第7話 嵐が歩いてやってきた

 ぺル・ラムセスの大通り。人がごった返す道の真ん中を、一人の少年がふらふらとした足取りで歩いていた。

 砂と汗で汚れに汚れたその小さな体が往来を幽鬼のような足取りで歩むたび、すれ違う人々はぎょっとして道をあけた。中には彼を案じ、「おい、坊主大丈夫か?」と声をかける者もいる。しかし彼は返事を返さず、目的地に向かってふらふらと歩みを進めるだけだった。虚ろな瞳は、ただ一点を見つめている。

 少年が目指す先は、王宮だった。


 王宮の最外周にある門前では、左右にひとりずつ兵が配置されている。

 兵の一人が危うい足取りで近づいてくる少年を見つけ、槍を構えた。


「おい、そこの。止まれ」


 今にも倒れそうな少年のその姿ゆえ、兵士の声はさほど緊張していない。

 おそらく腹をすかせた路上生活者だろうと勝手に判断した兵士は、切っ先を少年に向ける事もしなかった。

 少年は兵士の前にぐしゃりと膝から崩れ落ちると、落ちくぼんだ目で兵士を見上げ、懇願した。


「どうか王子に・・・お目通りを。お願いします」


 そのただならぬ様子に兵士は一瞬たじろいだが、直ぐに厳しい態度に戻り少年を叱りつけた。


「馬鹿を言うな!簡単に目通りが叶う訳がないだろう」


「お前、腹が減ってんのか?」


 反対側にいた兵士が、少年に気遣わしげに訊ねた。

 少年は首を横に振ると、大粒の涙を流しはじめた。


「おねがいします、助けて下さい!殿下!でんかぁぁぁ!!」


 悲鳴を上げるように泣き叫ぶ。

 身なりはボロボロで、極限までの乾燥でひび割れていた唇からは、口を大きく動かした事で血が噴き出した。その姿と声には鬼気迫るものがあり、おののいた兵士たちは思わず後ずさった。

 そこに、一人の男の影が加わる。


「殿下っつーのはどの殿下だ。この国は王子だらけだぜ」


 泣き叫ぶ少年の上に落ちた男の影は、やや渋みのある落ち着いた声で少年に訊ねた。

 少年が涙に濡れた顔を上げると、中天にさしかかる太陽の元に、日焼けした中年の男の顔が浮かび上がった。


「名前を言わんにゃ分らん」


 日に焼けた顔の男は少年を見下ろし、しかめ面でそう続けた。

 人の良さは感じさせないものの、この男が信用に足る人物である事を少年に確信させる程度には、彼は良心的な人相をしていた。


「アーデス殿」


 少年に槍を向けた兵士が、中年男の名前を呼ぶ。

 アーデスは、ラムセスの所要から帰ってきたところだった。


 少年はアーデスの脚にすがりつき、「カエムワセト!」と声を震わせた。


「カエムワセト殿下に、会わせて下さい」


 絞り出すように言うと、少年はそのままばたりと倒れて動かなくなった。



 宮殿の庭。アカシアの木陰に座り、カエムワセトからハイビスカスのお茶を手渡されたリラはカップに口をつけようとしたところで、ふと顔を上げた。そして庭の向こうを見ると、すっと立ち上がる。その一連の動きは、まるで何かの気配を察した動物のようだった。リラの瞳は、今この場にはない遠くのものを見据えている。

 立ち上がった際にこぼれ落ちたお茶が、リラの白い手を伝ってぽたぽたと地面に落ちて染みを作った。


「リラ、どうした?」


 気遣わしげに訊ねてきたカエムワセトに、リラは静かに告げた。


「きたよ・・・嵐」


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 死んだと思われた少年は、気を失っていただけだった。

 兵士たちが止める中、アーデスの小脇に抱えられて入城に成功した少年は目を覚ますと、ここはどこかと訊く間もなく城の女官数名に囲まれ、風呂に放り込まれた。フラフラで風呂から上がった彼を待っていたのは清潔な衣服と、ぱっくり割れた唇を保護する軟膏と、野菜を柔らかく煮込んだ軽い食事だった。


 そして彼は今、一人の青年の前に跪いて座っている。


 夕方にさしかかるやや赤みを帯びた日差しが、青年の柔和で理知的な顔を照らしていた。

 最低限の装飾品と白い衣に身を包み、頭巾を取った青年の姿は、一見、神官のようでもあった。しかし、強い意志を感じさせる眦と全身から漂う気品が、彼が一介の神官に収まる器ではない事を示している。

