三
太陽は中天に差し掛かり、あたたかな日差しを投げかけている。光の色は冬から春へと移行してる。大地を優しく包み込む柔らかな日差しだ。寒空をただ突き抜けるだけの日差しは、もう遠くに過ぎ去っている。
日に日にまろやかになる外気に、アリシアは外庭に足を延ばしてみた。
芝生に色が戻り始め、木々の寒々とした枝にも、新しい緑の息吹が生まれ始めている。
南花壇の向こうからきれぎれに聞こえる人々の歓声に、誘われるようにアリシアは花壇を越えた。
そこには数人の貴婦人とその取り巻きたち、それに護衛官の姿があった。近付いて見ると、彼らに囲まれて1頭の白馬がいた。白馬の背に、小さな子供がよじ登っている。どうやらその一生懸命なさまに笑い声をあげているらしい。
年恰好から、その子供がヴォルの末の弟、エーナフであると判る。エーナフはたしか5つになるかならないかだ。
「ほうら! お気をつけくださいまし!」
「あああ、
「お馬が困ってらっしゃいますわ」
「危のうございますよ」
貴婦人たちの中に、よく行動を共にしていたゼノキア侯爵令嬢イェリスとレイーム公爵令嬢レーディスを見つけた。
ふたりに声をかけようとしたとき、それは起こった。
エーナフを背に乗せたまま、突然馬が暴れだしたのだ。和やかな雰囲気は一気に恐怖へと急転した。
「いやあああッ」
エーナフの悲鳴が空気を引き裂く。付き添っていた護衛官の腹を蹴り上げ、馬の興奮は高まるばかりだった。気絶する護衛官に娘たちはなすすべもなく、悲鳴をあげておろおろ逃げまわる。
全身を引きちぎるようにこれでもかと暴れる馬に、エーナフは繋がれたままだ。手綱が腕に引っかかり抜けないらしい。
アリシアは咄嗟に駆け出していた。
暴れ馬の動きを見はかり、隙をついて一気にその背に身を躍らせる。
「大丈夫、落ち着いて。落ち着いて。暴れないで、大丈夫、怖くないからね」
振りまわされる身体を懸命に安定させ、興奮に固くなった馬の首を優しく撫でてやる。
「怖くなんかないから。怯えなくても、ね。ほら。大丈夫よ」
手綱に絡まるエーナフの腕を外し、その身体をしっかり抱きとめる。馬は相変わらず激しく息巻き、目がまわりそうだ。
「もう少し我慢してて」
しがみつくエーナフに言葉をかけるが、反応らしい反応がない。馬の悲鳴と突然の事態になにもできないのだろう。下手にわめいて馬を刺激しないぶん、ありがたかった。
「どう、どう」
しばらくの格闘のあと、ようやく馬は落ち着きを見せた。首筋をそっと撫でてやると、蹄は次第にゆるゆると地面に降りるようになる。
「さあ。王子。もう大丈夫」
力いっぱいしがみつくエーナフの背に手をやると、涙に濡れた透きとおる青い瞳がふたつ現れた。まだなんの穢れも知らないその純粋な輝きに、アリシアははっと息を呑む。
駆けつけた護衛官たちにエーナフを預けると、どっと疲労がのしかかってきた。
馬に乗ったのは本当に久しぶりだった。まだ戦国の世、ときどき狩りや視察などで使っていたが、暴れ馬を落ち着かせたのは実は初めてだった。
じわじわと恐怖が這いあがる。
今回は偶然うまくったにすぎない。下手をすれば命をなくしていた。自分だけでなく、エーナフの命も同様に。荒々しい息に、間近にした死への怖れが混じった。
視線を感じふと顔を上げると、集まった護衛官、そして貴婦人たちの困惑と非難の入り混じった眼差しとぶつかった。その視線を辿りぎょっとする。太陽を知らない真っ白な太ももが大きくあらわとなっていたからだ。
アリシアは急いでドレスで隠そうとしたが、馬上にあってはうまくいかない。転げ落ちるように、鞍から飛び降りた。
「おけ、お怪我は。お怪我はごございませんでしたか?」
アリシア付きの護衛官、トゥウィルムは、喉の奥で言葉を詰まらせる。
「……いちおう、たぶん、ないと思うわ」
「それは、ええ、ようございました。ようございました」
「ええ、そうね。よかったわ。―――大丈夫だった?」
女官にしがみつくエーナフに、アリシアは腰を屈める。エーナフは身体を激しく震わせていたが、はっきりと頷いて返した。
「腕は大丈夫? ちゃんと動く?」
言われ、エーナフは己の左腕に視線を落とし、くるくる動くのを確かめた。
「大丈夫。だと思う」
「あとで典医に診てもらうといいよ」
「うん」
「エーナフさま!」
遠くから白髪頭の老人が走ってくる。風が吹くと簡単に折れてしまいそうなあの細い身体は、確かユーノスとかいう侍従長だ。騒ぎを聞きつけたのだろう。眉間にある深いしわは、末王子の身を案じるあまり、ひときわくっきり現れている。
