四
本当は、幾つの夜がめぐったのだろう。
天窓から覗く小さな星空を見上げ、アリシアは切ない思いに襲われていた。
真夜中になると必ず目が覚めてしまう。それは強い緊張のせいかもしれないし、こんな事態を引き起こしてしまったという罪悪感のせいかもしれない。
規則正しいエノーヴェの寝息を聞きながら、奥深い胸の痛みにそっと手をやる。
いつかエノーヴェに言われた。王族は、貴族でさえもそうそう気軽に町に降りたりしない。それは庶民の暮らす町に興味がないためだと思っていたが、違っていた。
彼らは自分の安全圏を知っていたのだ。それを知らない者が不用意に飛び出ると痛い目に遭う。金目の物を狙われ、命を失ったり、持っている肩書きを利用するために誘拐される。
その落とし穴に、まんまとはまってしまった自分。
間違っているのだろうか。
エノーヴェを巻き込み、厳しく護衛してくれた者たちの命を奪ってまでするべきことだったのだろうか。
アリシアの中で、240年前の過去がよみがえる。
食事に忍ばされた毒に
父王はなにを思っていたのだろう。自分の起こした戦いに、不安を抱かなかったのだろうか。
アリシアには堪えられなかった。マルクの娘というだけで護られていた日々は、少なからずつらいものだった。割り切らねばならないと判っていても、死の恐ろしさを知っていたから、生きることの苦しさが身に染みた。
けれど、これは違う。
アリシアが自ら起こした行動についてきた結果だ。初めからあった現実ではなく、アリシア自身が選んだ現実。楽園のような華麗な生活に埋もれたくない自分が選んだ道。
間違っていたのだろうか。
なんの罪もない者たちを苦しめてまで、貫き通さなければならないものなのか。
「なにか言って、クラウス……!」
貫いたのは信念ではなく、我儘だったのか。
虫たちの声がかぼそく、窓越しに聞こえる。
ひとりきりで目覚める夜は、不安に潰されそうになる。
誰かの声が聞きたかった。
ひとの声がどうしようもなく恋しいけれど、部屋の隅に眠るエノーヴェを起こすことはできない。これ以上の我儘を重ねたくなかった。自分のとった行動を持て余していることが、情けなくてならなかった。
窓の下に小さくうずくまり、ぎゅっと歯を噛み締めるアリシアの耳に小さな音が飛び込んだのは、そのときだった。
はじけるように顔を扉に向けると、手燭の明かりの中、見知った顔が白く浮かんでいた。
「アリシア……」
アリシアの輪郭を、月明かりが縁取っている。その、茫然とした無防備な顔が、声をかけてきた人物に向けられた。
どうして彼が。
アリシアには何故、オーヴルがここにいるのかが判らなかった。
「どうして、こんなところに!?」
最初に胸に浮かんだのは、疑念だった。それは、オーヴルがエノーヴェを部屋から追い出し、ふたりきりにさせられたことではっきりとした疑惑へと変わった。
「あなたに逢いたくて」
「あなたが仕組んだことなの!?」
眠気などとうになくなっていた。
歩み寄るオーヴルの足が動くたび、アリシアはじりじりと
「どうして逃げるんです?」
オーヴルは、まるで歌うように問う。とろりとした眼差しは闇に輝き、薄気味悪い。ひと足ごとに揺れる幻想的な炎が、オーヴルの狂気に彩られた顔を照らし出す。
「町に降りていることを隠しているなんて、ひどいじゃないですか。わたしはあなたに逢うために、なにもかもすべてを
「な、ど、どういうことよ」
「あなたがいればいいんですアリシア。あとはなにもいらない。地位も、身分も。あなたが何者であっても、なにをしていてもいい。あなたを愛しているんです」
逃げまわるには地下室には限界があった。すぐにアリシアの背に、冷たい壁がぶつかる。
勝ち誇った微笑みを浮かべ、オーヴルが近付いてくる。
「来ないで」
「わたしが怖いのですか?」
「当たり前でしょ、なに考えてるのよ!」
オーヴルはほんの僅かな間をあけ、突然立ち止まる。
沈黙が、身体中に突き刺さる。恐ろしいまでに真面目な顔が頭上にあった。
「愛しているとでも、あの兄上を?」
身体が動かない。
「兄上を愛しているから、婚約をしたと?」
「だとしたら、どうするのよ」
「はッ!」
見透かすようにオーヴルは嗤う。地を這う低い声が、アリシアを縛りあげる。
