ヴォルは、ラデューシュのもたらした報に椅子を後方に跳ね飛ばした。書類の散らばる机に手をつき、食いつくように目を剥いた。

「何度も確認させましたが、返ってきた答えは同じものでした」

「莫迦な……」

 一瞬、自分がどこにいるのか判らなくなった。僅かな自失のあと、ヴォルははっと我に返る。ラデューシュは黙ってヴォルの反応を待っていた。

「詳しく教えろ」

「アリシアさまが4日前にヴィエナを出発なさったのは確かです。予定では2日後にコクトーに入っているはずなのですが、確認がとれていません。それらしき旅人も現れていません。その代わり、シェシー河で姫の護衛官らしき遺体が浮いていたのを地元の者が発見しております」

「シェシー河だと? コクトーと正反対じゃないか」

「ええ。見つかった遺体は皆、目と喉を矢でやられているそうです」

 ヴォルは耳を疑った。

「なんだそれは」

「わたしに訊かれても困ります。見つかった遺体は5体。争った痕跡はありません」

「銃ではなく、矢で」

「遥かな姫に合わせたんでしょうかね」

「ラデューシュ!」

 厳しく言うと、ラデューシュはきまり悪そうな顔をした。

 銃を使わず矢を持ってきたということは、音を気にしていたことを意味している。そして、近距離から襲われたものではないということも。

 アリシアにつけた護衛官たちは皆、精鋭ぞろいだ。8人つけさせたうちの5人が同じような死に方をしている。残りの3人はなにをしているのか。アリシアは無事なのか。

「アリシアが街に下りたことは、一部の者しか知らないことなのに」

「そうはおっしゃいますけど殿下。姫の性格を思えばわたしはひと騒動あると思ってましたけど。あの方、ご自分の立場が理解できていらっしゃらないんですから、王政の反対派に目をつけられたのかもしれませんよ?」

「口が過ぎるぞラデューシュ。冗談言ってる場合か」

「冗談ではありません。充分考えられることです」

 ヴォルは脱力し、椅子に倒れこんだ。がくりと重たくなった頭を、震える腕で支えた。

 己の指先のあまりの冷たさに、受けた衝撃の大きさをあらためて思い知る。

「―――犯人の目星は?」

「残念ながら」

「無能だな。アリシアの行方の手掛かりは?」

「それもまったく……」

 語尾を濁らせたラデューシュに、ヴォルの眉が跳ね上がる。

「まったくなんだ。最後まではっきり言え」

 ヴォルの低い声に、ラデューシュは内心震え上がった。ヴォルの全身から、凄惨な青白い炎が揺らめいていた。

「なんの手掛かりも摑めておりません。なにしろ極秘に行っておりますので」

「言い訳をするな!」

 硬い木材から作らせた重厚な机が大きな音をたてた。ラデューシュの身体がこわばる。固く握られたヴォルの拳の下に、倒れたインクが黒く流れを作った。

「いなくなったのは誰なんだ!? 護衛官を殺され、行方不明になったのは、いったい誰なんだ!?」

「アリシアさまです」

 ラデューシュの声は、消え入るほどに細い。

「極秘事項だからなにも判らないなどぬかすな。これまで好き放題遊び惚けていたくせに、肝心なときになにもできないだと!? 自分の役目を果たせもしないで言い訳か!」

「申し訳、ございません」

「くそッ」

 黒く染まった拳が、再び机に叩きつけられる。丈夫な装丁の本の角にあたり、皮膚が破れた。痛みなど微塵も感じなかった。

 ヴォルは苛々と視線を泳がせる。

「コクトーを中心に徹底的な捜索をしろ。オーヴルと貴族どもの動向にも注意しておけ。怪しい動きがあるはずだ」

「はッ」

「今度は見失うな」

「承知いたしました」

 普段とはまったく違う、芯の通った声を残し部屋を去ったラデューシュに、ヴォルは複雑な思いで大きく息を吐きだした。

 右手ばかりが熱い。

 アリシアは無事だろうか。ようやく見つけた同志の安否が気遣われる。

 あなたのもとに戻ってくると言ったいつかのアリシアを思う。彼女の言葉と重なるように、アルウォー卿の言葉もよみがえった。

 ―――正しい判断ができなくなってからでは遅いですからね。

(それが正しいかどうかなんて、いったい誰が判るというんだ)