「大丈夫でございますかッ!?」
かすれた声に、女官が事情を説明する。ユーノスはアリシアの活躍を聞くと、何故かいっそう眉を曇らせた。
アリシアはあらためて、その場の大人たちの顔色が芳しくないことに気付く。
危機を切り抜けたエーナフに向けられたものではなく、突如現れたアリシアの行動を非難するものだ。陰鬱な雰囲気は、そうとしか取りようがない。
何故だか風向きが悪い。
理解できず、
「どうかしたの?」
尋ねると、意外にもイェリスは笑顔で答えた。
「いいえ。ただ、アリシアさまのご活躍に言葉を失くしてしまっただけですわ」
「そういうふうには見えないけど」
イェリスはレーディスと顔を見合わせた。
「わたくしどもはとてもとても、アリシアさまのようにはまいりませんので」
核心を避け、ふたりは目と目で囁きあっている。はぐらかされているようで気分が悪い。
「わたし、なにか悪いことをしたの?」
ちらりとエーナフを視界に入れる。慌てたのは侍従長ユーノスだった。
「と、とんでもございません! アリシアさまがいらっしゃらなければ、いま頃どうなっていたか……!」
「じゃあなんなのよ。気分悪いじゃないこの雰囲気って」
「そうかしら?」
とイェリス。どことなくしらを切っているようにも見えるのが、更にアリシアを不快にさせる。
「気のせいでございましょう? きっと、この騒ぎで皆浮き足だっているのですわ。お気を悪くなさらないで」
「あちらのテラスでひと休みいたしませんこと? 埃になりましたもの、喉を潤しません?」
「……わたしは、いい。遠慮する」
「まあ、そんなことおっしゃらないで」
「ロシーヌさまもいらっしゃるかもしれませんし」
ロシーヌとは、ヴォルの2番目の妹で、アリシアよりひとつ下の17歳。少し前にクラーク公爵レードゥンと婚約したばかりだった。自己中心的なところもあるが、アリシアは気立てのよいこの第2王女が好きだった。
気持ちが揺らいだが、彼女たちの言葉の裏に、アリシアを敬遠する響きが見え隠れてしている。それに、これまで感じたこともなかった友人たちに対する不信感が、アリシアの気持ちを引きとめた。
「よろしく言っておいて。なんだか、疲れたから」
「そう? 王子はいかがなさいます?」
「行く。でもアリシアさまも一緒がいい」
「なりませんよ王子。これから典医のリューンにお身体を診てもらわねば」
「ええー」
唇を尖らせるエーナフに、ユーノスは首を振る。
「さ。まいりますよ」
「ちぇー。やだなー」
「王子。暴れ馬に乗ってても全然平気だったってこと、典医に自慢しておいで。さすがだねって褒められるよ」
アリシアが言うと、エーナフは顔を輝かせた。
「そっか! うん、そうする!」
「じゃあ、ユーノスと一緒に行っておいで。なんともなかったって判れば、ユーノスも安心できるから」
「うん。わかった。行こ、ユーノス」
エーナフの細い腕が、しわだらけの侍従長に伸びた。
ユーノスは戸惑うようにアリシアに軽く会釈をすると、いそいそとエーナフを連れて城へと戻っていった。
「穢れを知らない子どもというのは、本当にいいものですわね。かわいらしくて、つい頬が緩んでしまうわ」
「本当に。分別のついてしまった大人にはない、無邪気で純真な姿が、なんとも愛らしくて」
イェリスとレーディスに、貴婦人たちが同意をする。
輪から外されたような疎外感が、アリシアの背中をそろそろ這い上がった。立っている場所うんぬんではなく、着ているドレスの華美うんぬんでもなく、世界が違うと、そんな言葉が頭の隅をよぎった。
アリシアがその場を去るときも、彼女たちは表面上の言葉遊びを続けていた。アリシアの存在を知っていながら、まるで最初からいないかのように、なんの反応も示さない。
胸の内に、ぽかりとしたつまらない空白が生まれた。
南花壇からの階段を降りるとき、アリシアの耳に彼女たちの声が届いた。
「だって、戦国の生まれなのよ? わたくしたちとは違うわ」
自分のことを言われているのだと判った。いけないと思いつつも、気配を殺し、耳をそばだてた。
「でも馬に乗るだなんて!」
「それもあの暴れる馬に!」
レーディスの声だ。
「野蛮よね」
くすくすと風に乗る嗤い声。彼女たちはすぐそばにアリシアがいることに気付いていないらしい。それとも、わざとなのだろうか?