「クラウス殿の指輪を肌身離さず首から下げているというのに? 兄上を愛していると?」
ぞくりとした。
夏が近いというのに、冷たい指がアリシアの胸元に伸びた。指先で軽くネックレスにかかる指輪を引き上げる。
(いや)
オーヴルは冷酷にアリシアを見下ろしていた。
「兄上はそんなにも、クラウス殿に似ているんですか。だから兄上を選んだ? 兄上にクラウス殿の面影を探して?」
指輪をもてあそぶオーヴル。
「違う」
「王太子だから?」
胸元にときどき触れるオーヴルの指先は、研ぎ澄まされ血塗られた刃となってアリシアを切りつける。
「違う……」
「だったらッ!!」
アリシアのうなじに熱い痛みが走った。オーヴルが腕を振り下ろすと、壁の隅で硬い音が鳴った。
「何故わたしじゃないッ!?」
首筋に手をやると、あるはずのネックレスの代わり、汗ばんだ肌が柔らかな弾力を返してきた。なくなった指輪の感触に、堰を切った恐怖が怒濤のごとく押し寄せてきた。
「どうしてあいつなんだッ!」
血を吐くようなオーヴルの眼差しとぶつかる。
動けない。
「兄上は毎晩、あなたのもとを訪れているそうじゃないか」
アリシアはただ、間近に迫りくる男の顔を見ることしかできない。
「この唇に、兄上は唇を重ねたんですか」
オーヴルの顔が近付き、数度触れたのち、吸いつき、硬く引き結ばれたアリシアの唇を舌でこじ開けようと舐めまわす。悲鳴は喉の奥で凍りついて、よじるような痛みになった。
オーヴルの手は髪の間を通り、首筋から肩、胸へと下りた。じれったげに胸を揉みあげた。
「やめ」
「兄上はあなたのこの身体に触れ、肌を合わせたのですか」
オーヴルの唇は、乳房をもてあそぶ手を追いかける。もう片方の手が、夜着のスカートを大きくまくり上げた。下着に、指がかかる。
「ッ!」
どこから力が湧き出たのか、アリシアは乱暴に腕を振りまわし、逃げ出した。
「開けて! お願い!」
叫んだはずなのに、声が出てこない。固く閉ざされた扉を叩くが、虚しい音が響くばかり。
「だして! ここからだして!」
(声……!)
声が、声にならない。助けてという強烈な思いはあるのに、身体が声を忘れてしまったのか。声というものが存在していることを喉が忘れてしまっている。
声が出ない。
「開きませんよ。わたしがいいと言うまで開けるなと言ってある」
驚くほど近くから聞こえてきたその声に、振り返ることすらできなかった。磨き上げられた扉に薄く映るオーヴルの影から、目を離せない。
背後から白い腕が現れ薄い夜着に伸びる。先程とは違い、柔らかに強く、腰を引き寄せられる。
「愛しているんです。あなたといられるのなら、王族を棄ててもいい。太祖の娘が欲しいんじゃない、アリシアが欲しいんだ。あなた以外、なにもいらない」
甘い言葉に抱き締められても、恐怖に
「あなたの笑顔が好きだ。ずっと、微笑んでいて欲しい。つらい思いはさせない、あなたを苦しめるすべてから守ってあげる。神かけて、あなたを幸せにする」
熱い吐息が首筋をくすぐる。
「逃げよう、ふたりで」
はっとした。
冷水をかぶったようにアリシアは自分の置かれている状況を思い出す。腰に巻きつく腕は、蛇のように身体を締め付けている。
「逃げる、どこへ」
喉が、硬い声を生む。
「デュロワの町に、安全なところがある」
「なにそれ」
「兄上と一緒にいても、つらい思いをするだけ。わたしと一緒に来れば、ガラルヘルムの保護が得られる。なにも心配はいらない」
夢見るようなオーヴルに、恐怖を破る怒りを覚えた。
「なにも、……なにも判ってないじゃないッ!!」
アリシアの怒声に驚き、オーヴルの腕が緩んだ。アリシアは隙をつき、転げながら逃げ出した。月明かりのもと、オーヴルは茫然としている。
「何度言えば判ってくれるの!? 何回言えば頭に入るのよ!? わたしは! わたしは逃げるために婚約したんじゃない!」
オーヴルの持ち込んだ手燭を乱暴に奪い、その先を自分の胸へと突きつけた。炎がちぎれるように消え、あたりは一瞬闇に呑まれた。
「!」
「戦うために婚約したの! 自分に負けないためにヴォルの申し出を受けた! わたしはわたしでいたい! それを無理にでも押さえつけられるのなら、死んだって構わない!」
「やめ、ないか。莫迦なことをしないで」
