第6話 皇太子の苦悩。弓兵小隊長の苦労。
翌朝。朝一番で再度の謁見を終えたカエムワセトを、アメンヘルケプシェフが呼びとめた。
大柱の影のしま模様が延々と続く廊下で、義理の兄弟は立ち話を始める。
兄のアメンヘルケプシェフはまず、弟の無事の帰還を喜び、灼熱の砂漠の中で修復作業にあたっていた労をねぎらった。そして、つい先ほど大臣の一人から聞いた報告内容について、弟に確認する。
「ところでカエムワセト。農夫を本業に専念させろと父上に意見したらしいな」
弟は、さしでがましいとは思ったのですが――と前置きしてから、先程父王にも語った、天体と自然の現象について語る。
「一昨日、セペデト(シリウス)が空に現れました。――が、テーベからの報告では、トキの群れの到着が例年より遅れているそうです。今年の増水は期待できないかもしれません」
「今年は不作の恐れあり、か」
エジプトの農業は、ナイル川の洪水が運んでくる肥沃な土によって成り立っている灌漑農業である。毎年、夏になるとナイル川が増水し、畑の土を新しいものにごっそり入れ替えてくれるのだ。よって治水事業の充実は、エジプトにとって国力の維持と発展に無くてはならない国家事業だった。これが、『エジプトはナイルの賜物』と言われる所以である。
また、天文学は古代の国々にとって、季節を知り、自然の変化にいち早く対応し、農業や神事の指標とする重要な学問だった。
天体の動きと自然の変化。これらを正しく読み取る事により、エジプトのみならず古代の国々は、繁栄を叶えたのである。
トキは増水とともに毎年、北へ渡ってくる。それが遅れているということはつまり、今年の増水量は少ないと判断できるのだ。
「ですから、この時期に農夫を狩り出すのは得策ではありません。もしもの飢饉に備えて農作物の確保と国庫の安定に重点を置くのが賢明でしょう」
「なるへどな。それで、肝心の父上は素直に呑んだのか?」
アメンヘルケプシェフが訊ねた。
ファラオが首を縦に振らなければ、弟の明察も役に立たない。
それに対し弟は、あくまで真面目な口調で兄の問いに答える。
「最初はしぶっておられましたが、誠心誠意説明させて頂きましたので、分ってくださいました。明日には勅令を出すそうです」
とたん、アメンヘルケプシェフが吹き出した。
カエムワセトは、その至極穏やかで実直な人柄を思わせる外見に似合わず、神殿の書物から少なからずの心理学を学び、心理術を心得ていた。今、彼の柔和な笑顔には、その “人たらし”の片鱗が覗いていた。
「誠心誠意か。どう説得したのか知らないが、お前は母上の次に父上を転がすのが上手い。その秀でた交渉術、いつか伝授してくれよ」
「共同統治者である兄上は、ご苦労が耐えませんね。心中、お察しします」
幼い頃より交流が深く、それ故に、多くの兄弟達の中でも特別に仲の良い二人は、困った父親をネタに冗談を交えた会話で笑いあった。
「俺としては頭が痛いよ。国民からしてみればカリスマ性のある賢帝らしいが、ファラオの皮を一枚剥いてしまえば、でかいブロック遊びと女が大好きなただの変人でしかないからな」
冗談めかしてはいるが、実のところ、アメンヘルケプシェフの心境は言葉以上に切実だった。
アメンヘルケプシェフがラムセスと似ているのは、姿だけ。有能であることは確かなのだが、中身はむしろ、父王とは正反対の気質の持ち主であった。つまりは、この上なく “常識人”に近いと言える。そんな人間が何もかも規格外のファラオに付いて政務を学ぶのは、ストレス以外の何物でもなかった。
「そういえば昨日も、ライラが帰ってきたと大変喜んでおられたな。あと、なんといったか、あの風変わりな・・・。ほら、あそこに居る」
アメンヘルケプシェフが大柱の間を抜け廊下の外に出て、中庭の奥を流れる水路に足を浸して遊んでいる一人の少女を指差した。
彼女の肌は、遠目でもその白さが際立っていた。
