まるで別世界だった。

 雨に濡れた石畳には汚物とゴミが絡まりあい、路面に弾む雨粒を飲み込んでいる。その中で、ぼろきれを被った若者がぼんやり座り込んでいる。

 別の町では、次第に厳しくなる陽光に素肌をさらし、道行く人々の誰を獲物にしようかと目を輝かせる子どもたちがいた。

 次の町には、華やかなドレスに身を包む貴婦人がいるかと思えば、馬車に轢かれた犬の死骸に群がる者たちがいる。

 古びた小さな箱馬車に揺られながら、アリシアは貧困と戦う市民たちの姿を胸に焼き付けていった。ときには馬車を降り、自らの足で崩れた石畳を歩いた。数名の護衛官がそれとなくアリシアのまわりを固めているとはいえ、民たちが突然現れたアリシアになにをするかは判らない。アリシアも町の人々と同じような粗末な恰好をしてはいるが、馬車を使えるのは金に余裕がある者に限られているので、同類には見られていないだろう。

 ヴォルは以前二度の内乱があったと言っていた。おそらくその跡だろう、建物の外壁が一部崩れているものが見えた。砲弾が当たったのか、修復もされないまま、石壁の一部は既に風化していた。すがすがしく晴れ渡った空を横切る鳥の声が、人々の生活の荒廃を際立たせていた。

 重たい吐息しか出てこなかった。

「これが、エルフルトなんですね……」

 アリシアの気持ちを代弁するかのように、エノーヴェはもらした。

「信じられません」

 硬いその声に、アリシアも頷く。

 有力者の家の窓から降る食べ残しを期待してその下にたむろする者たちが、場所争いか、喧嘩をはじめた。獣が吠えるような荒々しい男たちの声に子どもの声も混ざっていた。路地から表通りに弾き出された枯れ木のような老人の身体が、そのまま通りかかった二頭立ての馬車にはねられてゆく。

 思わず駆け寄ろうとしたアリシアの腕を、控えていた護衛官スラーティが止める。摑む腕の先を見上げると、彼は眉根を寄せ、首を振った。

 老人を轢いた馬車はアリシアの目の前を通り過ぎ、車輪に血の跡を引きながら、いびつな音を立てて道の向こうに消えた。

「なんてところなの……!」

 爆発する腹立たしさに、目頭が熱くなった。

 どこかで赤ん坊の泣く声が聞こえた。

 これが、エルフルトの現状なのだ。


 アリシアが王宮を出て、ひと月が過ぎようとしていた。

 ヴォルとの結婚式まで2ヵ月を切った。もうそろそろ、城に戻る頃合いだった。

 予定では、次のコクトーの町が最後である。ここにはかつて砦があった。コクトー城塞は、240年前最も激しい戦闘が行われた場所だったが、さすがにいまは見る影もない。ただ、街道から顔を覗かせる塔の先端が、年老いた賢者のごとく街を見下ろしている。

「ずいぶん古い塔ですね」

 馬車の外を覗いたエノーヴェが感心して言った。

「240年は経っているから」

「では、アリシアさまがいた時代からずっと?」

「ええ。このあたりで激しい戦闘があったらしいわ」

「いまはとても静かな場所なのに」

 アリシアはエノーヴェを真似て窓の外を見た。

 初夏色の木々の枝の向こうに、夕日に赤く染め上げられた塔が見える。大地に染みこんだ兵士たちの血を吸い上げたような紅の色は、アリシアの胸に懐かしさをよみがえらせていた。

 馬車は長い森を終えようとしている。この調子なら、日が完全に落ちる前にコクトーに入れる。

 騎乗する護衛官たちの緊張が緩むのは、仕方のないことだった。

 アリシアの耳に突然、いきりたついななきが聞こえた。馬車が大きく揺れ、にわかに緊張が走った。

「!?」

 馬車のそばでなにかが倒れる音が続いた。空気を切る音の直後、近くでなにかがどさりと落ちる。

 それが護衛官たちが矢に倒れた音だと気付くのに時間はかからなかった。

「ア、アリシアさま……」

 エノーヴェの身体が震えている。

「ただの賊じゃなさそう」

 声もなく護衛官が倒されてゆく。アリシアはエノーヴェの肩を抱き、床に身をかがめた。

「ど、どど、どうすれば、いいいのでしょう……」

「―――判らない。でも、逆らわないほうがいいと思う」

 喉の奥が痙攣したように震えている。

 賊たちの声はない。突然、扉が外から開けられた。

 その荒々しい音に顔を向けた途端、急に目の前が真っ暗になった。

 エノーヴェの小さな悲鳴を耳が拾ったところで、もうなにも、判らなくなった。



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