【第五章】



 ふたりの婚約は、人々に大きな衝撃を与えた。

 娘を王太子の妃にと目論んでいた貴族たちはもとより、その当事者である多くの娘たちは突然の展開に度肝を抜かれた。いくら変人扱いされていても、ヴォルの血統はやはり由緒正しく、権力に目がない者たちにとって垂涎の的だったのだ。

 婚約発表の席となった舞踏会での愕然としたオーヴルには、さすがに胸が痛んだ。

 あなたはわたしを裏切ったのか。彼の眼はそう語っていた。

 オーヴルを裏切るつもりはまったくなかった。けれど、そう取られてもおかしくない。彼の愛を拒絶した直後の婚約なのだから。青ざめた顔は硬く凍りつき、逃げるように広間を出て行ったオーヴルの姿が、アリシアの胸に強く焼きついている。



 ヴォルとの婚約は、アリシアの環境を一変させるものだった。

 これまでアリシアの言動を嘲笑っていた者たちの一部が宗旨替えをし、なにかにつけて賛同し始めた。

 その変わり身の早さに、アリシアは権力におもねる貴族たちの愚かさを見た。常に高位の者の顔色を窺い、甘い汁をすすろうとする狡猾さ。彼らもまた、『王太子の婚約者』という肩書きをしか見ない、虚栄に溺れた者たちだった。

 彼らにはなにもない。自分というものを持たない彼らの言葉はただ虚しく、耳を通りすぎるだけ。なにも判ろうとしない彼らのお為ごかしは、アリシアを苛立たせた。

 無理をしてアリシアの真似をするその姿はみっともなく、情けなかった。

 誰かに真似してもらいたくてヴォルと婚約したわけではない。自分の存在を保証してくれるものが欲しかっただけだ。

 遥かな姫はうまく王太子を篭絡したものだという陰口のほうが彼らの真実なのだと、痛いほどに判っていた。

 見返りを期待するご機嫌伺いに、自分の部屋にいても静かな時間を持てない毎日が続いた。

「街を、まわってみたいの」

 遅い時間、部屋にやってきたヴォルに、アリシアは切り出した。一日の仕事を終えたヴォルは時折、アリシアの部屋を訪れ、その日の感想を語ったり、なにをするでもなく、アリシアの愚痴やら意見を聞いたりしている。

「何故?」

 軽い飲み物を用意したエノーヴェが、静かに部屋を出て行った。ヴォルは花蜜はなみつと水で割った果実酒に手を伸ばした。

「なにか、休まらないのよ。ここにいるとお追従ばかり言われて、頭が変になりそう」

「それだけじゃないだろ?」

 さすがにヴォルは鋭い。アリシアは背もたれに背中を預ける。

「エルフルトを知りたいし、ここにいちゃ、判るものも判らないでしょ?」

「また襲われるかもしれないのに?」

「それは……、でもやっぱり、知るべきだと思うの。エルフルトの真実を知りたいの」

「真実ね。あなたはほとほと『真実』が好きなんだね」

「なによ。いけない?」

 呆れたように言われ、アリシアは内心むっとなる。ヴォルは小さく肩をすくめた。

「いけなくなはい。あなたは真実はつらいものだってこと、ちゃんと判っているから」

 ヴォルは疲れのにじむ目を天井に向け、大きく息を吐いた。

「戻ってきてくれるか?」

「え?」

「街に下りたままってこと、ないよな?」

 意外なヴォルの弱い言葉に、アリシアは驚いた。

「どうしたの、いきなり」

 問うと、恥ずかしそうにヴォルは笑う。こんな自然なヴォルは初めてだった。

「酔ったかな……」

 だが、アリシアはヴォルが酒に弱くないことを知っている。心配そうなアリシアに、ヴォルは力なく首を振った。

「莫迦なことを言った」

「なにかあったの?」

 ヴォルは一瞬口をつぐんだ。言うか言うまいか、迷っている様子だ。

「言いたくなこと……?」

「……アルウォー卿がうるさくて」

 アルウォー卿という名を、アリシアは頭の中に探す。確か、高等法院長とグレ区の巡回裁判長を兼ねる男だ。爵位は伯爵だったか。その彼がどうしたというのか。

 ヴォルは勢いをつけてグラスをあおる。

「あなたが、偽者だと」

「偽者、って?」

「あなたが『太祖の娘』である証拠はどこにもないと言われた」

「?」

「240年前になにがあったのか、知る手立てはないと」

 アリシアは茫然とヴォルの言葉に耳を澄ませる。

「あなたを、追放すべきだ、と」

「……それで?」

「言うなりになるわけないだろう? 貴族どものやっかみに付き合ってなどいられるか」

 乱暴に、ヴォルは注いだ果実酒を口に運ぶ。

「でも、なにかあった、でしょ?」

 ヴォルはほとばしる熱い感情を抑えきれない眼でアリシアを見、苦しそうな息を吐いた。

「おれは守りに入ると弱いだろうか」

「? 守り?」

「アルウォー卿に言われた。得体のしれない女性に溺れ、婚約にこぎつけ、それを守ろうとしている。あなたを失いたくないあまり、正しい判断ができなくなってる、と」

「―――そう」

 心奪われた相手に溺れ、前後の見境がなくなるという話は知っている。

「あなたはどう思う? 伯の言うとおりか?」

「……判らない。でも、あなたには国民を最優先にするっていう信念がある。それがある限り、誰もあなたに文句は言えないわ」

「あなたを失いたくないというのは、本当のことなんだ」

「―――だからこんなに弱気になってるの?」

「情けないな、まったく……」

「ほんと、酔ってるみたいね」

 グラスを重ね、ヴォルは用意された果実酒をほとんどひとりで飲んでしまっている。

「わたしを見くびってるの? わたしは同志が莫迦やってるのを、ただ黙って見てるような人間じゃないわよ」

「そうだな」

 ヴォルは思い出したように笑う。

「あなたがこんな弱気になるなんて。平気でひとを殴るのに、意外な一面だわ」

「言ったろ。おれは弱い男だって」

「ええ、聞いたわ」

 アリシアもグラスを口に持ってゆく。冷たい果実酒が、口の中を潤す。

「でもあなたは思ってるほど弱くなんかない。そう思うのが普通だもの」

 ヴォルは遠い目を、グラスに落としていた。

「安心して。ちゃんと戻ってくるから。わたしを判ってくれるのは、あなたしかいないんだもの。あなたのもとに戻ってくる」

「アリシア……」

 上げられた眼差しの熱さに、アリシアは気圧された。

「あ、あのね。判ってくれるって言えば、エノーヴェもね、最近すごく理解があるの」

 一瞬濃密になった空気を振り払うように、アリシアは殊更明るい声を出した。

「最初の頃はカレスと遊ぶだけで嫌な顔してたのによ? なんか、嬉しいじゃない?」

「よかったな」

「う、うん」

 居心地の悪い沈黙が流れた。

 先に動いたのはヴォルだった。おもむろに立ち上がったヴォルに身体が反応してしまい、アリシアは焦った。

「夜遅くに悪かった。町に下りる予定だけは教えてくれ。文書でもなんでもいいから」

「あ、うん。はい」

「じゃあ、これで失礼する」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 そっけない言葉を残し、ヴォルは部屋を出て行った。すぐにエノーヴェがグラスを下げに来た。

 アリシアはグラスに残っていた果実酒を急いで飲み干すと、まっしぐらに寝室へと向かった。

(わたしも、酔っているのかもしれない)

 ヴォルの物言いたげな眼差しが、頭から離れなかった。



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