第4話 ファラオ・ラムセス二世との謁見

 下エジプトと呼ばれるナイルデルタのほぼ末端に位置する都ペル・ラムセスは、ラムセス二世の父である先王セティ一世から着工が始まった新都である。以前はアヴァリスという名の港町だった。

 当時の都は、アヴァリスからもう少し南に位置するメンフィスという都市にあり、政治の中枢として栄えていた。ちなみに、メンフィスに都市を移したのはラムセス二世の祖父であるラムセス一世である。


 ペル・ラムセスは、古くから港町として栄えていただけに、様々な物資や人種が行きかう貿易都市へと発展をとげた。

 そういったペル・ラムセスの最大の利点は、ナイル川(エジプトの中心を流れる大河)上流にあるテーベ(都市の一つ)と違い、周辺諸国に近い分だけ、各国の情勢の変化にすばやく対応できる事であろう。

 ラムセス二世は、この都市を宗教の中心地であるメンフィスに劣らないほど美しく、壮大な建築が建ち並ぶ都市にしようと、多くの神殿を建設させている。

 また、街全体を、幸運を呼ぶとされているトルコブルーに装飾させ、これまでに無いほど美しい外観をもたせた。この新都の人気は非常に高く、未だ建設中であるにも関わらず、エジプト全土から多くの人が移住してきている。


 ファラオに謁見を申し出たところ、すぐに「可能」との返事が返ってきたので、三人は馬を厩舎番に預けると、謁見の間に向かった。

 三人が謁見の間に入室する。――が、肝心のファラオの姿がどこにも見当たらない。

 玉座はからっぽ。しかも、部屋には召使の一人すらいない。


「おい。場所間違ったんじゃねえのか?」


「そんなことないわよ。ちゃんと『謁見の間で待つ』、って伝言をもらったんだから」


 三人が首を捻っていると、何者かが突然カエムワセトの背中に飛びついた。

 王子であるカエムワセトが背後から突然とびつかれる事など、まずをもって無い。奇襲に顔色を変えた腹心の部下二人は、とっさに腰の剣を抜いた。

 だが、主人を背後から抱きかかえている人物の姿を確認すると、一気に脱力して剣を鞘に収める。


「よく帰ったな息子よ!サッカラに美女はいたか?」


 飛びついた人物は、他ならぬ、ラムセス二世である。

 ナイル川を中心に繁栄している大国エジプトを統べるファラオ。自称“ぴちぴちの三十七歳”。


 幼心を忘れない国王は、息子を驚かすつもりで謁見の間から人を払い、自分は大柱の影に隠れていた。

 王にあるまじき巫山戯た行動に振り回され、国のトップを危うく斬りつけかけた従者二人は、かしこまった面持ちで跪きながらも、悪戯が成功して喜ぶ少年のようにヘラヘラ笑っている国王に対して、各々心中で悪態をついた。


 カエムワセトは迷惑そうに「お戯れを」と言って、無邪気な悪戯をしかけてきた父親をひっぺがす。

 本来ならば息子であるカエムワセトも一旦はライラやアーデスのように跪く儀礼になっているのだが、父王の珍プレーは息子にその機会を完全に逃させた。


「愛する息子が帰ってきて喜んでるだけではないか」


 ラムセス二世はつれない息子に、苦笑いで抗議した。

 彼は公務の真っ最中だったにも関わらず、カエムワセトの帰還を耳にした途端、従者が謁見について述べる間もなく「会うぞ」の一言で部屋を飛び出していたのである。


 もし国民がその様子を目にしようものなら、確実に彼に対しての支持率を下げる所業なのだが、ファラオも人の親である。息子の顔を久しぶりに見るのは嬉しいものなのだろうと、彼に甘い近臣達は執務室から走り出た国王を責める事なく、小休憩を取ることにした。

 ただし、皇太子として父王に付き従い、公務を学ぶアメンヘルケプシェフは別である。彼は大臣たちが和やかに茶などをすする中、一人、大いに恥じ入っていた。


 同様に、第四王子のカエムワセトも父の喜びようを素直に喜べないでいた。


「私の帰還を喜ぶだけでしたら、美女の有無を問う必要はございませんでしょう」


 と、物の例えでなく事実、三度の飯より女が好きな好色親父に対し、冷ややかな視線を浴びせて指摘して返す。


「美女のない人生なんて面白くないだろう。俺だってまだ若者なんだぞ」


 一般的に、平均寿命が四十~五十歳程度のエジプトで、三十七歳の自分を“若者”と称するのはいささか厚かましいと思える行為である。

 だが事実、彼は若かった。金色を帯びた潤沢な赤毛は太陽光を受けて輝き、きりっと引き締まったその顔はいつも溌刺としている。肉体も日々鍛えているお陰で、衰える気配が全くない。

 精神・体力ともに横溢し、この半年の間に二人の側室を新たに娶り、三人の子供を儲けた現役真っ只中のラムセスにいたっては、“晩年”という言葉こそそぐわないと、彼を知っている者なら誰もが口にするだろう。


