウスの表情が曇る。
「あなたの苦しみを理解できるのはヴォルしかいない。あなたを救えるのは、あいつしかいない」
「本当は、いや、だった?」
アリシアを独占したかったと言っていたクラウス。
「当たり前じゃないか。あんな澄ました男、むかつくだけさ。いつも自分ひとり判った顔をしてる。オーヴルのほうが、どれだけ人間味があるか」
だけど、とクラウス。
「あいつの器は途方もなく大きい。わたしにはとても太刀打ちなんかできない。あいつなら、アリスを独りにしないと感じた。あいつなら、信頼できると思えたんだ」
「……うん」
「だからアリス。ここにいてはいけない」
「え?」
クラウスの声が、急に深くなる。
「生きることを諦めちゃだめだ。ここでわたしのところに来たら、いままでアリスが頑張ってきたことがすべて無駄になってしまう。一生懸命生きてきたことが、みんななくなってしまう」
「でも、だけどクラウス!」
アリシアは凝り固まっていた胸の内を吐き出す。
「わたしが生きていたら、他のひとにまで迷惑かかってしまうの! わたしのせいで、わたしの我儘のせいで、なんの罪もないひとが殺されてしまう! わたし、そんなの嫌! 堪えられないよ、もう!」
「そうならないような国を造っていくんだろう? エルフルトを、誇りある国にしたいんだろう?」
アリシアはやるせなく首を振る。
「わたしは、わたしでいたいだけよ……!」
「自分に恥じない自分に?」
「ええ」
「だったら簡単さ」
クラウスは軽く言う。
「諦めなければいい」
アリシアは顔を上げる。クラウスは小さく微笑んでいたが、その眼差しははっと息を呑むほど真剣なものだった。
「誰だって過ちを犯す。負けるときもある。わたしだっていつも連勝してたわけじゃない。情けない敗北もたくさん経験した。でも、そこで終わっちゃだめなんだよ。弱い自分のままで終わってしまったら、弱い自分しか残らない。這い上がらなければ、自分になんの誇りも抱けない。情けないまま卑屈になっていたくないでしょう?」
アリシアは瞬きもせず、クラウスの言葉を噛み締めていた。
「アリスはこのまま終わるつもりなんですか?」
「……」
「なんのために、ヴォルがいるんです」
ヴォルという名が、アリシアの中のなにかを目覚めさせた。
「あなたは同志に、情けない姿を最後に見せるつもりなんですか?」
アリシアは、ようやく小さく首を振ることができた。
クラウスのまとう緊張が、僅かに緩んだ。
「でしょう?」
「うん……」
切ない笑みが、唇に浮かんだ。
「あなたは、わたしの誇りでもあるんです。わたしの、希望なんです」
「ええ……」
「だから、ここにいてはいけない。わたしと、一緒にいてはだめだ」
「―――そう、……だよね……」
「あなたはやはり、素晴らしいひとだ」
長いためらいのあと頷いたアリシアに、クラウスは優しく包み込むように頬を緩ませた。
「ヴォルは、アリスを縛りつけたりしない男だ」
「うん」
「―――今度こそ、本当に、お別れだ」
「……ええ」
クラウスは、眼差しを深くする。
「いい顔している。アリスはもう、護られているだけの姫君じゃない。この時代のひとだ」
アリシアは軽く目を瞠った。
「それでいいんだ」
「あり……、ありがとうクラウス」
微笑んで頷くクラウスの姿が、次第に薄くなりだした。
「それでいい」
クラウスの身体ごしに、風にそよぐ花々が蒼天を背景に見える。
―――おれは弱い男さ。
頭の中でヴォルが呟く。
―――戦っていこう。
「あなたと出逢えて、幸せだった。ありがとう、アリシア」
「わたしもすごく、幸せだった。あなたを愛せてよかった」
クラウスは頷くと、そのまま風に溶けるように消えてしまった。
愛しさ、切なさ、哀しみ、優しさ、さまざまな感情の入り混じった瞳でじっとアリシアを見つめながら。
茫然とベンチで放心するアリシアは、どれだけの間そうしていたのか判らない。
気がついたとき、目の前にひとりの青年が立っていた。
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