カエムワセトも兄に続いて太陽の下に出た。
日差しが鋭さを帯び始める中、長い金色の髪の少女は、昨夜着ていた薄緑のドレスの裾が濡れるのもかまわず、ご機嫌に水路の水を足で蹴って遊んでいた。口が小さく動いているように見える。歌っているのかもしれない。
「リラ、です」
カエムワセトが短く少女の名前だけ伝えた。
アメンヘルケプシェフはリラをしばらく眺めていたが、やがて唸って顎を擦る。
「父上は・・・まさかあの娘まで嫁に迎えるとは言わんだろうな」
「それは、心配にはおよばないと思いますが」
束縛を嫌う魔術師を、後宮に縛れるはずがない事くらい、ラムセスも承知しているだろう。ラムセスは少女から熟女、はたまた親族まで守備範囲広く女を好むが、女性の意志を無視してまで手に入れたがる鬼畜ではない。
「それならいい。最近は側室や弟妹が増えるたびに大臣の顔色が悪くなるからな」
カエムワセトは返答に困った。
現在、ラムセスの子供は息子と娘を合わせるとその数は二桁の後半に突入している。しかも記録更新中だ。
普通ならば本当に全員自分の子なのかと疑って不思議ない数字である。
しかし、ファラオの懐は、その称号が恥じ入ってしまうほどに大きく、底知れぬほど深かった。
『気にすんなよ。俺の子として育てりゃ俺の子だろ。いいねえ、子供!大好きだ!』
このままでは王家の血筋が危ぶまれると危惧し、『恐れながら――』と、手打ち覚悟で進言した大臣にも、彼は豪快に笑ってそう答えたという。
王族の血もへったくれもない。
大臣は泣いた。
だがこれには、ラムセスなりの考えがあっての発言で、ヤケになっている訳でも現状を放棄している訳でもなかった。
軍人王を先祖に持つラムセスにとって重要なのは、諸外国の勢力からエジプトを守れる優秀で信用に足る人間を次の王座および要職に就かせる事であって、血筋の維持ではなかったのである。
ラムセスにとって、子供は駒。要は多ければ多いほど良かった。
よってリラを嫁に迎えようと迎えまいと、弟妹はこれからも増え続けるはずだ。大臣の心労は今後も続く事だろう。
「信じられん。ヌバに平気で触っているぞ」
その無数に居る子供達の最初に生まれたという理由だけで、大臣達と共に父の珍プレーに振り回される羽目になったアメンヘルケプシェフは、魔術師の少女が水遊びを止めて、中庭の木陰で寝ていた雄ライオンを撫ではじめた様子を見て驚いた。
ヌバはラムセスのライオンである。よく躾けられ人慣れしたこのライオンが人間を襲う事はまず無いが、大型肉食獣のヌバを恐がる者は多い。鍛えられた軍人でさえ、ヌバが居る故に中庭を避けて遠回りするくらいだ。
虫一匹でも大騒ぎしそうな可憐な少女が、犬猫を愛でるように雄ライオンに接している光景は、なかなかに衝撃的だった。
「彼女は魔術師ですからね。私達の常識は通用しません。ここにも、ワニに導かれて来たそうです」
「そうか、猛獣使いか」
しばしの間、沈黙が落ちる。
カエムワセトは自分が、リラを猛獣使いだと彼に誤解させる発言をしたのだろうかと、先の台詞を頭の中で再生した。しかしそうではなく、猛獣使いという発想は、兄が持つ特徴的な思考パターンが導き出した “回答”なのだと気付く。
「失念していました。兄上もライラと同じ排非科学派でしたね」
宮中でも有名な世俗主義者を引き合いに出されてしまい、アメンヘルケプシェフは慌てて弁明する。
「別に、あいつのように神や精霊などの精神面を無視するつもりはないぞ。物質主義なだけだ。信仰や奇跡のみでは、治世は成り立たんからな」
堂々と物質主義者を名乗るのも如何なものかと思われるが、ライラと同じ人種として扱われるよりは幾分マシだった。
だが、弟が困ったように微笑んだ瞬間、アメンヘルケプシェフは最後の一言が失言だったことに気付き、後悔した。
