城に戻ると、オーヴルと出くわした。

「今日はなにか、趣向を凝らしたお茶会でもあったのですか?」

 アリシアの汚れた格好に、嫌味とも取れる表現を彼はする。少なからず傷付いていたアリシアには、オーヴルの言葉が忌まわしい。

「泥に汚れた格好でするお茶会なんか、ここであるわけがないでしょ」

「ご気分がすぐれないのですか? もしや、庭で倒れられたとか?」

「本気でそう言ってるわけ!?」

 オーヴルは迫力に押され、ぐっと言葉に詰まった。アリシアは泣きそうな顔になる。

「どうしてあなたたちははっきりものを言わないの! あたりさわりのない言葉ばかり言って、陰で文句ばかり! わたしが気にくわないならそう言えばいいでしょ!?」

「姫……?」

 怒鳴るアリシアとは裏腹に、オーヴルは心底困惑した瞳を返した。その眼差しに、逆にアリシアはやるせなさを覚える。

 物腰柔らかな王子、オーヴル。まるで一方的に責めたてたようで居心地が悪い。彼は、生まれながらの王族を思い起こさせる。

 表向きは無難な言葉を示しながらも、イェリスたちの野蛮だという言葉は、陰でアリシアに向けられたもの。

「わたしは、そういうの嫌なのよッ!」

 八つ当たりだと判っていた。判っていても、ほとばしる感情は止まらない。

「欲しいのは同情なんかじゃない! あわれみなんかじゃないよッ!」

「姫」

 オーヴルの静かな声が、荒ぶるアリシアの胸に不思議とすとんと落ちてきた。

「あなたは、疲れているんです。ここしばらくものすごく気が張っていたのでは? まるで、わたしにはまるで、あなたが堅苦しい尼僧にでもなってしまったように思えてならない」

 アリシアの眉が、小さく震えた。上質の生地をふんだんに使った彼の衣が眩しい。光り輝く宮殿にふさわしいオーヴルの姿に、アリシアは胸が締めつけられる。

「元のあなたに戻ってください。カレスがいなくなって昔のことを思い出してしまったのでしょうけれど、宝石は磨かれてこそ美しく映えるものです。原石のまま土に埋もれていてはいけないのです」

 オーヴルの声が遠い。ふたりの間にあるずれは大きく、ガラスにひびが入るかのように広がってゆく。

「どうです? これから闘犬があるのですが、一緒に行きませんか? いい気晴らしになりますよ?」

 オーヴルは城の外を指で示した。真っ白なその指先は、深みを増した蒼穹に映える。アリシアの意識は指を辿り空に吸い込まれ、240年の時を超えた。

 ふたりの間は完全に分断され、取り残されたいいようのない悲しみがアリシアを取り巻いていた。

「ごめんなさい、行きたくないの」

「姫」

 焦れる声。アリシアは首を振った。

「言ったでしょう、そういったこと全然魅力を感じないの。興味がなくなったの」

「兄上みたいなこと言わないで」

「仕方ないじゃない、いままでのわたしがおかしかったんだから。あれは本当のわたしじゃない」

「いまのあなたも、本当のあなたではありませんよ」

 それは珍しい、オーヴルの飾りのない言葉だった。真剣な眼差しにさらされ、言葉に心が揺らいだ。ふたりを分かつ深いひび割れに、オーヴルの言葉が流れ込む。

「あなたはわたしたちから逃げている。ひとづきあいの場を避け、楽しむことから目をそらしている。あなたは、あなたはクラウス殿に遠慮をしているのでしょう? クラウス殿のいないところで笑むのが怖いのでしょう? 他の男であるわたしと一緒にいるのが咎められると思っているのでは?」

 問い詰めるオーヴルの口調に、アリシアの頭の中は真っ白になった。

 違うと否定できない自分に、更に混乱する。

「姫、いいですか? ここはもう、あなたの知る荒ぶる国ではないのです。もうこんなに平和で落ち着いているんです。肩肘張って生きる必要は、まったくないのです」

「肩肘なんて……」

 彼の言葉は決して間違ってなどいない。血で血を洗う争いは、もう遠い昔に過ぎ去っている。

「あなたは、人生を楽しむべきなんです。こんな運命を辿っているからこそ」

「やめて」

 これ以上聞きたくなかった。オーヴルは静かな目をしている。

「クラウス殿も、あなたのこのような姿は見たくなかったはずです」

「クラウスを持ち出さないで。なにが判るというの。いつもいつもいつも遊びほうけているあなたになにが!」

「判りますよ」

 オーヴルは言いきる。

「あなたが自分を偽っているくらい。いままでは眩しく輝いていた。こちらの生活に馴染んでいた。でも、クラウス殿の存在に気付いてしまった。彼を置いて自分ひとりで楽しむことに罪悪感を感じているんですよ。だからこうして、自分の本当の心を偽って、堅苦しい生活をしている」

