第5話 魔術師の土産は神からの警告

 本来王族は、王宮で家臣と供に食事をとらないというのが慣わしである。だが、しょっちゅう都外へ出張しているカエムワセトは、旅先で当たり前のようにアーデスやライラと食卓を囲む。しかも今日は三人の客人が来ているという事もあり、今夜はリラを含めた四人で、宮廷の中庭に続く一室で晩餐会となった。


 女官達が、床に絨毯を敷いて外周にクッションを置き、中央に料理を並べていく。

 干魚や干し肉、乾燥した豆を水でもどしたものなど、しばらく味気ない保存食ばかりだった三人にとっては、久しぶりの食事らしい食事だった。

 そしておそらく、ぼろぼろの衣服で現れたリラにとっても、今夜の食事は豪華な食卓なのだろう。元々、常にうっすらと笑みを浮かべているリラだが、清潔な服に着替え、料理を前にした表情はどこかうきうきとしている。


 土器やアラバスター、他にも閃緑岩製の皿や鉢には、調理されたばかりの料理が、料理の種類によって分けられた器によそわれている。土器には鳩のシチューや焼き鳥などの温かい料理が。アラバスターなど石製の器には、サラダや果物といった冷たい料理を、という具合にである。他にも、三角形に焼かれた山盛りのパンに、ジャムとチーズ。丸く焼かれたハチミツとゴマのケーキが皿に載せられ運ばれてきた。飲み物はハイビスカスのお茶や、ビール、ワイン、ミルクなど数種類から選べる。


 ワインが入った杯を手にしたカエムワセトが、給仕の女からミルクが注がれた器を受け取ったリラに、「どうぞ、食べて」と促した。

 さっそくハチミツとゴマのケーキに手を伸ばしたリラは、薄緑色のドレスに食べかすを落とさないよう気をつけながら、嬉しそうに頬張りはじめる。


「リラ。お野菜やお肉も食べなさい。ほら、ミルクも」


 リラの隣に座ったライラは、浴室でのショックからすっかり立ち直った様子で、小皿に取り分けたサラダやシチューをリラの前に置いていく。

 アーデスはビールを飲みながら、リラに対して姉のように振る舞うライラを不思議そうに眺めた。


「あいつ、苦手だっって言ってる割には甲斐甲斐しいしよな。母性本能ってやつかねえ」


「ライラは優しい人だよ。非科学的な現象が少し苦手というだけで、リラを嫌ってるわけではないし」


「少し、ってレベルじゃねえだろ、あれは・・・」


 控えめな表現を使ったカエムワセトに、アーデスは顔をしかめて低く呟いた。

 ネフェルタリは錯乱状態のライラを落ち着かせる為に、耳元で歌まで歌ってやっという。元神殿の楽士だったネフェルタリの歌声は、さぞかし心洗われるものだったことだろう。

「楽しゅうございましたわ」とネフェルタリは笑っていたが、こちらとしては、うっかり招いてしまった騒動が、十分に防止可能だったものだっただけに、全く笑う気にはなれない。

 当のライラも醜態をさらした挙句、皇后に歌まで歌わせたとあって酷く落ち込み、しばらくの間、自室に閉じこもってしまった。根気強い説得と励ましの末、ライラを部屋から引っ張り出したのは、カエムワセト。それも、つい先ほどの事である。


「しかし、この不思議ちゃん、食べたいものを訊かれてまず『お菓子』って答えるトコなんか、普通の女の子じゃねえか。一個師団を全滅できるほどの魔力を持ってるなんて、信じられねえぜ」


 リラに聞こえないように気をつけながら、アーデスがカエムワセトに話しかけた。

 小柄で華奢なその体からは想像がつかないほど旺盛な食欲を発揮しているリラは、ライラに取り分けてもらった野菜や肉類をぺろりと平らげると、自分がリクエストしたケーキを再びむしゃむしゃ食べだした。浮世離れした独特の浮遊感を除いてしまえば、その姿は、お菓子好きで無邪気な子供にしか見えない。