 更に、椅子に腰かける彼の後ろに完璧な立位姿勢で従う赤毛の女兵士や、戦士のようないでたちをしている昼に自分を助けた中年の男の存在が、青年が相応の身分である事を語っていた。

 そして、金色の髪の少女の存在感は少年から見ても異様である。

 少年は落ち着かず、そわそわと身体を動かした。


「君は?」


 短く訊ねた青年のその声は驚くほど柔らかだった。親切な言葉がけをされた訳でもないのに、心身ともに憔悴していた少年は思わず涙をこぼした。

 少年は慌てて涙を拭き取ると、はっきりとした声で答える。


「ハワラといいます。メンフィスから来ました」


「独りで?」という質問に短く「はい」と返すと、青年は驚いたように目を見開いた。

 後方の女兵士も、驚きを隠せないといった様子でハワラを見やる。


「死ななかったのが奇跡だな」


 城門で倒れたハワラは、路銀や武器はおろか水袋さえ持っていなかった。メンフィスからぺル・ラムセスまでは、大人の足なら休憩なしで丸一日。子供ならその倍はかかる。よくそれで砂漠を超えられたものだと、中年男は感心した。

 年齢を聞かれたので、ハワラは12歳だと答えた。


 青年は「そうか・・・」と独り言のように呟くと、中年男に顔を向け、無言の質問を投げかけた。

 青年の言いたい事を悟った男は、広い肩をすくめ「ご自由に」と言う。必要最低限の会話さえ不要なほど、彼らが親しい間柄である事をハワラは理解した。

 青年は男に頷いた。そして、ハワラに向き直る。その瞳には、先ほどとは変わって、決意の色が浮かんでいた。


「ハワラ。自己紹介が遅れてすまなかった。私はカエムワセト。この国の第四王子だ。君を城門で助けた彼はアーデス。私の剣の師匠だ」


 師匠だと紹介された中年の男は嫌そうに顔をしかめると、「やめろ、ただの傭兵だ」と訂正した。


「あなたが、カエムワセト王子」


 目の前の物腰柔らかな青年が自分の求めていた王子だと知ったハワラは、安堵した反面緊張した。

 お飾りの王子ではなく、民から『王族』と呼ばれるに値するだけの風格が、歳若いこの王子には既に備わっている。優しそうに見えるが、容易い相手ではない。

 ごくりと唾を飲み込んだハワラに、カエムワセトは穏やかに促した。


「私の助けを求めて来たと、アーデスから聞いている。どこまで力になれるか分らないが、話してもらえるだろうか」


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 ハワラの頼みは、カエムワセトが発見したトトの書を使って、最近病死した母親を生き返らせてほしいというものだった。父親はおらず、彼の下にはまだ幼い妹や弟達がいるのだという。

 このままでは兄弟路頭に迷い最悪死んでしまう。何より母親が恋しいのだと、ハワラは泣いた。


「身勝手なお願いだとは存じております。ですが、どうかお助けください」


 床に額をこすりつけ、必死に慈悲をこう。


 魔術が存在し、医療も日々発達し、豊かな国力を誇ってはいても、平民にとってはまだ生活環境が厳しいエジプトでは、不幸な理由で家族を亡くす者は少なくない。親を亡くし路頭に迷った末、路上生活を強いられる子供や、娼館に身を投じる少女も大勢いた。

 事実、この場に居る全員が、家族の全てまたは一部を亡くしている。寂しさを満たし生活を守るため、死んだ親を生き返らせたいという願いは、この国ではあまりにも贅沢すぎた。