 多忙な一日の終わりに見つけた、アリシアとの時間。ほんの僅かな時間でも、ヴォルの緊張はほぐれていった。

 もう二度と、それを得ることはないと考えることは、ひどく恐ろしかった。



 誰のめいによって襲われたのかは判らなかったが、なんのために襲われたのかは判っていた。賊が狙ったのは、アリシアの持つ『太祖の娘』という肩書きだ。

 そうでなければ、囚われてこんな丁重な扱いを受けるはずがない。

 閉じ込められているのはどこかの地下室らしい。ときどき遠く鐘の音が聞こえるので、町の近くだとは思う。高い天井の上部には、明かり取りの窓が嵌められている。手の届く場所にはなかったが、降り注ぐ白い陽光は、極度の緊張を幾らか和らげてくれた。部屋は広すぎず狭すぎず。武器になりそうなものはないものの、一応の調度は揃えられていた。粗末でない食事も、ちゃんと出されている。

「1週間は経ちましたね」

 手持無沙汰にエノーヴェ。彼女と一緒なのは、本当にありがたかった。

「どうして、なにもないのでしょう」

「なにかあったほうがよかった?」

「いッ、いいえ、とんでもありません!」

 エノーヴェの言うように、あの突然の襲撃から1週間ほどが経っていた。正確に言うと、目が覚めてから、となる。どういうわけか、その間、敵の姿は見えないものの、身の安全はもとより、ほとんど普段と変わらない毎日が続いている。

 なにかを待っているのだと、アリシアは気がついている。

 正体の知れない敵は、なにかが起こるのを待っている。おそらくは、―――ヴォルの反応を。

 ヴォルは、どうするのだろう。

 これまでひとりでやってきたヴォルは、自分を切り捨てるだろうか。

 動くべきか、待つべきか。

 なにをすればいいのか判らない。

 一瞬にしてアリシアたちを攫った賊を思えば、アリシアがなにをしても太刀打ちできるわけがない。同じような粗末な衣服なのに、彼らはエノーヴェをアリシアと間違わない。

 賊の後ろに、誰かがいる。

 こういうときどうすればいいのか、情けないことにアリシアは知らなかった。



 ヴォルはいつも颯爽と歩く。

 わけの判らない難しい仕事を幾つも抱え、毎日王宮を風のように歩いている。

 大噴水を背景に、新鋭画家に肖像を描かせていたロシーヌは、庭を横切るヴォルを見つけた。

 2ヵ月ほど前に突然太祖の娘と婚約を交わした王太子は、皆の予想を裏切り、相変わらず仕事に追われる忙しい毎日を送っている。他人事ながら、あんな男の妻になるアリシアに内心同情すら感じていた。

 あら、と思う。

 そういえばここしばらく、アリシアを見ていない。変人アリシアも、さすがのヴォルに愛想をつかして逃げたのかもしれない。

「相変わらず忙しそうね、ヴォル兄さま」

 皮肉を込め、近くを通るヴォルに言うと、彼はうざったそうな目をこちらに向けた。画家は一歩下がり、典雅な礼をとった。

「相変わらずお前は暇そうだな」

「あら。充実した時間を送っていてよ?」

「それで。なにか用か?」

 仏頂面のヴォルに、ロシーヌは呆れる。

「ヴォル兄さまって、ほんとつまらない。用がないと声をかけちゃいけないの?」

「できればそうしてもらいたいな」

「まったく。こんな堅物相手じゃ、アリシアだって逃げたくもなるわよ」

 止めていた足を南階段のほうへ向けるヴォルに溜息とともに漏らすと、気に障ったらしく、

「なにか言いたいことがあるみたいだが?」

 わざわざこちらに向き直ってくる。

「なにか聞こえまして?」

「ありがたいことにおれの耳は、水音とひとの声を聞き分けることができるもので」

「それはようございました」

「はぐらかすつもりか。―――まあいい。せいぜいそこで気取ってろ。陰口の天才に聞き直すほうが間違ってたよ」

「ま。ずいぶん機嫌が悪いみたい。オーヴル兄さまみたいに失恋したわけでもないのに」

 暗に、アリシアを匂わせる。

 ヴォルの顔にはなんの変化もない。まったくこの男には、なんの面白味もない。仕事だけが生きがいの冷徹人間が自分の実の兄だと思うと恥ずかしくなってくる。ヴォルこそがエルフルトの恥だとしか思えない。