「そんな顔をするな。俺はお前に感謝しているんだ。エジプトはお前の知識の恩恵を存分に受けている事を忘れるな」
天文学や地質学のみならず、神学にも造詣が深いカエムワセトを、民は『神官の王子』と呼び慕っていた。カエムワセトは、まさにアメンヘルケプシェフがあてにしていない信仰や奇跡といった分野で、治世に貢献している人種だった。
「今のところ私がお役に立てるのは、文官の域がやっとですから」
本来なら、大いに武勲をたてて父王や皇太子を助けたいところだが、カエムワセトは武人としての才に恵まれなかった。早世した兄が生きていれば、武官として、どれだけ父や皇太子の助けになっただろうと考えない日は無い。
「お前ほど優秀な文官はそういない。プレヒルウォンメフの件についても、もういい加減、自分を許してやれ。お前は十三の身空で旅にまで出たじゃないか」
弟の苦悩を知る兄は、声色を優しく続けた。
「それに『イアル野』という所は、不安とは無縁の楽園だという話だ。案外あいつ、楽しくやってるかもしれんぞ」
天国をしめす、『イアル野』。枯れる事の無い国土。たわわに果実を実らせた木々。水は川の底が見えるくらい澄み渡り、神々に見守られながら多くの生き物が暮らしているという。そこには、病も、飢饉も、戦争も存在しない。
「それに比べてこっちときたら、ヒッタイトとのいざこざが収まる気配もない状況で次はアッシリアにリビアだ。この殺伐とした時勢、必ずしも生き残った者が勝ちとは限らんのではないかとつい考えてしまうのが、悲しいところだな」
アメンヘルケプシェフはそう言って石段に腰をかけると、天を見上げ眩しそうに目を細めてから、一つため息をついた。
八年前。エジプトは、北方系民俗が統べるヒッタイト国と大規模に衝突した。これが、カデシュの戦いである。
元々、ヒッタイトは長年にわたって争いを繰り返してきた国であり、お互いに多くの兵士の命と国力を費やし、いまだ関係はくすぶったままだった。
ちなみに、アッシリアは、メソポタミアの北部を占める地域。チグリス川とユーフラテス川の上流地域を中心に栄えている国である。リビアは東側の砂漠地帯だった。どちらも近年、勢力を伸ばして来ているという。
大陸に四肢を広げる国は、戦火にさらされるのが常である。国土を広げては奪われる。その繰り返しだった。
「俺がカデシュで最後に見た光景は、紛れもない地獄だった。草原が敵味方双方の血で染まり、地面は戦死者で埋め尽くされて見えない。だだっ広い平原に、負傷兵や馬の叫び声が不気味に響き渡って・・・凄惨としか言いようがなかった。あんな戦はもう御免だ」
「私はまだ幼かったので、戦いの惨状を目の当たりにはしていませんが、その惨さは想像できます。エジプトは二万の兵の半分以上を失ったのですから」
ラムセス二世も、カデシュの闘い以降は大きな国土拡大は行っていない。それは、いつ何時再開するかもしれないヒッタイトとの衝突と、徐々に脅威を増してきているアッシリアやリビアに備えているが故というのが建て前だ。だが、家臣及び国民からしてみれば、『戦争などもう真っ平』というのが本音だった。そして口には出さないが、ラムセスの腹の内もそうなのろうと、息子達は思っている。
「十五の俺には相当刺激が強かった。お陰で未だに夢に見る。だから今後、ど派手な武力衝突だけは、どんな手を使ってでも阻止したいんだ」
十五歳の非力な少年から、二十三歳の大人へと成長したアメンヘルケプシェフには、それを主張する権利も、力も得た。
最後のくだりで表情を引き締めた皇太子の横顔は、王座を継ぐ器を十分に備えた男のそれだった。見る者を引きこむ磁力と、人を従わせる力がある。そして何よりも、エジプトを守り抜くという強い意志が感じられた。
「私も及ばずながらお手伝いいたします」
頷いて言ったカエムワセトに、アメンヘルケプシェフは次期国王の顔から一人の優しい兄の顔へと戻り、弟でもあり無二の親友でもある男を見上げた。
