第3話 建築好きのファラオ
「彼らは勘違いをしていたようだけど、ソリの前に水を撒くのは砂塵を抑える為じゃなくて、砂を固める為なんだ。重い物をソリで運搬する時に最もネックになるのは『摩擦』。中王国時代の壁画にも描かれているけれど、先人達は道の先に水を撒いて砂を固め摩擦を抑える事により、労力を半減させたんだよ」
労働現場での指導を終えて王宮へ帰る道すがら、カエムワセトは監視役や労働者達に指導した内容をアーデスに説明していた。
道中すれ違った何人かの市民が、カエムワセトとアーデスに気が付くと「お帰りなさいませ」と一カ月ぶりに都に帰って来た二人に笑顔を向けてきた。
古都であるテーベやメンフィスとは異なり、このぺル・ラムセスは王宮が街の中心部にあるため、当然のように王子や宰相や高級軍人が市民と同じ町の通りを利用している。そのため、王族の顔を知る市民も少なくないのである。
サッカラのピラミッド群補修作業から帰ったばかりのカエムワセトとアーデスは、久しぶりに顔を合わせる市民に簡単な挨拶を返しながら、馬の手綱を引いて二人のんびりと繁華街を進んだ。
大通りの両脇には所狭しと商店や飯屋が軒を連ね、更にその間を埋めるように旅の商人が果物や衣類、雑貨などの露店を開いて呼び込みをしている。砂の薄茶色と樹木の緑、そして街のトルコブルーをベーシックに、色とりどりの商品が並ぶその繁華街は、ぺル・ラムセスの中では最も賑やかで華やいだ場所だった。
砂と岩ばかりのピラミッド地帯で何日も作業をしていたカエムワセトとアーデスは、次々と視界に飛び込んでくる鮮やかな色彩の数々に視線を引っ張られながら繁華街を抜けてゆく。
「しかしなんだって勘違いして覚えてたんだかな。労働者は農民のかき集めだと言ってたが、監督役は建設のプロだろうに」
「今は運搬に車輪台を使う事が多いからね。そういった昔の知恵は、きちんと伝わっていなかったんじゃないかな」
監視役の話によると、いざ巨像を乗せようとしたところで車輪が破損してしまい、仕方なく昔に使っていたソリを引っ張り出してきたとのことだった。
なるほど、とアーデスは頷く。
「お前の懐古趣味が帰宅早々役に立ってよかったじゃねえか」
遺跡や神殿の修復業を半ば趣味でやっている
「千年近く前の遺跡を懐古と呼ぶにはちょっと古すぎると思うけど」
遺跡は懐古というよりは考古に値するのでは、とカエムワセトは二者の違いを指摘したが、ははたから見れば懐古だろうが考古だろうが、古い物好きには変わりなかった。
「よく似たもんだろ」
身も蓋も無い言葉を返され、自称考古趣味の王子は「はあ・・・」と曖昧に苦笑う。
「それにしても、農夫をかりだすのはよくないよ」
先程ファラオの座像を運んでいたのは土木作業員ではなくアルバイトとして雇った農夫だと監視役から聞かされていたカエムワセトは、表情を曇らせて言った。
「今は夏野菜の収穫期だ。ナイルの増水に備えて灌漑水路の調整もあるし。
「まあ確かに、一か月前には無かった建物や塔がじゃんじゃかあるわ。忙しい百姓引っ張り出してまでせにゃならん仕事でもねえだろうにな」
アーデスは神殿や
実際は湧いて出た訳がなく、ファラオであるラムセス二世が金と労働力を注ぎこんで完成させたものである。
エジプトの農業に農閑期は殆どない。エジプトの農業はナイル川の増水に頼った灌漑農業であるため、増水が始まると畑に水を入れる灌漑作業に入ららねばならないし、その間にもナツメヤシや葡萄などの収穫があるし、収穫物の加工もせねばならない。
エジプトの農民は暇なしである。パンとビールと少しの干し肉を日当にかりだす相手としては相応しくなかった。
しかし、ファラオの命令とあらば従わなければならないのが国民の辛い所である。
「あいつもお前と一緒で熱中すると度が過ぎるからな。多分、大臣や皇太子からの小言も耳に入ってねえんだろうよ」
かつてはファラオの右腕としてカデシュの戦い(ヒッタイトとの戦争)で傭兵部隊の隊長も務め上げたエジプトの豪傑は、戦友の度が過ぎた建築好きに対し今まさに頭を抱えているであろう高官達と皇太子を想像し、同情した。
そしてカデシュの戦いの後、仕え先をファラオからその息子の一人であるカエムワセトへと変えた彼は、交渉術に長けた主に苦言役を頼む。
「後で痛い目見る前に一言いってやった方がいいんじゃねえか?お前得意だろ?」
「あまり口出しはしたくないんだが・・・」
最古参の忠臣からの頼みに、カエムワセトは眉を寄せて少し迷う。しかしやがて、「分った」と頷いた。
「今回はちょっと気になる事もあるし、帰ったらすぐに父上に謁見を頼むことにするよ」
「先にひとっ風呂浴びてえとこだが、しゃあねえか」
アーデスは天を仰ぎ、残念そうに息を吐く。
船を使わず陸路で帰還した二人は、汗と砂埃でどろどろだった。入浴を楽しみに帰って来たのだが、ひとまずお楽しみはおあずけにして、やるべきことをやってしまおう、と頷き合う。
城門前に辿り着くと、馬を従えた赤い髪の女が門前の見張り兵と雑談していた。ライラである。
ライラは帰って来た主人と護衛仲間のアーデスを見つけると駆け寄り、男を無事に医者に託した事と、男の家族にも連絡用の使者を遣わせた旨を端的に報告した。
「ありがとう。助かったよ、ライラ」
カエムワセトは幼なじみでもある赤髪の忠臣を労うと、これからすぐにファラオに謁見を申し入れる、と伝えた。
ライラもカエムワセトとアーデス同様、汗と砂埃にまみれていた。しかし真面目で忠実な彼女はすぐに頷くと、「では馬を厩舎に預け次第、行ってまいります」と嫌な顔一つせずに、当然の如く自ら申し込み役を引き受けた。
「ライラちゃん、流石だねぇ」
にへらと笑ってフットワークの軽さを褒めて来た同僚に、ライラは肉食獣のような顔を向けると「アーデス。気持ち悪い!」と容赦なく言い放った。
ライラが親切丁寧に忠義を尽くす相手は、カエムワセトただ一人だった。
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