時計は八刻を示していた。

 アリシアは身支度を簡素に整え、静かに部屋を出た。

 王宮内は静寂に沈んでいる。エノーヴェも護衛官もいない。王宮は夜が遅いため朝も遅い。王侯貴族はいつも昼近くまで寝台で過ごしている。

 アリシアはひとり廊下に出る。しんと冷えた廊下に足音が大きく響いた。ひと気のなさは心細さを駆りたて、いつしか速足となって、アリシアは礼拝堂を目指した。

 10日に一度の安息日の朝は、教会に集い、神に祈りを捧げることになっている。

 アリシアは目覚めてから一度も礼拝を行っていなかった。神の怒りに関わった者として、これはあまりにも畏れ多い。

 礼拝堂は王宮の裏にある。戦禍の跡を残し、ずいぶん古ぼけてはいたが、どっしりと威容を誇る姿は240年前と変わらない。

 重たい木戸を押し開けると、中の暗さに視界が一瞬麻痺を起こす。目が慣れると、みすぼらしい長椅子の列に小さく驚かされた。

 使われている様子がないのだ。

 まるで、どこかに忘れ去られていたように、ひっそりと長椅子は信者を待っている。

「なんなの、これ」

 埃っぽい堂内に、声が反響する。狭い狭いと思っていたが、実際は反響する声がにじんでしまうほど、高く広い礼拝堂だったのだ。

 この時間、常ならば説教壇近くに控えてているはずの司祭の姿がない。集っているはずのひとたちの姿もない。遊びほうける王族たちであっても、多少はここにいると思っていたのに。

