第2話 知恵者の神官王子
「しっかり引けー!どーんと押せー!」
ぎらぎらと肌を炙る太陽の下、白い腰巻と大きな首飾りをつけた監視役の掛け声に合わせて、幾人もの男達が巨大な獅子の石像を乗せたソリを前進させていた。
彼らが身につけているものといえば、掛け声をかけている監視役の男よりもずっと粗悪な糸で織られたフンドシに近い形の腰巻一つである。中には局部を覆う布切れ一枚すら身につけていない者もいた。
彼らは一人残らず、こんがりと日焼けしていた。ソリを引いている男たちだけではない。その国では、男も女も農夫も役人も、程度は違えど、すべからく陽に焼けた肌を持っている。それが、その国エジプトの特徴の一つだった。
乾き切った砂の上を裸足で踏ん張る彼らの全身から汗が吹き出し、
木製のソリに乗せた石像を押し、それにくくりつけたロープを引っ張り、砂にめり込んだ足跡を残しながら、彼ら建設労働者達は一心不乱に獅子の石像を目的地まで運んだ。エジプト最北の新都ぺル・ラムセスで新たに建造中である神殿の
暑く乾燥した空気と砂だらけの大地。そして、トルコブルーを基調として装飾された美しい街の中を、労働者達は監督役の掛け声に合わせて自分達も声を張り上げながら、巨像を少しでも前に進める事に全神経を集中させていた。
「「「そおーれ!」」」
大勢の掛け声とともに、労働者達の赤銅色の肌の下から食いしばった歯が覗く。
ソリはまた、砂に板を置いた様な線を残して少し前に進んだ。やがて勢い付いたソリは、そのまま続けてずるずると滑ってゆく。
その時、巨像を押していた一人の男が足を滑らせて倒れた。仲間の労働者達は石像を押す事に必死で、倒れた男に気付かない。
倒れた男は起き上がろうと身をよじったが、立ち上がる事はおろか上体を起こす事さえできなかった。
「なにやっとるんだ!」
掛け声をかけていた監視役が、倒れた男に走り寄った。
ややふっくらとした給水係の中年女性が、倒れた男に水を飲まそうとする。男の乾いた口元に水差しの口をつけて傾けたが、水は男の喉には通らず、地面にだばだばと零れた。
「ほらどうした!ちゃんと飲まんか!!」
監視役が男を叱りつけた。
その時、一人の人物が監視役に声をかける。
「すみません、ちょっと失礼します」
若者だった。
日除けの役割をする頭巾を被り、足首まで届く丈の長いチュニックの上に青いショールを斜めがけにした彼は、一見、その国の神官のようないでたちをしていた。
頭から顔の両側をすっぽりと覆う頭巾の下から、深い茶色の瞳と柔らかな輪郭を描く眦がちらりと見えた。
彼は倒れた男の前に跪き全体像をざっと把握すると、穏やかな口調で幾つか質問をする。
「左側に力が入りませんか?」
問いかけに、倒れた男は頷いた。彼の左腕と左足は、だらりと砂の上に垂れさがっていた。
「水を飲みたくても口から零れるんですね?」
今度は二度頷く。よく見るとその面相は、右側に引き寄せられるように歪んでいた。頷き方も、どこかぎこちない。
若者は男の両腕の表面を撫でるように触れた。
「触られた感覚は左右同じですか?」
「ひらりが、ほおい(左が遠い)」
男は呂律の回らない答えを返した。
「頭痛は?」
今度は首を横に振った。
「ちょいと神官さん?何やってるのかね?」
給水係の女は神官と思わしき若者と男のやり取りを不思議そうに眺めて言った。
「―― ライラ!」
女の質問には答えず、若者は後ろを振り返ると誰かの名を呼んだ。その呼びかけに、潤沢な赤毛を揺らして若い女が走って来た。
監視役の男の目が、その若い女の短いチュニックから延びた美しい
「いい・・・」
と呆けたように呟く。
「ライラ。この人を『生命の家』(神殿付属の医師養成センター)へ連れて行ってくれ。医者に診せないと」
ライラと呼ばれたその赤毛の女は、若者からの指示に「承知しました」と丁寧な言葉遣いで応じた。次に後方に上体を捻り「アーデス!私の馬連れてきて!」と声を大きく、また別の誰かを呼ばう。
「お前らな。自分の馬は自分で管理しろよ」
ライラの呼びかけに応えて、二十代は終えているであろうと思われる男が馬を三頭引き連れてやってきた。