「そうだな。だが、あの子を戦に使おうとした者は、必ず罰を受ける」


 カエムワセトも声量を落としてアーデスに賛同しつつ、魔術師の真の恐ろしさを口にした。

 魔術師の力は強大である。それこそ、軍に一人いれば千騎の兵を得たに等しい。だが、彼らを軽んじ、私利私欲のために利用しようとする者は、必ずといっていいほど不幸になる。これが、今までエジプト軍が戦争に魔術師を投入してこなかった理由だった。


 魔術師は元々の個体数が少なく、そのため普通に生活していれば一生出会えない事が殆どである。出会ったとしても、人との接触を好まず放浪癖がある性質から、再会を望んで探しても叶うかどうかは運任せだった。だが、国力を結集して捜索すれば、捕獲できない事はない。エジプトだけでなく諸外国までが、あえてそれをしないのは、魔術師が束縛と戦場を嫌い、もし彼らを無理やり戦争に加担させようとすれば、必ず手痛い報復に遭うからだった。

 魔術師は国籍や家を持たない代わりに、この世の中で最も自由を約束された人種だった。


「魔術師が好戦的でなくて良かったぜ」


 そう呟いた瞬間、リラと目が合う。

 垂れ目がちな輪郭の中でアーデスをまっすぐ見つめるその瞳は、驚くほど無垢だった。

 一体どういう生活をしてきたらこんな目になるのだろうと思いながら、アーデスはなるべく優しい笑顔を意識してリラに話しかける。


「あれから今まで何をしてた・・・かは、ライラが怖いから訊かないとして、どうしてまたひょっこり現れたんだ?」


 一つ目の質問を口にした瞬間ライラが眼光を鋭くしたので、実害が出る前に次の質問に移る。

 リラはアーデスに微笑んでから、カエムワセトに顔を向けた。


「あんたに困ったことが起きそうだから、来たんだよ」


 これまでと同じ、ささやくような声と微笑で、リラは第四王子の危機を告げた。

 三人の食事の手がぴたりと止まる。


「私に?」


 確認するカエムワセトに、リラはこくりと頷く。


「ペストコスが、もうすぐ嵐が来るって言うから」


「ペスト・・・?」


 聞きなれない単語に眉を寄せたライラに、アーデスが「ペストコス。セベク神の使いのこと」と説明した。


 セベク神とはワニの頭を持った男神で、農耕地の守護神であり、豊穣の神という性格を持つとされている。ペストコスはその化身や眷属といわれているワニだった。


「つまりナイルワニね。よく食べられなかったわね。無事でよかったわ」


 ライラがそう言ってリラの頭を撫でた。

 神の使いが人間などを喰らうわけがないのだが、ペストコスをあくまで唯のワニとしかとらえていないライラは大真面目である。リラは黙ってにこり笑った。


「お前なあ・・・」


 この期に及んでもなお筋金入りの霊現象嫌いを発揮するライラに、アーデスは呆れた。

 一方、ライラの主人であるカエムワセトはプタハ神殿の神官の位を授かっているだけに、神業や魔法の類に抵抗がない。また、そうでなくては、“トトの書”などという神様が作った伝説の魔術書を探す旅になど出なかったであろうし、四年に渡る旅路の末、それを発見する事もできなかっただろう。