 同情と非難が混じる沈黙の中、カエムワセトは土下座するハワラの背中を静かに見ていた。が、やがて立ち上がり、膝をつくと骨の浮いた小さな背中にそっと手を添える。


「すまない、ハワラ。君の母上を生き返らせる事はできない」


 顔を寄せ出来る限り優しく、しかしはっきりと、カエムワセトは告げた。 

 ハワラは顔を上げると、「何故です!」と語気を荒げた。「トトの書があれば、死者の再生も可能だと聞いております。殿下はお持ちなのでしょう!?」

 それに対しカエムワセトが、「私はもう、トトの書は持っていない」と答える。


「やはりあれは、私のような人間が扱ってよい代物ではなかったんだよ。だから見つけてすぐに封印してしまったんだ」


「嘘を仰らないでください!」


 カエムワセトの説明に、ハワラが立ちあがって叫んだ。

 ここまで微動だにしなかった赤毛の女兵士がピクリと身体を動かし、素早く腰の剣に触れる。カエムワセトは後方を振り返る事無くさっと右手を上げ、抜剣を止めさせた。


「何故嘘だと?」


 突然殺気を帯びて剣を抜こうとした女兵士の行動にうろたえたハワラだったが、根拠を問うカエムワセトに、跳ね返る心臓を手で抑えながら答える。


「だって、カエムワセト殿下は最近も、何度も街や村を風水害から守るという奇跡を起こされたと聞いています。それは、トトの書の力をお使いになったからではないのですか?」


 今度はアーデスが「あん?」と眉をしかめた。


「奇跡って、あの天気予報のことか?」


 カエムワセトは旅の途中や遠征先で洪水や暴風を予期し、被害を最小限に抑えて人々を助けた事が幾度かある。

 カエムワセトに付き従っているアーデスが思い当たるエピソードはそれくらいだった。

 ハワラは奇跡と言ったが、実際やった事は大いに人力に頼った突貫工事である。奇跡と呼ぶのは大げさすぎた。

 だが、アーデス以上に主人に尊敬の念を抱いている赤毛の女兵士は、天気予報という表現を許さなかった。


「やめてくれない?あんたが言うと、殿下の偉業が安っぽく聞こえるのよ」


 ムッとした表情で異議を唱えたその声は、ハワラが予想していたものよりも幾分高かった。

 カエムワセトが困ったように笑う。大人しくはあるが、年相応の笑顔だ。これが彼の本当の顔なのだろうとハワラは思った。


「アーデスの言うとおりだよ、ライラ。私は災害を予告しただけで、回避はしていない」


 ライラと呼ばれた赤毛の女兵士は、主の言葉に渋々頷いた。


「ハワラ。国を守ったのは私でなく国民だ。彼らが来る災害に備えて食料を備蓄し、防壁を築いたからこそ、災難を最小限に抑えることができたんだ。奇跡なんかじゃなくて、人の力が成し遂げた成果なんだよ」


 カエムワセトは言い聞かせるように、ゆっくりと話す。

 ハワラが噂に聞いていたカエムワセトの姿は、膨大な知識と強大な魔術を操る救世主のような人物像だった。しかし、カエムワセト本人から告げられた事実は噂よりもずっと平凡で、その人柄も謙虚で親しみやすかった。

 興奮が冷めた様子のハワラに、カエムワセトは続ける。


「確かに私は、自然の声をよく聞けるのかもしれないね。けれどそれは、学べば誰でも身に付けられる特技であって、魔術ではないんだよ」


「では、殿下は魔術を使えないのですか?」


 その質問に、カエムワセトは答えなかった。その代わりライラが、掌で金色の髪の少女を示す。


「魔術師は、このお嬢ちゃんよ」


 ライラに紹介された少女は、ハワラににこりと笑顔を贈って指先で手を振った。

 光明を見つけたように、ハワラの顔がぱっと明るくなる。


「それじゃあ、あなたは母さんを生き返らせる事が出来ますか」


 それに対し少女は薄く微笑んで「できない事はないよ」と答えた。そして同じ表情で、「でも、あんたのお母さんはきっと不幸になるよ」と続ける。


「この世の魔術は全て自然の力を借りたもので、ちゃんと決まりがあってね。死者の復活は、復活する者を自然界の輪から完全に放りださなきゃいけないんだ。生き返った者は、もう二度と来世(あの世での生活)が叶わない。それでもいい?」


 少女の無垢な笑顔と口にしている内容の残酷さの差異に、ハワラの頭は混乱する。

 死後の世界に希望をみいだしているエジプトでは、死ねばよほど貧しくない限りミイラ職人に遺体をミイラ処置してもらい、セム神官一般的な神官に祈祷や呪文を唱えてもらい、護符を挟み、生前の愛用品や食べ物と共に遺体を埋葬する。そうすることで、死後の世界である来世に辿り着くまでに訪れる試練に打ち勝ち、魂が再び肉体に戻ろうとした時に困らぬよう身体を確保するのである。