「どうなってるの」

 声に憤りが入り混じる。これまでの自分同様、皆忘れているのだろうか。だが、アリシアは、この3ヵ月の自分の異常を自覚している。

 だからよけいに、礼拝堂の異常な静寂に恐ろしさを感じた。

 日時を間違えたのだろうかと自らに問うたとき、音をたてて背後の扉が開いた。はっと振り返ると、眩しい光を背にひと影がひとつあった。

「……驚いた。まさかあなたがいるとは」

 表情は逆光で見えなかったが、軽い驚きをにじませるその声は、まさしくヴォルのものだった。

「なにをしに来たんだ?」

「な、なにって。礼拝に来たのよ」

「礼拝?」

 ヴォルはつかつかとアリシアの横に並んだ。彼の眼には、値踏みするような光が浮かんでいる。アリシアは侮られているのを読み取り、むっと表情を硬くさせる。

「なによその目は」

「だって、あなたが礼拝? 聞き間違えたかと思って」

「どういう意味よ」

「そのままさ」

「判らないから訊いてるの」

「礼拝に来るひとがいるとは思わなかったからさ」

「どういうこと。もしかして、日が間違ってる、とか?」

「いいや。今日こそ、礼拝日だけれど」

「だったらなに。ちゃんとはっきり言ってくれない?」

 苛々とアリシア。ヴォルはぷっと噴き出した。

「ちょっと、なに笑ってるのよ、この気取り屋!」

「き。気取り屋?」

 素になって聞き返すヴォル。

「そうよ。いつもひとより一段高いところから皆を見下ろしてて、そんな自分に酔ってるでしょ。自分はお前らとは違うんだよ、って」

「―――そういう風に言われたのは初めてだな。そうか……」

「なに納得してるのよ、気持ち悪い」

 軽く頷くヴォルに、アリシアは思いきり嫌な顔を見せる。

「いや。はっきり言われるのはいいものだと思っただけ」

 にやりと笑うヴォル。

「どうやらあなたを誤解していた。これが、あなたの本来の姿みたいだな」

「え?」

「なんでもかんでもはっきり言う。まわりくどい言い方をしない。ぞろぞろしたドレスも着ない。夜であってもひとりで城をうろつく」

「……あなたも、この時代のひとにしてははっきりものを言うのね」

 でも、どこか嬉しくもあった。

「まあね。おれは偏屈者だから」

「なにそれ」

「貴族どもの言さ。陰でこそこそ言ってるよ。王太子は仕事の虫で偏屈者だって」

「……ふうん」

 ヴォルは説教壇の正面に歩を進め、膝をついた。アリシアもそれに倣い、膝をつく。よく見れば、扉からこの正面まで、ひとの歩く跡が残っている。

「おれにしてみれば、気がふれてるのはあいつらのほうさ。礼拝に来るのはもう、おれしかいない」

 突き放すその言い方には、諦めの色がにじんでいた。

「司祭たちはどこにいるの?」

「聖職者は皆俗物さ。いまごろどこぞの女の横でおねんねしてるだろうよ」

 アリシアは絶句する。

 なんて堕落した時代なのだろう。これが、神の怒りを買ったエルフルト王国の姿なのか。

「とんでもない時代だろ?」

「とんでもないわ」

「だから、良くしていかなければならない」

 ふたりは並んで神に祈りを捧げた。

 日々の安寧を。この国の未来を。神への謝罪を。満ち足りた幸福を。

「あなたは、礼拝に来ないと思ってた」

 礼拝堂を出る直前、ヴォルは言った。アリシアは言葉を返せない。

「正直、嬉しい」

 アリシアは言葉の代わりに小さく頷いた。

「そう」

 思い出したようにヴォル。

「オーヴルがぼやいていた。あなたの付き合いが悪くなったと」

「そんなこと言ってたの?」

「つまるところ、そういうようなことさ。まわりくどい言い方は好きじゃないだろう?」

「まあ、ね」

 2日前の仮面舞踏会には、結局出席しなかった。

「きっともう、ああいう付き合いはできない」

「好きにすればいい」

「ありがとう」

 ヴォルの言葉は、貴族との付き合いに後ろめたさを感じたアリシアの心を、幾分か軽くしてくれた。

「これから仕事?」

「ああ。うんざりするくらい」

「そっか。頑張って」

「どうも」

「―――ねえ」

 なに? とヴォルは眉を上げる。

「わたしにできること、ある?」

 ヴォルは小さく首を振った。

「まだこの時代には慣れてないだろう? のんびりすればいい。無理してまたおかしくなったら大変だ。太祖とクラウス殿に合わせる顔が無くなる」

 アリシアははっと顔を上げた。ヴォルはなにもかも見通すような眼差しをしていた。

「無理して忘れようとしなくてもいい。ただ、もう彼らとは違う時代にいるんだと、時間をかけてで構わないから判ってもらえればいい」

 ヴォルの言葉はゆっくりと胸に流れ込んだ。

 ずいぶんためらったあと、アリシアは静かに頷いた。

 ヴォルの言葉は深読みしなくてもいい。そういう思いが、素直に彼の言葉に真実を感じさせるのだろう。

 アリシアはもう一度、今度は深く頷いてみせた。



 にゃーん、と真っ白な仔猫が鳴いた。

 仔猫の向こうに、期待に目を輝かせるオーヴルの顔。いまさらながら、目元がヴォルに似ている。

「これ、なに?」

 部屋にやって来たオーヴルが突然差し出した仔猫に、アリシアは戸惑う。

あかつきの女神の右肩には雲雀ひばりがとまっていると言いましょう?」

 確かに、そう言われている。雲雀はロジェ神の使いともいわれ、その鳴き声によって人々を啓蒙するとも。

「飛び去った雲雀を探して女神に朝を置き去りにされては、どれほど神秘的な月の輝きも色褪せてしまいます」

「……つまり?」

「……。カレスがいなくなり、お辛いでしょう?」

 やっと得心がいった。

「カレスの代わり、ってわけ?」

 オーヴルの代わりに仔猫が返事をした。愛らしいその声につい頬が緩んでしまうが、アリシアの眉は開かなかった。

「悪いけど。あの子の代わりを受け入れるつもりはないの」

「姫。失くしたものに想いを馳せるお気持ち、よく判ります。ですが、いつまでも気落ちしていては、眩しい日差しに厚い雲がかかってしまいます」

「そういう天気もあるわね」

「からかってるんですか?」

「こっちがそう訊きたいわ。わけの判らない比喩はやめて」

 オーヴルはアリシアの反応に驚き、そばに控えるエノーヴェに視線をやった。エノーヴェは肩をすくめて見せた。

「カレスはもういないの。カレスはカレスだけ。あの子に代わりはいないわ。わたしはあの子以外、そばに置く気はないの」

 オーヴルはアリシアの反応についていけなかった。

「気を遣ってくれてありがとう。でも、この贈りものは受け取れない」

「カレスが兄上からの贈り物だからですか?」

「? どういうこと?」

「極光は暁を邪魔しますか」

 アリシアはオーヴルの言わんとすることに気付いた。慌てて否定する。

「変な誤解しないでよ。たんに舞踏会に行きたくなかっただけなんだから」

「何故?」

 オーヴルの瞳の奥が、僅かに苦悶に歪んでいた。

「つまらないからよ。興味がなくなったの」

「カレスがいなくなってしまったから?」

 違う、と言いかけはたと止まる。確かに、きっかけはカレスの失踪にある。

「わたしは、まだクラウスを忘れられないの。もう少し、あのひとと過ごしてきた時間を、ゆっくりと思い返していたいのよ」

「……」

 オーヴルは仔猫をそっと胸に抱き込んだ。

「あのひとのことを忘れようとしてた。でも、いけなかった。まだ忘れてはいけなかったのよ」

 ―――このわたくしを忘れると? ずいぶんいい根性してるじゃありませんか。

 頭の中でクラウスがそう言っている。

「カレスは、クラウスのことを忘れさせてくれた。でも、結局は逃げでしかなかった。その場しのぎで、気を紛らわすだけだった。それじゃいけないのよ。それじゃ、カレスにも悪いし。なによりもクラウスを、ううん、わたし自身を裏切ることになる」

「……いなくなった雲雀を、待ち続けるというわけですか」

「いなくなれば、そこにまた新しい道があるってこと。ただ、道が見つかるまでには、時間がかかるだろうって。とにかく、この子は受け取れない」

「……残念です。とても」

 オーヴルの声はひどく落胆していた。

「ごめんなさい」

 状況の判らない仔猫だけが、無邪気ににいにい声を上げる。アリシアは身の置き所をなくした気がして、ひどく居心地が悪かった。

 ヴォルと違って、どうやって接すればいいのか判らない。これまで自分はどうやってオーヴルと接してきたのだろうと疑問に思う。

 いつも浮かれた気分で顔を合わせていた気がする。真面目に顔を突き合わせたことなど、これが初めてだった。

 身体の奥深くからなにかがこぼれてゆく気がした。まばゆい光を放っていた情熱の炎が燃え尽きた感じでもある。

 ひとつの区切りを越えた虚脱感とも深い脱力とも取れた。

 オーヴルが力なく部屋を去ったあとも、アリシアは椅子に身体を深く預け、ただぼんやりと彼の消えた扉を見やるだけだった。



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