 これ以上のやり取りは無駄だと判断した息子は、「ご健勝で結構なことです」と、ため息をついた。

 そして、さっさと謁見の本題に入ろうと姿勢を正す。


「父上。ペル・ラムセスの建設事業について、至急お話したき議があります」


 だが、話しかけた先に父王の姿はすでに無かった。

 眉をひそめた息子は、父が目の前から消えるなり、賑やかになった後方へと振り返る。


「ライラー。暫く見ないうちにまた綺麗になったな」

「恐れ入ります」


 息子とのスキンシップに満足したラムセスは、早々にお気に入りの弓兵隊長に上機嫌で話しかけていた。


「聞いてるのですか父上」

「確認せんでも聞いてないだろ」


 咎めるカエムワセトに、アーデスが呆れ顔で、ぼそりと突っ込む。

 このテのやり取りは、ラムセス大王に付き従っていれば日常茶飯事だった。

 このラムセスという男は軍人王のサラブレッドであることは紛う事なき事実なのだが、困った事に、暴れ馬でもあった。暴走傾向にある彼のその手綱をしっかりと握れる者は、極わずかである。

 暴れ馬はライラと抱擁を交わした後、彼女の後ろに控えていた次のターゲットに歩み寄った。


「おおー。リラも来てくれたのか。相変わらず奇妙な美しさを保っててくれて俺は嬉しい!でもちょっと汚いぞ?湯浴みが必要だな」


 そう言って、全身汚れてぼろぼろの服をまとった、一見ものもらいのような出で立ちの少女の額を人差し指で軽くつつく。

 少女の年の頃は十四。その少女の外見はエジプト人のそれではなく、北方系民族の特徴を備えていた。石灰と同じくらい白い肌に、膝裏まで達する長い、くすんだ金髪。そして、透き通った緑色の瞳。今はすすけているが、汚れを落とし、乱れた髪を梳かせば、さぞかし美しいだろう。

 ラムセスに指示された女官が、一礼すると湯浴みの準備を整えるために一旦下がった。


「ありがとう、陛下」


 リラと呼ばれた少女は、にこりと笑い、持ち前のささやいているような声で、湯浴みの礼を言った。


「あれ?」

「いつの間に」


 カエムワセトを含んだ三人が、リラの登場に目を丸くする。

 謁見の間には、カエムワセトとアーデス、そしてライラの三人が通されただけで、この少女の姿は無かったはずである。そもそも、今回の旅に彼女は同行していない。顔を見るのも久しぶりだった。

 驚いている三人に、リラは「お邪魔しちゃった」と、右手をちらちら振って挨拶した。

 いくら街の真ん中に建っているからといって、”ちょっと失礼します”のノリで入れるほど王宮の警備は甘くない。ましてや、憲兵がホームレスと見まごうほど汚れた少女を通すわけが無い。