 そこに支障が生じるのは理解できたが、具体的にどのような弊害が起こるのか、ハワラには分らなかった。


「つまり・・・どうなるの?」


 おずおずと遠慮がちに訊ねてきたハワラに、魔術師の少女が、非常に分かりやすい言い回しで絶望的な結論を告げる。


「次に死んだら最後。オシリス冥界の神の元に行けず、魂は永遠に暗黒を彷徨うしかないんだよ」


 ハワラは絶句した。

 ライラとアーデスもこれは初めて知った事柄であり、神妙な面持ちで顔を見合わせる。

 一年前、リラに全く同じ事を言われたカエムワセトだけが、打ちひしがれる少年の小さな肩に手を置いた。


「私も腹違いの兄を生き返らせたかったんだ。でも諦めたよ」


 ハワラは、青ざめた顔で床を見つめながら「知らなかった・・・」と呟く。


「例外は・・・ないんですよね」


 奇妙な質問をしてきたハワラに、魔術師の少女は首を傾げると、「わたしが知る限りでは」と答えた。


「あんたのお母さんの遺体はもう埋葬されたの?」


 ライラの声色が普段に比べ幾分優しいと感じたのは、アーデスだけではなかった。主の御前に連れてこられた所在の知れない少年に対し抱いていた警戒心は随分和らぎ、同情の念すら抱き始めているようだ。


 ライラの問いにハワラは、死んで二週間ほどなので、まだ処置室だろうと答えた。


 ミイラ処置には、最も安易なものでも70日ほどを要す。今は多分、腸内の洗浄を終え、乾燥・防腐作用のあるナトロンに浸されているところだろう。

 家を空けている間、下の兄弟たちは、親しくしていた近所の女性にみてもらっているという。

 それなら急ぐ必要はなさそうだとカエムワセトは判断した。


 気付くと陽はすっかり落ちていた。灼熱の昼間とはうって変わり、湿り気を帯びた冷たい風が部屋に吹き込んできた。


「部屋を用意するから今日はゆっくり休むといい。帰る体力が戻るまで、数日いてもかまわない。帰りはアーデスに送らせよう」


 カエムワセトの提案にアーデスが「なんで俺?」と面倒くさそうに異議を唱えた。しかしそこは、全員から無言の視線を頂戴し、諦める。


「はいはい。担ぎ込んだのはオレでございますよ。責任持ってお家に届けてやるさ」


 両手を上げて降参の意を示したアーデスに、カエムワセトがくすりと笑った。


「ちゃんと送ってあげようね。来世に行けるように」


 リラの言葉に、ハワラがこくりと頷く。

 それじゃ、とカエムワセトが立ち上がった。

 女官にハワラの部屋の準備を頼んでくるからここに居るよう指示を出し、部屋を出て行く。そこを、ハワラが呼びとめた。

 振り返ったカエムワセトに、ハワラは「おそれながら――」と手をもじもじさせて言った。


「殿下に母の葬儀をお願いできないでしょうか」


 予想だにしていなかった頼みに、カエムワセトは驚いた表情でハワラを見た。

 ライラとアーデスは黙っていたが、各々呆れかえった表情は、『そいつは無理だろ』と言っている。


 カエムワセトは、メンフィスにあるプタハ大神殿の神官でもある。故に、理論的に言えばカエムワセトがセム神官の役割を担うことも可能だ。だが、カエムワセトはエジプトの王子であり、公務で多忙な日々を送っている。今日初めて会ったばかりの少年の母親の葬儀を、しかもわざわざ遠方に出向いてまで行うなどまずをもってあり得ない。

 ハワラもそれは分っていた。だが諦めず食い下がる。


「母は父が亡くなってから、女だてらに慣れない装飾細工職を懸命にやってきました。それでもうちには十分な供物を用意して上げられるだけの財がありません。殿下に送って頂けたら、母も来世で安らかに暮らせると思うのです」


 苦労がたえなかった母親を想う息子の気持ちは分らなくはない。しかし、一般市民が王族に目通りできただけでも奇跡のようなものなのに、更に無理難題を言ってくるのはいかがなものか。アーデスは頬をぽりぽり掻きながら「おい、お前な」とハワラを窘めかけた。だが、カエムワセトの「承知した」との返事に「はあ?」と素っ頓狂な声を上げる。


「幸い、私は旅から帰ったばかりでまだ時間に余裕があるんだ」


 穏やかに言ったカエムワセトに、そういう事じゃないだろ。とライラとアーデスが心中で突っ込む。

 時々この王子は、己の立場を心得ていないかのような発言や行動をとる事がある。幼い子供ならそれも微笑ましく思えるが、目の前の主は18歳の分別ある大人である。己の行動や発言が、いかに常識外れで家臣を悩ませるか分っている上でそれをやる確信犯は、破天荒な父親との血のつながりを感じずにはいられなかった。