オーヴルの声は震え、薄い月光を浴びて伸ばされた腕が行き場を失う。指先が宙をさまよっている。
「あなたはずっとわたしに『アリシア』の理想を押しつけてる。どうしてこのわたしを見てくれないのよ!」
「押しつけてなんかいない」
「だったら逃げようなんて言うわけないじゃない!」
オーヴルは目を瞠る。
「欲しいのは、恋愛じゃない! 恋愛がしたくて婚約したんじゃない! 自分がすべきことから逃げ出したくないから、甘えたくないから、だから!」
「……兄上を、愛してはいないと?」
いま初めて気付いたかのような口ぶりだった。
「愛がなくても結婚は成立する。ロシーヌがいい例じゃない」
ロシーヌとクラーク公爵のかわした婚約は、純粋に政治的なもの。恋愛は、別に愛人を作れば済む。
「愛してもいないのに、兄上と?」
「わたしを責める気? あなたに愛を誓った覚えもないのに?」
「ア……」
「わたしの姉はね、みんな、顔も知らない男のもとに嫁いだの。そこで命を落とした姉もいた。そういう時代だった。国のために男は戦場、女は城で命を張った! わたしだって、その覚悟がある! 色恋に浮かれる生き方なんてしないのよ!」
「そんなつまらない人生を送れるほど魅力的な男なんですか、兄上は……」
脱力したようにオーヴル。アリシアは、彼を哀れだと思った。
「魅力的だとか、そういう問題じゃない。わたしはエルフルトを愛したい。誇りに思いたい。わたし自身が生きていけるような国であって欲しい。その国を作っていけるのがヴォルだと感じたから。ヴォルの生き方なら、この国を救えると思ったからよ。―――これ以上、エルフルトを堕落させたくないから」
「……どうしてそんな、難しいことを考えるんです」
すっと伸びた腕に、アリシアは手燭を握る手に力をこめる。オーヴルはゆっくり首を振る。
「手燭をこちらに」
「扉を開けさせて」
「だめだ」
「城に返して」
「いやだ。兄上のもとには行かせない」
その声に、狂気の片鱗が再び顔を覗かせた。
「結局、あなたにはなにを言っても無駄なのよ。あなたには理解できないのよね。判りあえることなんかできっこないのよ」
「できる。あなたを愛しているから」
「できるわけないわよ! 愛してる愛してるってわめいてこんな莫迦な真似して、夢見てるだけじゃない! なにも判ろうともせずに!」
「判ろうとしないのは、あなたでしょう!」
「愛し合ってても結婚はできないのよッ!!」
アリシアの悲鳴にオーヴルは言葉を奪われた。
青白い沈黙の中、ふたりは見つめあう。
「夢みたいなこと言ってるんじゃないわよ。子どもみたいなあなたを誰が好きになるっていうの? いい? 断言してもいい。わたしは、絶対あなたを愛したりなんかしない。あなたみたいな自分勝手なひとに恋愛感情抱くくらいなら、死んだほうがずっとましよ!」
アリシアが胸に手燭を振りかざしたとき、
「―――うあ」
オーヴルの喉から音が漏れた。その音が一瞬やんだあと、
「あああああッ!!」
突然髪をかきむしり、オーヴルは悲鳴をあげた。あまりのことに、アリシアは自分の身体に手燭を突き刺そうとしていたことも忘れ、茫然と目の前の男を見やるしかなかった。
床に倒れこみ、苦しげにもがくオーヴル。
なにが起きたのか、理解できない。
「男爵!?」
静寂を守っていた扉の向こうから、聞いたことのある声が慌てふためいた。
「いかがなされました!?」
「―――スラーティ!?」
聞き間違うはずがない。この1ヵ月、ずっと付き従っていてくれた護衛官の声を忘れるわけがない。
「あなた、なの!?」
聞き慣れた声が何故『男爵』とオーヴルを呼んだのかという疑問すら浮かばず、アリシアは驚愕のまま問い返した。
息を呑む気配がした。どうしてアリシアの正体を知られていたのかも、秘密裏の旅に計画的な賊が襲ってきたのかも、幾重もの暗い幕が落とされるように謎が解けてゆく。
「開けなさい!」
怒鳴ると、扉の向こうから戸惑う空気が伝わる。
「オーヴルがどうなってもいいの!?」
「開けるなッ!!」
獣が咆哮するような凄まじい勢いで、オーヴルは傲然と立ち上がった。月明かりを受けぎらぎら光る眼は、燃え
「渡さない……!」
背筋が凍り、目を見開いたまま瞬きひとつできない。
「誰にも、誰にも渡すものか」