「―――違う」

 しかしその声は弱く震え、なんの反論にもならなかった。クラウスに後ろめたさを感じていたのは本当だと、心のどこかが知っていた。

「わたしは、違う……」

 頭の中に、先程の馬との格闘がよみがえる。エーナフを助けようとしたのは、偽りない自分自身の思いだ。自己保身もなにも考えていない、本当の自分の姿だ。イェリスたちのように振る舞うことこそ、自分に嘘をつくことになる。

「息抜きが必要です、あなたには」

「いらない、そんなの。どこにも行きたくない」

「姫」

「オーヴル」

 縋るようにアリシアは尋ねる。

「わたしさっき、馬に乗ったの。みんなの前で。それって、いけないこと?」

 オーヴルの表情が、すっと青く硬くなった。

「ひとを助けるためでも?」

「―――女性が、することではありませんよ」

 眉を曇らせ迷い迷い吐き出された言葉は、アリシアの胸を鋭く切り裂いた。

「それで、こんなにも土に汚れているのですね」

「わたしが行かなきゃ、取り返しのつかないことになってた」

 オーヴルは悲しげに首を振った。アリシアは胸を突かれ、よろめいて一歩、後退あとずさった。

 全身から力を奪ったのは、絶望という名の悪魔だ。

「行けない……。わたし、行けない……」

「―――判りました。ですが、わたしは待っています、あなたが以前のように明るくなられるのを」

 アリシアは曖昧に頷き、その場を辞した。背中にオーヴルの視線を感じながら。胸に、彼の言葉を詰まらせながら。

 ―――女性がすることではありません。

 ここはなんて遠いところなんだろう。

 どうして、誰もいないのだろう。

 ―――いまのあなたも、本当のあなたではありません。

 本当の自分とは、なに。

 『本当の自分』を決めるのは、いったい誰。

 アリシアには判らなかった。

 なにもかも判らなかった。

 判るのはただひとつ。

 自分は、ひとりきりだということ。

 孤独で、孤立しているということ。

 その事実が、ひしひしと身を苛んだ。



 夕刻あたりからどこからともなく雲が湧き、アリシアの想いそのままに、夜空は厚い雲に覆われた。城内の喧騒から逃れ、角燈を手にひとり庭を歩くアリシアの足は、自然古びたあの石の裏庭を目指す。この城ができた当時、クラウスと逢瀬を重ねた場所。

 愛するひとがもういないことは判っていたけれど、雨に削られ風に崩れたあの裏庭は、ぼろぼろに打ちのめされたアリシアの心を幾らか癒してくれる。

 240年の時を待ち続け、ひっそり年を取った石の庭。整然と並んだ壁や石畳、噴水へと続く小径の記憶は、二度と戻らない懐かしい毎日を呼び起こす。

 護衛官たちの目を盗み、ひとり訪れる裏庭は、清々しい解放感を与えてくれた。たとえあたりが漆黒の闇に埋め尽くされていようとも、それすらアリシアの時間を見守ってくれているように思えてしまう。

 足元にはたくさんの草が丈を伸ばしている。膝あたりにまで伸びた草もあり、その茎の先に小さなつぼみがついている。

 目を覚ましたとき、この時代は冬真っただ中にあった。アリシアは己の孤独に気付かないまま厳しい大陸の冬を過ごし、そして迎えた春は、厳しい現実を柔らかな風に乗せてアリシアに吹きつける。

 ―――なに落ち込んでるんだい?

 いないはずのクラウスが耳元で囁く。

 ―――感傷的じゃないか。

「窮屈なの」

 ―――窮屈? なにが?