「小僧。お前の母親はプタハ大神殿で世話になるのか?」


 眉間を揉みながら、念のためアーデスが確認する。

 プタハ大神殿は、メンフィス最大の、神殿総合施設のような場所である。そしてその規模は、プタハ大神殿がメンフィスで最も力を持つ証でもあった。供物も十分に用意できない貧しい平民が世話になれる場所ではない。

 アーデスの予想通り、ハワラは、自分達家族が普段利用するのは町の外れにある小さな神殿だと答えた。


「仕事を横取りする事になるぜ。お前さんの上司が許すとは思えんぞ」


 カエムワセトの上司であるプタハ大神殿の最高司祭は神経質で頭の固い男だった。そんな人物が、マナー違反とも言える行為を部下に許可するはずがない。


「確かに、フイ最高司祭には怒られるかもしれないが」


 苦笑いながも、カエムワセトは悪びれない調子で続ける。


「これも何かの縁だ。聞けない願いではないよ」


 アーデスは、自分の主人はその柔和な外見に反して、こうと決めたら譲らない性格である事を承知している。

 これ以上の問答は無駄だと悟ったアーデスは、「分かった」とすんなり退いた。

 主人を同じくする女兵士をちらりと見ると、彼女は困ったような笑顔で部屋を出て行くカエムワセトを見送っていた。その心情を容易に想像できたアーデスは、「うへえ」と口をゆがめた。


――どうせ、『まったく、お優しいんだから。困ったヒト』くらいに思ってるんだろうさ。恋する人間ってのは、どうしてこうも脳内お花畑なのかねぇ。


 一方、リラは藍色の空に登った月を眺めていた。今夜は満月だった。

 部屋と呼んではいてもここは、庭に面した壁が殆ど柱のみで構成された列柱室である。故に、夜には月や星明かりが十分に差し込み、今日のような満月であれば時に、松明やランプを灯さずとも同室の人物の表情が分るほどに明るい。

 直情的なライラに反して、普段から掴みどころのないリラが今何を考えているのかは、明るい月明かりの下でも読み取れなかった。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 女官が盆にオイルランプを乗せて持ってきた。先程までカエムワセトが座っていた椅子にアーデスとライラの分の二つを置くと、残り一つを持ってハワラとリラに夕食の用意が出来たと声をかける。

 今日は、それぞれが別に食事をとる予定になっていた。


 三人が部屋から出て行くと、アーデスは「あーちくしょう!」と頭をがしがし掻いた。


「どうしたの?」


 珍しく苛立ちを顕わにしている同僚の様子に、ライラは訝しんだ。

 アーデスは苛立ちの混じったため息をつくと、ライラに答える。


「ありゃあ殆どが嘘だ」


 ライラは数秒間黙った後、「あれって、どれよ」という間抜けな質問をしてきた。アーデスは「ハワラだよ」と、少年が今さっき出て行った扉を顎で示した。


「あの子が?まさか。あんなに真剣だったのに?」


 歳若い女兵士は、すっかり情にほだされてしまっていた。母親。子供。幼い兄弟。この三つを出されては、彼女の年齢と経験値では仕方ないのかもしれない。


「年長者を甘く見んじゃねえぞ。眼の動きに身体の動き、それから声の調子。下手クソなスパイまんまだぜ」


 傭兵としてラムセスに雇われいくつも戦場を経験し、波乱万丈な人生を送ってきたアーデスは、間者を捉えて尋問した経験も数多い。ハワラの挙動は、大した訓練もされず捨て駒として使われていた彼等と全く同じだった。


「大体、なんであいつはワセトがトトの書を発掘した事を知ってんだ。トトの書の事は、限られたもんしか知らんはずだろ」


 ここまで説明して初めて、ライラが「あっ」と口に手を当てる。


 カエムワセトのトトの書を求める旅は公ではなかった。ましてや民衆に、旅の目的が知らされる訳がない。


 強大な魔力を持つ神々の書は、力を求める人間には渇望する至高の宝であり、奇跡を求める者はそれを手にした人間にすがろうとする。だが、神々の知識はそれを手にした人間に、幸福は与えない。その至宝の力を使おうとした者には罰が与えられると信じられている。トトの書を手に入れた時点で、カエムワセトは命を奪われていてもおかしくはなかった。