「もう行ってくださらない? アリシアのことはオーヴル兄さまに任せて、大好きな仕事に精でも出してくださればいいのよ」

「なんだそのオーヴルに任せる、というのは」

 オーヴルの名に反応を見せたヴォルに、ロシーヌの好奇心がうずいた。

「あら。気になります?」

「いまの発言は聞き捨てならないな」

 ロシーヌはにんまりと小悪魔のような笑みを浮かべた。初めて嫉妬らしきものを見せたヴォルに、優越感を覚えながら。



 突然の来訪者に、侍従ウィガーシュ・ラダルヌは驚きを隠せないでいた。

「オーヴルはどこだ!?」

 鬼気迫る顔で詰め寄るのは、他の誰でもない王太子ヴォルそのひとだった。

「オ、オーヴルさまですか?」

「ギュクートは向こうを、クルーフは2階、デューレンは3階を探せ!」

 ラダルヌが言葉を詰まらせる間に、ヴォルは部下に指示を飛ばす。彼らは短い返事を返すと、無駄ひとつない動きで屋敷に散らばってゆく。

「早く言え! この耳はお飾りか!?」

「あの。いったいこれはなんの騒ぎで……?」

「貴様!」

「殿下ッ」

 いまにも殴りかかろうとするヴォルの肩を、ラデューシュが慌てて止める。

「暴力はいけません、相手はご老人です」

「老人だと? こいつも仲間だったらどうする!」

 ラダルヌは僅かに顔色を変える。ヴォルはそれを見逃さない。乱暴に胸倉を摑みあげ、怒りに血走った眼を突きつける。

「口止めされているわけか。つまりは、オーヴルはいないんだな!?」

「殿下。事情だけでもお教えください。突然のお越しでこのような振る舞いをされては、なにがなにやら」

 ラダルヌの懇願は、言い逃れにしか聞こえない。ヴォルはラダルヌを床に放ると、怒りにたぎる眼差しをラデューシュに向けた。ラデューシュは身体をこわばらせた。

「どういうことなんだ、これは」

「あの。……、まったくもって、申し訳、ございません」

 しどろもどろなラデューシュに、ヴォルの怒りが爆発する。

「密偵はなんと言ってたんだ!? オーヴルは別邸に籠ったままだと報告してきたんだろう!?」

「はい……。申し訳ございません」

 うなだれるラデューシュが憎らしい。

「謝れば済むと思ってるのか!? オーヴルが一番怪しいと判ってたろう!!」

 ラデューシュに怒鳴りながらも、自分自身が一番腹立たしかった。

 アリシア失踪の報に、真っ先に思い浮かんだのがオーヴルだった。

 ずっとアリシアを想っていたオーヴル。ヴォルとの婚約で自暴自棄になっていたことを知っていた。それとなく本人に探りを入れたが、アリシアが町におりていること自体知らない様子だった。だから、気にはしつつも別方向に照準を合わせたのに。

 そんな自分が悔しくてならない。どうしてロシーヌに言われるまでオーヴルが最近姿を見せないことに気付かなかったのか。

「くそ……!」

 額をきつく摑む右手には、完全に癒えていない傷がある。皮膚の中にインクが染みこみ、黒い色素が残ってしまうだろう。

 苦悩するヴォルに追い打ちをかけるように、各階の捜索が無駄に終わったことが告げられた。

 倒れこみそうになるのをこらえ、ヴォルは他の使用人を当たった。ラダルヌが口を割るとは思えない。だが、ひとりくらいは口の軽い者がいるはずだ。少し脅せばなんでも喋るような、いい加減な人間が。

 目当ての者が見つかるまで、ヴォルはオーヴルの部屋を探した。なにか手掛かりとなるものが残っているかもしれない。

 オーヴルの部屋は、3階の東翼端にあった。壁に掛けられた金の額縁の中で先々代の王が厳しい視線をこちらに投じている。反対側の壁には書棚があり、茶色く古ぼけた背表紙に金の文字が並んでいた。女神テセオラの胸像の前の小卓には、陶製のオルゴールが置いてある。ヴォルとラデューシュは写本の誤字を探すように丹念に部屋中を探した。