 だが、それについて不思議に思う者は、この場には一人も居なかった。門を抜けてここまでやってきたのは、”リラ”なのだから、と、四人が四人とも納得する。

 やがて、女官がリラの着替えを手に湯浴みの用意が整った旨を告げに来た。

 黙って侍女についていくかと思いきや、リラはおもむろにカエムワセトの服を掴んでちょいちょいと引っ張る。


「ワセトも埃だらけだね。一緒に入ろう」


 一同、しばしの間沈黙する。


 リラの口調は”帰り道が同じだね。一緒に帰ろう”くらいのものだったので、言葉の意味をきちんと把握するまで、全員が少々時間を要した。

 普通なら、十四歳の少女が十八の青年に向かって、当たり前のような顔で恥ずかしげもなくさらっと口にする言葉ではない。

 言葉の意味を脳が正確に理解した時、ラムセスは盛大に吹き出し、カエムワセトは顔を真っ赤にし、ライラは逆に青ざめた。アーデスは片手に顔をうずめて呻く。


「いや、私は・・・」


 リラから一歩退いたカエムワセトに替わり、ライラがリラに詰め寄る。


「私も埃だらけよ、リラ!私と一緒に入りましょうね!」


 半ば強引にリラの背中を押しながら、足早に湯殿へと向かった。

 女官が残りの男性陣に一礼して、慌てて二人の後を追う。

 有能な部下のお陰で混浴から逃れられたカエムワセトは、胸に手を当てて、安堵の息を吐いた。


「相変わらずだな。あのお嬢ちゃんは」


 立ち上がったアーデスが、カエムワセトの肩をぽんと叩いた。


「リラの非常識には免疫をつけたつもりだったけど、久しぶりに体験すると、やはり驚いてしまうよ」


 真面目な息子に、ラムセス二世は腕を組んで「馬鹿だなぁ。それがたまらなく可愛いんじゃないか」と楽しそうに笑う。


 リラとは、ほぼ一年ぶりの再会だった。呆れる者。戸惑う者。喜ぶ者。リラというこの不思議な少女に対する評価と反応は、三者三様である。

 そんな中、男三人の謁見の間に、身なりのいい女性が入ってきた。


「陛下。また強引に執務室をお抜けになったそうですね。アメンヘルケプシェフが嘆いておりましたわ」


 少しハスキーな声が、国王を叱る。

 ライラとリラが消えて男臭かったその場の雰囲気が、その女性一人で一気に華やいだ。

 アーデスが剣を床に置き、膝をつく。


「まあ、殿下。それにアーデスも」


 女性はカエムワセトとアーデスの姿を見ると、切れ長の目を見開き、続いて嬉しそうな笑みに顔をほころばせた。


「ご無沙汰しておりました。ネフェルタリ皇后陛下。ただいま戻りましてございます」


 カエムワセトが恭しく礼をする。


「お帰りなさいませ。サッカラでのお役目、ご苦労様でした」


 ネフェルタリも膝をふわりと折り、母親を別にする息子に、たおやかな礼を返した。続けて、かつて夫の戦友であった男にも、顔を上げて立つよう丁寧に声をかける。

 ファラオであるラムセスにさえぞんざいな態度で接するアーデスだが、ネフェルタリは別格だった。アジア人の傭兵は一礼してから、丁寧な所作で立ち上がる。

 ファラオの第一夫人であり、皇太子アメンヘルケプシェフの実母であるネフェルタリは、艶やかな黒髪と、翡翠のような緑色の瞳を持つ凛然とした美女である。

 また、良妻賢母の代名詞と謳われている彼女は、夫の後宮をまとめるだけでなく、他国の王妃と書簡を交わすなど、政治にも助力する才女だった。

 ラムセス大王の手綱を取れる唯一の人物と言っていいこの奥方様は、家臣たちの間では裏のファラオとも呼ばれている。


「それにしても、随分砂にまみれていますね。陸路でお帰りになったのですか?」


 立ち上がったアーデスと、カエムワセトの姿を改めて見たネフェルタリが、上品に小首をかしげて問うた。

 指名されない限り、従者は基本的に口をきけない決まりになっている。ネフェルタリの問いには、カエムワセトが答えた。


「この度は、何故かワニが多くて。船乗りから水路は諦めるよう言われたのです」


 ペル・ラムセスまでの道のりは、“ホルスの道”と呼ばれている主に商人が使う陸路と、ナイル川を北へ下行する水路の二つがある。カエムワセトたちのような旅人は、水路を選択するのが通常だった。

 カエムワセト達も船を使った復路を選んで船着場まで行ったのだが、例を見ない大量のナイルワニの出現で、船乗り達は出航を断念していた。水路が閉ざされた旅人達は、皆が陸路を進む羽目になったのである。


「まあ、珍しい事もあるものですね。――あら?」


 頬に指先を沿えた仕草で優雅に応対したネフェルタリだったが、ある事に気付き、きょときょとと周囲を見渡した。カエムワセトにいつも付き従っている、華やかな忠臣の姿が見当たらない。


「ライラはどこです?一緒ではないのですか?」


「ライラはリラと一緒に風呂だよ」


 ラムセスが愛妻の問いに答えた。

 ネフェルタリが側にいると、ラムセスのざっくばらんさが悪い意味でいっそう引き立つ。


「リラとは、先の旅で一緒になったという、魔術師の娘ですか?一年ほど前に数日間王宮に滞在した後、煙のように消えたと伺っていましたが」


「先ほど、ひょっこり現れました。いつの間にか、私達の後ろに」


「あら。面白いこと」


 息子の説明に、ネフェルタリがくすりと笑った。

 物怖じしない性格は、ネフェルタリも夫に引けをとらない。しかも子供の頃に神殿に勤めていただけに、不思議な現象にも怖けない。

 だが、夫の破天荒な振る舞いと言動には、流石に彼女も難色を示した。


「やれやれ。リラの湯浴みなら、俺がつきあってやるのに」

「陛下。お戯れもほどほどになさいませ」


 すかさず夫の軽口を窘める。

 愛妻に叱られた大王様は、「いやさあ・・・」と言い訳がましい口調で頭をかきながら、三人に質問した。


「ライラの奴、いつの間にリラのこと平気になったんだ?」


「・・・あ」「言われてみれば」


 ライラ最大の性格的特徴をすっかり忘れていたアーデスとカエムワセトが顔を見合わせた。

 次の瞬間、抜群のタイミングでライラの悲鳴が宮中に響きわたる。

 男が女ばかりの湯殿に入るわけにもいかないので、「わたくしが」と、ネフェルタリが早足で謁見の間を出た。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 ベールを潜って湯殿に入ると、ネフェルタリは目の前に広がる光景に目を輝かせ、ほう、と息をついた。


「まあ、なんて美しい」


 自然と、感動に笑みがこぼれる。

 湯殿の中では、浴槽の階段に座って半身を湯に浸けたリラが、湯や花びらを宙に漂わせ遊んでいた。  

 色鮮やかな花びらの大群と、花びらや布の色を反射して虹色の光を放つ大小様々な湯の塊が、室内をくるくると優雅に舞っている。

 ネフェルタリや女官たちがその幻想的な光景に見とれる中、ライラだけが浴槽の隅で頭を抱え、全身全霊で拒絶していた。


「いやーっ!認めない!これは幻覚なんだからーっっ!」

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