 ハワラのような平民が、トトの書の一件を知っている訳がない以上、ハワラを動かしているのはトトの書の一件を知っているほどにカエムワセトに近しい人物。もしくは、神の領域の存在と繋がっていると考えるべきである。

 アーデスは、トトの書の件を知る者たちの顔をざっと頭の中で並べた。その中にはうっかり口外するうつけ者も、カエムワセトを陥れようと企む政敵もいない。そうすると、人より厄介な存在がハワラの後ろについてるとみて間違いないだろう、と考えた。


「あっちの世界でも有名人になっちまったようだな。めんどくせえ」


 アーデスが言った途端、ライラの顔から血の気が引いた。オイルランプも持たず、部屋を飛び出そうとする。

 アーデスは「おいどこ行く気だ」とライラの片腕を引いて制した。


「殿下をお止めするのよ」


 腕をふり解こうとするライラに、よせ、とアーデスは言った。


「あいつが気付いてねえはずねえだろ」


 心理学を学び、時にラムセスをも従わせる心理術を使える者が、下手な間者程度の嘘を見破れないはずがない。

 ハワラのバックについている者が何を企んでいるかはまだ知れないが、ハワラが何が何でもカエムワセトをメンフィスに連れて行きたいらしいというのはアーデスにも良く分かった。


「それでも行くっつーんだから行くしかなかろうが」


 諭して最後に、アーデスは「だろ?」と声色優しく重ねた。

 ライラは口をきゅっと結んで頷いた。

 アーデスはライラに気合が入った事を確認すると、オイルランプを一つ手渡す。そして、


「よっしゃ、気ィひきしめて行くぜ!相棒」


 どん!と強めにライラの背中を叩くと、自分もランプを手にとり大股で部屋を出た。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 リラが中庭で嵐の来訪を告げたその日の夕刻、ハワラが現れた。

 明らかに罠を匂わせる虚言に乗ったが、本当にこれでよかったのかと、カエムワセトは旅支度を整えながら考えていた。


 13の頃から、彼の生活は旅だらけだった。今では考え事をしながらでも目的地までのルートと移動手段を思索し、必要な物品を揃えることができる。


 路銀が底を尽きかけていた事を思い出し、いつもよりも多めに補充する。今度はリラとハワラを含めた5人分が必要だった。しかも、今回はいつも以上に何が起こるか分らない。

 本当に、ハワラを馬で送り母親の葬儀を済ませ、帰って来るだけであればこれほど袋を重くする必要はない。だが、そう上手く事は運ばないだろうと、カエムワセトは予測していた。


 ハワラが体力を取り戻すまでには、2・3日かかるだろう。それまでにもう一度急ぎの用は無いか書簡を確認しておこうと、机に向かった。そこで、後方で扉が開く気配を感じる。


「よお息子」


 振り向くと、ラムセス二世が立っていた。腕を組んでいる彼は、その両手に何も持っていない。


「灯りもなしにいらしたのですか?」


 月明かりも満足に届かない真っ暗な廊下を、よく無事に歩いて来れたものだと呆れる息子に、ラムセスはせせら笑った。


「そんなもんに頼らずとも、暗闇などすぐ慣れるわ。軟弱者」


 己の超人ぶりを普通とみなし、常人を軟弱者呼ばわりする。これではアメンヘルケプシェフもさぞかし辛かろうと、カエムワセトは、日々多くの時間をラムセスと共に過ごす兄を思ってため息をついた。

 

 カエムワセトが訪問の理由を訊く前に、ラムセスは息子がまとめていた旅荷物を片手で持ち上げて揺らしてみせる。


「やっと帰って来たと思ったら今度はどこへ行く気だ?仕事ではなかろう」


 カエムワセトはラムセスの地獄耳ぶりに驚いた。さっそくどこで耳にしてきたのか。だが、すぐに考えを改める。もしかすると、ふと働いた直感に従って来たのかもしれない、と。ラムセスというのは、そういう男だった。