一歩一歩近付くオーヴル。右手には抜きはなったひとふりの短剣。アリシアはその凄まじい形相に乾いた唾を飲み込んだ。
「ヴォルに渡すくらいなら、この手で……」
拳ひとつぶんをあけ、震える切っ先はアリシアの胸を狙っている。
「ころすの?」
思ったよりもはっきりと声が出た。間近に迫ったオーヴルの頬が、ひくんとはねた。
「だったら殺せばいい。わたしの生き方が気に食わないなら殺せばいいわ。あなたに迎合する気なんかこれっぽっちもないから!」
アリシアの手から重い燭台が床に落ちる。蝋燭が折れ、足元に散らばった。オーヴルは憎らしげに蝋を踏みしめる。
「どこまでわたしを、拒絶すれば気が済むんだッ!」
アリシアはそっと目を閉じ、その時がくるのを待つ。
静かなその態度に、オーヴルはいっそう激高した。
「クラウス殿がいるから覚悟ができていると!? クラウス殿に兄上! わたしの名前がどこにもない!」
「男爵? 男爵、なにをなさるおつもりです!?」
室内の異変を感じ取ったか、スラーティが緊迫した声を投げかける。
「向こうに行ってろ! わたしが許可するまでなにがあっても開けるなッ!」
血走った目が、かすかに和らぐ。
「わたしのものだ……」
左腕を、息をつめて扉に背を預けるアリシアへと伸ばす。後頭部を柔らかく抱き、引き寄せられた唇に己のそれを重ねる。
アリシアの抵抗はしかし、
「!」
左胸に生まれた焼つく痛みに阻まれた。
かっと見開かれた目は、間近すぎてオーヴルの表情を捉えられない。
震える手をやると、左胸からおびただしい血があふれている。
そこからなにもかもが流れ出てゆく。
驚きも、つらさも、寂しさも、相も、喜びも。
ぬるい流れが、足元に海をつくる。
身を貫く痛みに堪えるアリシアを、嬉しそうにオーヴルが抱き締める。
「わたしだけのものだ……」
強く抱き締めるオーヴルの腕に力を搾り取られてゆく。立っていることすらできず、己を刺した相手に寄りかかるしかできないアリシア。
「―――」
耳元でなにかを言われている。それなのに、言葉の内容が判らない。
荒い呼吸を繰り返すたび、喉の奥が音をたてた。
月光に部屋は照らされているはずなのに、真っ暗な闇に、視界は塗りこめられていた。
死ぬのだと、漠然と己の未来を予感した。
締め付けられる苦痛とどこか異様な解放感の中に、アリシアはいた。
もういいんだと、そんな思いが顔を覗かせた。
もう充分、頑張った。
だから、いい。
このまま流れ出す力に身を任せれば、自分の起こした行動に悩むことも、生きる苦しみからも解放される。
悪魔の囁きに引きずり込まれ、アリシアは抵抗できない。
オーヴルに大きなことを言ったが、本当はものすごく、疲れていた。
本当は逃げたくてたまらなかったのだと思い知った。
なんて弱いのだろうと、アリシアは己の弱さを恥じた。それでも、もう戦う気力が残っていない。
エノーヴェを守らなければという思いがふつりと切れ、ただもう、なにもかもが億劫になった。
人間は、簡単に死んでしまうのだ。アリシアは思った。
もういいと、諦めともとれる言葉が浮かぶ。
オーヴルと逃げることはできない。自分を曲げるくらいなら、敢えて死を選ぼう。
クラウスの待つ世界に行けるから。
そう考えれば、死はちっとも怖くない。
いつしか目の前に、あの花の宮の地下で眠るクラウスが現れている。
骨だけとなったクラウスの身体が、少しずつ肉で盛り上がり、別れたときと変わらない姿になった。閉じていた瞼が静かに持ち上がり、柔らかにこちらを向いた。
だがアリシアは、責めるようなその瞳に駆け寄ることができない。
―――戻ってきてくれるだろうか。
ふいに、ヴォルの声がした。
クラウスの姿が掻き消え、花園で語り合ったヴォルが浮かび上がる。
―――異端が、必要なんだ。
ああ、と思った。
(また、置いて行ってしまう……)
―――戻ってきてくれるだろうか。
ヴォルの言葉を、裏切ってしまう。
いつかのクラウスのときのように、自分はまた、大切なひとをひとりきりにさせてしまうのか。
激しい後悔と迷いが、アリシアの中に生まれた。
だが、それすらも呑み込む闇が、アリシアの意識を深い深い深淵へと引きずり込んでいった。
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