「ついて行けそうにないの、この時代に」

 薄い光を投げかける角燈は、アリシアの顔に深い影を落とす。

「ついていきたいとも思わないし。……戻ることもできないし」

 ―――時代が違うだけで、ここはもう、まったく別の国だからね。

 なにか遠くに想いを馳せるようにクラウス。

「別の国、か……」

 クラウスの声はアリシア自身の心の声なのかもしれない。姿も気配もまったくない中で、ただその声だけが脳裏に響く。

 崩れた壁に背を預け、アリシアは大きく息を吐いた。確かに、クラウスの言うとおりかもしれない。まわりを見ても見知った顔はひとつもない。城内の様子もがらりと変わってしまっている。唯一昔の面影を残すのは、この廃墟と化した裏庭だけ。

 なにもかもが変わってしまった別の国。

 ―――彼らに悪気はないよ。

「けど、疲れちゃった」

 ―――いきなり別世界に放り込まれたからね。

「あなたがいなくて、つらい」

 ―――おや。弱音を吐くなんて珍しいこともあるんですね。

 この声が本当に耳から入ってくるものだったら。ありもしない期待をする自分に、消え入りそうな笑みが浮かんだ。

「だって、クラウスも一緒にいて欲しいって、……ひとりは、いや」

 ―――心外ですね。わたしはずっとそばにいたんですけど?

「え?」

 ―――あなたが気付かなかっただけですよ、アリス。

「そうなの……?」

 あたりを見まわすが、見える範囲にクラウスの姿はなかった。代わりにおかしそうに笑う声がする。

 ―――いいですかアリス。わたしはもう死んだんです、200年も前に。だけど、ずっとあなたを見ていた。魂となって。ずっと、そばにいた。

 眼の奥が熱くなる。

「だけど逢いたいよ! あなたに逢いたいの! この目であなたを見て、抱き締めてもらいたい、壊れるくらいに強くぎゅっと!」

 ―――それは、無茶というものです。

「だって、だって苦しい。わたし、ここでは無理よ、やっていけない……!」

 ―――でも、やってくしかないでしょう? 大丈夫、アリスならできる。

「クラウス……!」

 ―――アリスならできる。頑張って。ずっとひとりきりのままじゃないから。いまは苦しいかもしれないけど、いつか必ず判ってもらえる。

「あのひとたちみたいに無責任に遊びまわれってこと?」

 ―――そうじゃない。生きるってことは、どんな時代でも一筋縄じゃいかないのさ。

「どうすればいいか判らない」

 アリシアは両手で顔を覆った。

「ここじゃ、わたしはわたしでいられない!」

 ―――ということは、彼らに合わせるの?

 顔を伏せたまま、アリシアは首を激しく振る。

「できない、そんなことできないッ! そんなことしたくない!」

 ―――だったら。

 クラウスの声は、最初から答えを知っているかのように落ち着いた響きをはらんでいた。

 ―――だったら、アリスらしく生きることを選べばいい。つらいのは当然なんだ。考え方がまったく違う中でそれをするのだからね。

「そう、なんだけど……」

 ―――つらい思いもしたくない?

「抱き締めて欲しいの。あなたに強く抱き締めてもらいたい、それだけでいいの」

 ―――できないんだ。できないんだよ、それは。

 腹立たしさのにじむ声に、アリシアの涙腺が緩む。

「どうしてこんなことになっちゃったの……」

 ―――すべては神のおぼしめしさ。きっかけは王の失言だったけど、たぶん、アリスは神に選ばれたんだよ。神はなにかを意図して、アリスを240年の眠りに就かせたんだ。わたしはただ、それに選ばれなかっただけ。こうして、魂となってあなたに語りかけることしかできない。

「逢いたいの……」

 ―――ごめんな。ひとりきりにさせて、ごめん。

 たったひと目でいい、クラウスに逢えれば、胸に巣くう奥深い不安など、どこかに消えてしまうのに。優しいクラウスの声は、切なさばかりをあふれさせる。

 ―――アリス。頑張れ、アリス。泣きたいときは泣けばいい。とことん悩んで悩みまくればいい。手探りでゆっくり、アリス自身の道を選んでゆけばいいんだ。わたしはここで、応援することしかできない。アリスは生きていける。失敗もできる。笑うこともできる。わたしに、アリスの精一杯を見せてみて。な。アリス。

 アリシアは背中を小さく丸めた。喉から漏れる嗚咽に、細い肩が震えた。

 空は相変わらず雲に埋め尽くされている。厚い雲の上には、懐かしい星々たちが瞬いているはず。さびれた裏庭は、あくまで静寂の底に沈んでいた。



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