「嵐というのは?」


 今回もリラの言葉を曲解する事無く、質問を投げかける。

 初めてリラが微笑を消して、首を横に振った。


「まだ分らない。どこに来るのか。どうやって来るのか。どんなものが来るのか。でも、エジプト王家に悲劇の一石を投じるのは確かだよ」


「おいおい。それじゃ、ただ脅かしに来ただけじゃねえか」

「アーデス!」


 思わず責める口調になってしまったアーデスを、ライラが叱った。

 リラはカエムワセトたちを怖がらせようとしてやって来たのではない。例え少ない情報でも、王家を守る助けになると信じて伝えに来ている。


「おっと。すまん」


 アーデスが慌てて謝罪した。

 いつもの微笑に戻ったリラは「ううん。はっきりしないのは本当だもん」と、アーデスを擁護した。


「殿下、ご安心を。私は、いつ何時何が起ころうとも王家をお守りいたします」


 胸に拳を当てて身を乗り出したライラが、同い年の主に軍人然とした力強さで宣言する。


「“殿下をお守りします”の間違いだろ?」


 アーデスがすかさず茶化した。代償として、ライラから焼きたてのパンを顔面にくらう。


「ありがとうライラ。頼りにしているよ」


 喧嘩するほど仲がいい。二人の様子を笑いながら、カエムワセトは忠臣に感謝の言葉を述べた。そして、落ち着いた表情で続ける。


「確かにあやふやではあるけれど、神様のほうからわざわざ警告をくれたのなら、それだけでも大サービスだ。今はまだ何が起こるか分らない状況だけれど、だからといって怯える必要はない。前兆をいち早く察知できるよう周囲に気を配りながら、できる限りの準備と心積もりをしておこう」


 カエムワセトは近臣二人と客人の顔を順に追いながら、結論を述べてその場をまとめた。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・

 

 食事が終わって絨毯もクッションも片付けられ、アーデスやライラは翌日から再開する職務の準備の為、各々、兵舎や執務室に行った。カエムワセトも留守中に届いた書簡のチェックのため、一旦自室に戻る。中庭に続く部屋には、リラだけが残った。

 女官の一人がリラに、ナツメヤシのワインは如何かと訊ねる。リラは丁寧に断って、中庭に下りて行った。

 素足に、日中の熱を溜め込んだ石のほんのりとした暖かさを感じながら、庭を見渡す。

 蓮が浮いた大きな池の周りには、多種多様な植物が植えられており、その中でも抜きん出て背の高いヤシの木は、砂漠からやって来る風に吹かれて大きな葉を揺らしていた。嵐の気配など微塵も感じさせない、穏やかな夜だ。


 自室から戻ってきたカエムワセトが、柱の側でころんと転がっていたリラのサンダルを拾い上げて、中庭におりてきた。


「サンダルは?」


 差し出すカエムワセトに、リラは首を横に振る。


「いらない。裸足のほうが好きなんだ」


 カエムワセトは「わかった」と言って、小さなサンダルを揃えて懐に入れた。用意してくれた女官には悪いが、後で返しに行こうと考える。

 初めて会った一年前も、リラは裸足だった。サンダルを履く習慣が無いのかもしれない。

 そもそも、サンダルを履くのは貴族以上の裕福な者達だけである。むしろ、足場の悪い畑で作業する農夫などにとっては、サンダルは邪魔な代物でしかなかった。


「リラの部屋は前の時と同じ一階の、奥から二番目だからね」


 一年前、旅の途中だったカエムワセトと出会い、そのままペル・ラムセスまでついてきたリラは、数日間だけだが、この宮に滞在している。どうせなら慣れた部屋のほうが眠りやすいだろうと、カエムワセトは今回もその時と同じ部屋を与える事にした。

 だがリラは、サンダルだけでなく、寝室さえも要らないと言う。


「ここでいいよ。涼しいし、星がきれい。まるでオアシスみたいだもん」


 リラは一見、生まれてこのかた太陽の下に出たことがないような、か弱そうな少女に見える。だがその実態は、着の身着のまま、たった一人で、砂漠を平気で旅する野生児だ。普通の人間が同じ事をすれば、二日ともたず砂に埋もれてしまうだろう。

 相変わらずの奇想天外ぶりに、カエムワセトは声を出して笑った。


「確かに気持ちがいいね。でも、お客人を外で寝かせるわけにはいかないな」

「いっぱい考える事ができたんだね。ワセト」

「え?」


 ふいに別の話題をふられ、カエムワセトは戸惑った。リラが何故そんな事を言ったのか分らない。だが、その答えは次の言葉からあっさり見つかった。


「瞳の中に色んな心配事が見えるよ。でも、ワセトにはとてもいい変化だ」


 幼い少女の姿と声に似合わない年長者のような口ぶりと、真実を見抜いた発言は、この魔術師の少女が時折かいまみせる、常人でない証だった。

 彼女がこういった奇人の片鱗を見せるたび、カエムワセト達は実感する。

 姿形は愛らしい少女でも、その中身は普通の人間では想像もつかないほどの神秘の知識に溢れ、鋭い勘と目を持っている異端の人。それが、リラという一人の魔術師の正体である。