アリシアには判らない。とにかく、彼女たちの批評会は終わらない。
「懸命にこちらの生活に合わせてらしたけれど、所詮は
「まあ!」
「ご存知でしょう? なんといってもヴォルさまの御寵愛が欲しくて目の前で命を絶とうとまでするのですもの。なにを考えてるのか判ったものじゃないわ」
なにを言っているのと反論したい気持ちを押さえ、アリシアは聞き続ける。
「ヴォルさまからいただいた仔猫に逃げられたそうよ!」
「それで更にいっそうわけの判らない行動をなさるとか」
「オーヴルさまのお誘いもいなしてしまわれるし」
「あけすけで乱暴なあの言葉遣いを聞くと、耳がおかしくなりそう!」
「なんでも風流な言葉遣いがお嫌だそうで」
「あら。なら、どういう名前でしたから、アリシアさまの恋人だった方の名前は」
「クラウス・ラグレー」
「そう! その方とどう睦み合ってたいたの?」
「いきなり行為に入るとか?」
ひとを小莫迦にする嗤い声がした。
「だって、馬に乗って肌をあらわにする方ですもの」
「わたくし、目を疑ったわ! 女性が馬に乗るだなんて! しかも殿方の前で」
「恥知らずな方よね」
「わたくし、同じに見られたらどうしましょうって、そればかり考えていたわ」
「わたくしも」
「それにあの小汚いドレス!」
「下女かと思ったわ」
「町娘が紛れ込んできたとも」
「信じられない。考えたくもないわ」
「ヴォルさまのお目にかかるかもしれないから一緒にいただけだったのだもの。理解して差し上げる必要なんてないわ」
「ええ。だっていくら王族とはいっても、所詮は大昔の方でしょう? 時代が違うわ。普通に考えれば、しわだらけの老女よ!」
愕然とした。
アリシアは倒れ込みそうになる身体を手すりに預けた。
あまりのことに、どう反応すればいいのか判らない。
本人を前にしては決して口にしない直接的な言葉は、アリシアの無防備な心を深く奥底までえぐった。
彼女たちがあれほどはっきり物事を言うとは思わなかった。言いたいことがあるなら、本人にはっきり言えばいいのに。
なにかが違っている。
そういえば、エーナフを助けたことに関してひと言の礼もなかった。
馬の汗と己の汗に汚れた若草色のドレスを握り締めた。
そうなのかと、寂しげな自嘲に口元が歪む。
当然のことをしたと思ったのに。
この時代、ひとは体裁のほうを重んじるのか。暴れ馬に悲鳴を上げる王子よりも、己の保身を優先するのか。
底冷えのする恐ろしさが、身体中を駆けめぐった。暴れ馬に向き合ったときとは比べものにならないほどの深い怖れ。この時代に放り込まれたときに感じたとものよりも更に冷たい恐怖。
なんてところだろう。
護衛官は遠巻きにアリシアに従い、腫れ物に触れるような、どこか頼りない空気を漂わせている。
ひとがいれば孤独は紛れると思っていた。
けれど、ひとがいるからこそ孤独になることもあるのだと、アリシアは悲しみとともに痛感した。
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