「メンフィスに。サッカラでは多忙ゆえあまり母上と弟に会えなかったので、改めてご機嫌を伺いに行こうかと」


「そりゃ殊勝なこった。イシスネフェルトによろしくな――って嘘つきやがれ未熟もんが」


 出立前の挨拶用に用意していた息子の嘘をあっさり見破ったラムセスは、寝台に旅荷物をぽい、と投げると、ゆっくりとカエムワセトに近づいた。

 窓から差し込む月明かりにラムセスの顔が照らされる。そこにあった表情は、そのふざけた声色と口調からは想像できないほど知性的で落ち着いていた。


「出陣前の兵士みたいな顔しやがって」


 そう言って、薄く笑う。


 カエムワセトはラムセスの嗅覚の良さに驚いた。この男が一体どこまで勘づいているのか確かめたくなったが、「なんのこっちゃ」とはぐらかされそうな気もして、やめておく。

 なにより、温もりすら感じた目の前の男のその声色は、普段彼が公で発するものではなかった。あえて言うならば、父親が息子に向けるものである。

 王と王子という特殊な関係と、あまり顔を合わせない生活環境のおかげで、カエムワセトがこの男の、本当の父親の部分に触れる機会は、めったにない。否。物心ついてからは初めてかもしれなかった。

 ラムセスは両手でカエムワセトの側頭部を包み込むと、ぐっと力を入れ、小さく揺すった。


「しっかりしろ。大将が怯えてどうすんだ」


 低く力強い声で、ラムセスが叱咤する。


 もしかして自分は夢を見ているのかと、カエムワセトは思った。こんなにも父親らしいこの男は見たことがない。しかし、ラムセスの乳香の香りと痛いくらいに頭を押さえて来る手の感覚に、これは現実なのだと確信した。同時に、この男の器の大きさも思い知った。

 目に見えない敵にさらされているのは、ラムセスも同じである。しかも、彼の場合はそれが常だった。そんな気の休まらない日々を過ごす中、彼に今のような叱咤激励を贈れる者はそう多くない。


「父上はやはり凄いお方ですね」


 息子が発した心からの讃辞に、ラムセスはにっと笑うと、息子の頭を解放した。

 続いて寝台に腰かけ、山のように書物が積まれた目の前の書棚をぼんやりと眺める。やげて彼は、「なあ、ワセトよ」と話しだした。


「俺には山ほど子供がいるし、遠慮なく戦場にも蹴りだして来た。これからも躊躇わずそうする。だから誤解しているヤツも多いが・・・。俺には死んで惜しくねえ子供は一人もおらん」


 おそらく、書棚を眺めながら口にしようかどうか迷っていたのだろう。それでも彼が自身の苦しい心情をさらけだしたその意味するところを慮れないほど、カエムワセトは愚かな息子ではなかった。


「存じております。わたしも死に行くつもりはございません」


 答えたカエムワセトに、ラムセスは「ならよし!」と元気に言って立ち上がった。そして、腰に刺してあった剣を鞘ごと外すと、とん、とカエムワセトの胸に当てる。


「貸してやる。持って行け」


 その剣は、ラムセスがカデシュの闘いで使用したものだった。刃がぼろぼろになったその剣はきちんと研ぎ直され、今でもラムセスの愛用品である。


 貸してやる、ということはつまり、必ず返せ、という意味でもある。それほどに、この男の嗅覚はやってきた嵐の深刻さを感じているのだろうか。

 少なからずの不安を覚えたカエムワセトだったが、これは逃げる事のできない戦である事を思い出し、黙って剣を受け取った。


「命を含め、五体満足で戻れ。それ以外は許さん」


 そう言ったラムセスの顔は既に、父親のものから、いつもの王者のものに戻りつつあった。カエムワセトはそれを少し名残惜しく思いながらも、「御意」と礼をした。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 用を終え息子の部屋を後にしたラムセスは、廊下で向こうから歩いてくる女官と痩せた子供の姿に気付き、目をやった。

 オイルランプのぼんやりとした灯りに照らされた二人の人間は、ラムセスを見つけると素早い動きで廊下の端に寄った。


 まず女官が頭を下げ、続けてランプを持っていない方の手で軽く子供の頭を押して、礼を促す。子供は促されるまま頭を下げた。

 ラムセスは口元に狂暴な笑みを作ると、よどみない足取りで二人の前まで歩みを進めた。立ち止まると、目だけで子供を見下ろし、フンと笑う。そしてその大きな手で子供の頭を掴むとぐしゃりと乱暴にひと撫でし、何も言わず去って行った。


 頭を撫でられた痩せた子供――ハワラは、ラムセスの掌から自分の正体を知られている事を悟り、冷や汗をかいて震えた。

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