「リラに出合った頃は、一つの事しか頭になかったからね。この一年で、私を取り巻く環境は随分変わったよ」


 カエムワセトは旅から帰った一年前から、幼い頃より神殿の図書館で蓄積してきた豊富な知識を活かし、ペル・ラムセスの建設や、過去に栄えた王朝の産物などの修復や復元にあたるようになった。遺跡と新都を行き来する生活は決して楽なものではなく、しかも次から次へと各現場からカエムワセトの指示を仰ぐ書簡が届くものだから、常に複数の問題を抱え、何かしら考えている状況が続いている。リラはきっと、その事を言っているのだろう。

 “トトの書”を手放すまでは、水死した兄を蘇らせる事で頭がいっぱいだった。改めて自分は大きな変化をとげたのだと気付く。


「“トトの書”なんか無くったって、ワセトには色んな事ができるもん」


 一年前、トトの書を封印する決意をしたカエムワセトに言った言葉とそっくり同じ台詞を、リラが再び口にした。

 否定の意を拭えないカエムワセトだったが、微笑むだけでとどめておく。


「リラは、あれからどうしてたんだ?」


 気にはなっていたが、側近の平常心を乱さないために控えていた質問をした。

 リラはこの一年を思い出すように、目を細めながら答える。


「色んな生き物と暮らしたよ。トカゲとか、ジャッカルとか、蠍とか、カバとか、人とか。あと、鰐も」

「そこでペストコスに会ったのか?」

「うん。そう」


 神の使いと遭遇するなど日常茶飯事なのだろう。リラは何でもない事のように頷いた。


「ペストコスが感じ取った“嵐”か。・・・・・・・・・ワニだし、水に関係あるのかな」


 カエムワセトは警告を受けてからずっと、余波と考えられるような現象が無かったか、記憶を探っていた。

 数秒の間を置いてから口にした台詞は、半分冗談だった。だが、もし本当に水に関する警告ならば、思い当たる節が無いではなかった。

 リラがおもむろに手を伸ばし、その小さな白い手でカエムワセトの右手を包んだ。驚いて目をしばたくカエムワセトに、いつもと変わらぬ笑顔と声で、はっきりと告げる。


「大丈夫。守ってあげるよ。ちゃんと」


 自分より四つも年下の少女に守ってやると言われ、カエムワセトはしばし、あっけにとられた。そして、男として少なからずのショックも受ける。

 だが、孤独主義の魔術師の一人であるはずの彼女が、助力となるため再び都に足を踏み入れてくれたこの想いは、非常に嬉しかった。


「帰ってきてくれてありがとう。とても心強いよ」


 心から感謝を述べたカエムワセトに、リラが微笑んで右腕を伸ばす。その指先の延長線上には、たわわに実った葡萄の木があった。


「お腹すいた。あれ食べたいな」


 軽く二人分の料理を平らげて間もない状態で、早くも旺盛な食欲を発揮する少女に、カエムワセトは楽しげに笑って快諾した。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 執務室にまだ残っていた司令官に帰還の挨拶をすませたライラは、自室に通じる二階の廊下を歩いていた。松明と窓から差し込む月の明かりに照らされて、石造りの廊下はぼんやりと明るい。

 ライラは視界の隅に入った光景にふと足を止め、窓からすぐ下に広がっている中庭を見下ろした。

 中庭には、リラとカエムワセトが居る。ちょうど、カエムワセトが葡萄の木から葡萄を一房もいで、リラに渡すところだった。


 突如、ライラの脳裏に幼い時の思い出が蘇り、眼下の二人の姿が、昔のカエムワセトと自分の姿と重なった。

 ライラがまだカエムワセトの近臣でなく友人だった頃、幼いカエムワセトはメンフィスの王宮にあった葡萄の木から熟した房を選んでよくもいでは、ライラにくれたものだ。

 ライラは目下の様子に一瞬傷ついたような表情になり、続いてゆっくりと悲しそうに微笑む。だが、すぐに表情を引き締めて前を向くと、何事も無かったかのように颯爽とした足取りでその場を立ち去っていった。

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