「お前は優しすぎるから心配だ。そのくせ変なとこで頑固だからな。頼むから殺されたりせんでくれよ」
弟は笑って「ご心配、痛み入ります」とお辞儀した。
もうすぐ会議の時間になる。そうなると、皇太子は夜遅くまで、書類の山と年寄りの小言と父王からのプレッシャーと戦い続けなければならない。なんだかんだ言っても、あの父王は希にみる賢帝なのだ。
驚くほど大きな器と才量を持つ男の働く姿は、尊敬に値するものでありながら、“手本”として背中を追う者にはあまりにもハードルの高い存在であることだろう。
兄は、父のようにはなれない。
カエムワセトは思う。
記憶している限り、カエムワセトは、父が憂いているところを耳にした事がない。勿論、あの破天荒で無邪気で自信に満ち溢れている人間にも憂いがないわけではない。真に心を許し、且つ頼れると判断した者にしか表出しないのだろう。
否。できない、のか。
強さと脆さは表裏一体だと、カエムワセトは父を見るといつも感じる。
優しく心が萎れやすい兄は、父のような強靭な王にはなれないだろうが、優しさとしなやかさを兼ね備えた義王になるはずだ。
特別強靭でなくともしなやかさがあれば、少々の暴風には耐えられる。この街を囲んで守っている、ヤシの木のように。
そのために、自分ができることは、兄の心を揺さぶる不安の風を少しでも和らげてやる事である。
ただし、虚言を使った慰めだけは言わないでおこうとも、決めている。
ふと、リラの姿が目に入った。リラは、自分よりも四倍以上体重がありそうなヌバとじゃれあい、楽しげな笑い声を上げている。その姿は、とても幸福そうだった。
「リラがああやって生きているのですから、生きてこそ得られる幸福もきっとあるのですよ」
自分達よりもはるかに広く深い世界に住まう魔術師。争いと人との慣れ合いを嫌う者が、こうやって現世にとどまっているのが、現世に幸福を見出している何よりの証なのではないか。
カエムワセトの言葉に、アメンヘルケプシェフは「なるほど」と頷き、笑った。
「お前にトトの書を手放させた娘なだけに、説得力はあるな」
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カエムワセトが兄と廊下で語り合ったその日の夕刻。アーデスは、練兵場に残って訓練を続けている弓兵隊の一団を発見した。
城壁の向こう。夕日の光を浴びて紅く輝いているナイルの流れをバックに、麦粒のような兵士が縦隊を作り、次から次へと矢を放っている。
五十名ほどの人数から察するに、小隊のようだ。
彼らが行っているのは、投射器を使って的を放ち、それを射るという訓練法だった。
この訓練法は、設置された的を射るよりも、はるかに集中力と技術力を要する。普通なら、訓練も終板であるこの時間帯に行う方法ではない。陽が落ちて的が見にくくなっている上に、疲労で集中力の低下も伴っているからだ。
観察していていると、五人一列に並んだうち的に命中させているのは、せいぜい三人だった。日中ならもう少し的中率も高いのだろうが、それにしても酷い有様である。
アーデスはその団体の中に、見知った人物を発見した。最初は弓兵達の命中率の悪さばかりに目がいっていたが、鮮やかな色の髪留めでいくつにも房分けした夕焼けよりも紅い長髪をなびかせ、仁王立ちで兵達を喝っしているその人物の姿は、一団の中でひと際目立っている。軍内で希少価値である女戦士の中でも、ライラ小隊長は一等華やかな存在だった。
―― うーん・・・。遠くから見てもナイスバディだねぇ。あれでちょっと化粧して着飾りゃ、余裕で高官をたらしこめて悠々自適の生活を送れる逸材なんだがなぁ。
本人が聞けば「余計なお世話だ」と激怒するところだろうが、口に出さず考えるだけならアーデスの自由であり、怒らせるリスクも伴わない。