「殿下」

 暖炉を調べていたラデューシュがヴォルを呼ぶ。

 ラデューシュは、暖炉の中から1枚の紙切れを手渡した。手紙の燃えさしらしい。ところどころに文字が見える。

「オーヴルを呼び出してる。速やかに……」

 ヴォルは焦げついた手紙をためつすがめつ判読を試みる。

「……ガル、ガルー、ガラ。―――これだけじゃ判らない」

 僅かに残った手紙は、肝心の場所を表す単語が、途中で灰となっている。

「他になにかないか」

「残念ながら」

 ヴォルは頭の中に地図を広げる。ガル、もしくはガラから始まる地名を探す。ステン山中腹にあるのがガルマエル。ケリビリム湖に面しているのがガルーメイン。セセッツ県にあるのがガラーツェン。メソレ県とディグス県の境にあるのがガルート。クレイフルト県にはガラルヘルムがある。

 いったい誰がオーヴルを呼び出しているのか。オーヴルの単独行動ではないとすれば、誰がその背後にいるのか。

 敵はあまりにも多すぎて、ヴォルには特定ができない。ガル、ガラから始まる地名に関係している者は誰だ。

 ヴォルの頭脳が凄まじい速さで回転する。情報と情報を照らし合わせ、知識と知識をぶつけ合う。

 ややして弾き出された人物は、8人にのぼった。それでも多すぎる。

「殿下。クルーフが見つけたそうです」

 ラデューシュの声にその視線を辿ると、クルーフの隣に怯えた目をした若い娘がいた。

「よくは判りません。ですが、ここ最近妙にガラルヘルムからの使者が続いていたんです」

「ガラルヘルム」

 ヴォルの眼がかっと見開かれる。ガラルヘルムとは、国教でもあるロッシュ教の法王がいる町だ。町の名前であると同時に、ロッシュ教法王庁を指す場合もある。

「ガラルヘルムに間違いないんだな!?」

「あの。本当に父の治療費を出してくださるのですか……?」

 答える前に娘は確認をする。オーヴル付きの給仕を勤めている若い彼女の父親は、重い病気だという。上目遣いの瞳に、かげがかかっていた。

「嘘を言ってどうする。どうなんだ、間違いなくガラルヘルムなんだな!?」

「はい」

 娘のはっきりした肯定に、ヴォルはすべての事情を理解した。

「オーヴルがガラルヘルムに発ったのはいつ頃だ」

「1週間ほど前です」

「早馬でか」

「それは、……判りません」

「よし」

 ヴォルは深く頷く。

「この娘の父親のもとにリューンをやれ。文句を言ったら酒を取り上げておれの厳命だと言っておけ」

 床几から立ち上がりざま、クルーフに命じる。典医リューンはかなりの酒好きだが、その腕は信頼に値する。

「彼女の保護も頼む」

「はッ」

「行くぞラデューシュ」

「は、はいッ」

 ラデューシュは慌てて後を追う。失態を重ねた自分に声がかかろうとは、正直思っていなかったせいだ。

「どう思う、オーヴルは早馬を使ったろうか」

 難しい顔を正面に向けたまま、ヴォルは背後に問う。ラデューシュは知る限りのオーヴルを思い出す。

「いえ。きっと馬車かなにかを使われるでしょう。オーヴル殿下は騎乗するような方ではありません」

「だろうな。とすれば、ガラルヘルムに入るか入らないか、だな」

「一応、馬車寄せを確認してきます」

「頼む」

 走り去ったラデューシュを、エントランスホールでしばらく待っていると、馬車寄せに向かったとき同様、ラデューシュは駆け戻ってきた。肩で息をするラデューシュの懸命さに、ヴォルの表情はかすかに緩む。いつも澄ましている男が髪を振り乱す姿は、どこか滑稽だ。

(おれもはたから見れば、滑稽に映っているんだろうな)

「どうだ?」

 内心を隠し、額に汗をにじませる部下に訊く。

「馬車は揃ってます!」

 愕然とした声で告げたラデューシュに、ヴォルの表情が凍った。

「オーヴル殿下は、自ら早馬にまたがったそうです!」

「なんでこんなときに……!」

 忌々しげにヴォルは吐き捨てた。

「行くぞ! 時間がない」

「御意ッ!」

 疾風のように消えた彼らを、床にへたり込んだラダルヌは、ぼんやりと眺めやるばかりだった。



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