決して、軍人として劣っているから、さっさと嫁に行け、と思っている訳ではない。むしろ、彼女は軍人として、ファラオも認める有能さを誇っている。加えて、豊満な胸は弓兵にとって邪魔でしかないのだが、そのハンデを感じさせない彼女の弓術は、もはや芸術だった。その裏には勿論、彼女の人一倍強い負けん気と、努力、そしてある人物に対する恋慕の情念が在るのだが、彼女はめったにその裏側を見せようとはしない。
――しかし、何を間違ってムッキーズなんかと砂に塗(まみ)れる方を選んじまったんだか・・・。
アーデスはそんなライラが残念でならない。お育ちの良いお姫様のような上品で静々とした美しさではなく、ライラにはライオンや虎のような捕食動物を連想させる力強さと魅力があった。それをこのまま、戦いと筋肉磨達の調教に費やしてしまうのは、非常にしのびない。
―― と、あいつの将来を心配してる場合じゃないんだよな、俺も。
三十一歳、独身。恋人募集中。己の身の上の寂しさを自覚し、少し気が滅入った。
アーデスは女も子供も好きだ。だが、いかんせん戦場での生活が長すぎた。
アーデスは、見目はそれほど悪くない。と、自分でも評価している。アジア人なので肌はどちらかといえば現地人よりも黄色味を帯びて明るいほうだ。傭兵として鍛え上げた肉体と精神は立派なものであるし、顔立ちは精悍。「髪が落ちてこんから楽だ」という理由からしている、側頭部を刈り上げ、上半分を細かい三つ編みに分けて後ろで束ねた髪型も、よく似合っていると評判がいい。
アーデスになかなか女性がつかないのは、その淡白すぎる性格が原因だった。女性はアーデスのあまりに非情熱的な対応から、『私は本当にこの人から愛されているのかしら』と不安になり、やがて離れていってしまう。これが毎度のパターンだった。
アーデスのこの性格は、生まれ持ったものというよりは、幼い頃から生活の中心だった荒んだ戦場生活が原因だった。いつ何時命を失ってもいいように執着は最低限に、と心掛けていたものがいつの間にか通常になっていた。
だから、同じく戦場を仕事場とするライラには、自分のような道を歩んでほしくはない。と、考えるのがアーデスなりの友情であり、兄ではないが兄心であり、父でもないが父心だった。
だが、改めて考えてみると、若くてそれこそ本物の“ぴちぴち”であるライラの将来などは、まだまだ可能性に満ちており、さほど心配したものではないのかもしれないと、アーデスは認識を改める。そもそも、軍人だから皆アーデスのように婚期を逃すのでは、いくら生活が保障されているとはいえ、誰も軍に入隊したがらないだろう。
アーデスはだらけた足取りで石段を下りると、ちょっと目を吊り上げているくらいが魅力的な、若い小隊長に歩み寄った。
「おう。もう日暮れだぜ」
小隊長は後ろから声をかけた護衛仲間を顧みると、すぐに顔を戻して「次!」と兵達に指示を出した。
矢を放ち終わった兵が後ろへ回り、その次に控えていた五名が前に出て弓をつがえる。
「全員十本中てなきゃ帰れない事にしたの」
前をむいたまま、ライラが少し遅くなった返事を返した。何やら背中から刺々しい雰囲気が漂っている。
「・・・なんでまたそんなスパルタ?」
「ナイジェルのやつ!私が留守なのをいいことに演習さぼってやがったのよ!お陰で全員、この体たらく!嘆かわしいったらありゃしない!」
聞くと、ライラの副官を務めるナイジェルは、ライラが留守をしていた丸一ヶ月の間、他隊との合同演習も行わず、だからといって戦車射術の練習もせず、ただ制止的を射るだけの訓練を延々と繰り返していたらしい。
本日、午後に戦車隊との合同練習を行ったところ、他小隊との圧倒的な戦力の差がみられ、その上、ライラが最後に行った一か月前の演習時と比べて全体的に命中率が低下していたという。ライラがすぐさま副官を呼びつけ詰問したところ、副官が上記のような練習内用を白状したのだそうだ。
何人ノルマを達成できたのかを訊ねると、一時間ほど前から始めてまだ七名だという。
「そりゃ嘆かわしいったらありゃしねえなぁ・・・」
と、アーデスはライラの台詞を借りて感想を述べた。そして、空を見上げる。太陽はもう、今にも沈まんとしていた。
「けど、もうそろそろ限界じゃねえか?」
「そんなことないわ。私はまだ中てられるもの」
そう言うと、ライラは薄暗い中、さっと矢をつがえて部下が打ち損じた二つの的を見事連射で撃ちぬいた。部下達から歓声と拍手が起る。
その緊張感に欠けた部下達の反応が、ライラの逆鱗に触れた。
炎のような紅い髪を逆立てた弓兵隊小隊長は、最も盛大に拍手をしていた部下につかつかと歩み寄
ると、そのジャッカルも恥入る美脚で蹴り飛ばした。
「この無能どもが!今のあんた達より、狩人のほうがよっぽど腕が立つわ!そのたるみきった弓術と神経を今日中に直せなかった奴は、明日から練兵場でなく川岸で兵士達の食事用に水鳥を狩る事になると思いなさい!分ったか!」
「は――はいっ!」
眉と目を最大限に吊り上げ啖呵をきった上官に、兵士達は雷に打たれたように姿勢を正す。
これは恫喝ではなかった。ライラは、やると言ったら本当にやる。それを十分承知している部下達は、一様に青ざめた。
蹴られた弓兵は、ライラと同じ歳か、やや年上の青年だった。上背もライラより一回り大きく、体重も下手をすると一・五倍の差がある。その青年が、不意をつかれたとはいえ、一蹴りでふっ飛んだ。それだけライラの脚力が強いという事である。男社会の色が強い軍隊で、ライラが兵達に軽んじられる事無く隊長を務めていられるのは、彼女の、この男顔負けの戦闘力にあった。弓術にしても格闘術にしても、彼女は男性兵士に引けを取らない。
女性としてではなく、戦士としてライラに憧れを抱いている兵士も少なくなかった。
アーデスは、留守中にすっかり訓練生に戻ってしまった部下達を持つ小隊長に同情せずにはいられなかった。再教育は、きっと大変だろう。
「で、その働き者の副官はどこだ?」
再開した射的訓練を眺めながら、アーデスが訊ねた。
お説教が効いたのか、さっきよりも命中率が上がっているようだ。
「こてんぱんに叱って、今日は帰らせたわ」
「怒鳴りつけてるところが目に浮かぶぜ・・・」
ライラの副官は、昇進とは縁が薄そうな、調子がいいだけの貴族出身のアホボンだ。不真面目な彼に対するライラのぶち切れ具合は、さっきの比ではなかっただろう。身も凍るような罵倒語でめった打ちにされた坊やは、今頃泣きながら自宅で辞表を書いているかもしれない。
だが、この現状に対してライラに責任が無いでもなかった。
―― 隊長がしょっちゅう留守してるってのも、問題だと思うけどな。
ライラはカエムワセトの出張には護衛として必ず同行する。これは、ライラにとって、なんとしても譲れない最重要任務だった。それはライラの上官もよく知っている。カエムワセトの護衛が、ライラが本軍の弓兵小隊長就任の誘いを受けた時に提示した、一番の条件だったからである。
だがカエムワセトが出張する度に、ライラの小隊は数日から長くて数ヶ月、隊長不在という事態に陥る。だからといって兵士達が腑抜けてしまうなどは言語道断なのだが、士気の低下は避けられない代償だった。ライラは帰還の度に、先ほどのような調子でブイブイ飛ばし、低迷した士気を叩き上げなければならない。また、それができているからこそ、上官もライラの出張を許しているのだろう。
己の将来も心配ではある。だが、軍人として有能でありすぎるが故に、想い人との関係は前にも後にも一向に進みそうにないライラの、女性としての将来も、やはり憂いてしまうアーデスであった。
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