今度は給水係の女の目がその男の鍛え上げられた肉体に釘づけになる。皮の甲冑と当て布の下から覗く厚い胸板、割れた腹筋、力強い腕を、女は順番にうっとりと眺めていった。しかし、アジア系民族の特徴を継いだやや渋めの髭面を見た所で「髭は好みじゃないネ」とそっぽを向く。
ついでに言うと、ドレッドヘアに似た編み込みもその女の守備範囲からは外れていた。髭も無駄に長い髪も、エジプトでは不衛生であるとして敬遠されがちである。
「なんか言ったか?おばさん」
馬を連れて来た男が細かい皺が刻まれ始めた眼元をしかめて、自分の顔を見た途端、瞳の輝きを消した失礼な中年女性を見た。
中年女性は守備範囲外の男からの問いかけに、その丸い顔から表情を消すと、聞こえないふりを決め込む。
「ちょっとアーデス!」
ライラが語気荒く男を呼んだ。
「いいから、馬を抑えててよ。私と殿下でこの人上に上げるから!」
ライラが吊り目がちの目尻を更に上げて、アーデスに注意を促した。
アーデスは渋々応じる。
若者同士でタイミングを合わせ、両脇と脚から倒れた男を抱え上げた二人は、アーデスが暴れないよう支える馬の背中に倒れた男を腹ばいに乗せた。
ライラはその場で馬の背中とタテガミ部分を掴んで軽くジャンプすると、慣れた動作で男の後ろに飛び乗った。
監視役の目が、馬に跨った途端更に顕わになったライラの若々しい腿に再び注目する。
「では、行ってまいります。城門前で落ち合いましょう」
ライラは馬上から神官の若者の方に一礼すると、前で腹ばいになっている男の背中に片手を添えて落下を防ぎながら、もう片方の手で手綱を握り、颯爽と馬で駆けて行った。
「おいあんた、一体なんだって急に――」
労働者を勝手に病院に連れて行かせた若者に監視役は文句を言いかけた。しかし、若者がその頭巾を取って全貌をさらした時、「あっ!」と目と口を大きく開ける。
短く切られた柔らかい黒髪の下に、学者と聖職者を合わせた様な面ざしがあった。聖人君子とまではいかないが、知識と教養と穏やかさが揃ったその佇まいは、彼の持ち味と言っていい。
建設現場で彼の姿を幾度となく見ている監視役は、「これはこれは!お帰りなさいませ!」と慌ててお辞儀した。
「勝手にすみませんでした。あのまま放っておくと命にかかわるらしいので」
頭巾を取った若者は、丁寧に監視役に謝罪と説明をすると「お久しぶりです」と顔見知りの監視役に頭を下げた。
神官のような若者が頭巾をとるなり腰を低くした監視役を、給水役の女は不審者でも見るように眺めた。
続けて
「そんであんたは医者なのかい?」
と診察まがいの事をした若者に訊ねる。
「コラおばさん!」
すかさず監視役が給水係の女のたっぷりとした
「カエムワセト殿下だよ!」
と、ファラオの息子の顔をよく知らない女に、若者の身元を教える。
女は前腕を叩かれた瞬間、嫌な顔をしたが、若者の身分を知るやいなや「へぇ!」とその丸々とした目を興味深げに更に大きく見開いた。
「あらま!それじゃああんたが、遺跡好きの神官王子かい」
弾む様な調子で、巷で流れている王子の噂をそっくりそのまま口に出す。
相手が王子だと分っても彼女のざっくばらんな態度は変わらなかった。
王族に対する無礼な態度をやめさせようと再び腕を叩いてくる監視役の男の手を、給水係の女は蠅を遠ざける様な仕草で払いのけた。そして肝っ玉の太い彼女は、大神殿の神官を務めると同時に、古代建造物の知識の他にも多種多様な学識を得ている王子を明るい笑顔で褒めそやす。
「物知りってのは本当だったんだね。医者のまねごとができるなんて凄いじゃないか!」
「書物の知識を思い出しただけですよ。真似ごとにすらなっていません」
カエムワセトは監視役の心配とは裏腹に、女の無礼を咎めるどころか賛辞に対し謙遜した。
噂通り、第四王子が不敬に寛大な人物である事を知った監視役は、ほっと胸をなで下ろす。
カエムワセトの従者の一人であると思われるアーデスと呼ばれた男も、主人がその辺の若者と同じような扱いを受けている事に対し、特に何も言及するつもりはないようである。
そう言えばこの男もさっき、王子に対し家臣らしからぬ砕けた態度で接していたな。と監視役は馬を引いてきた時のアーデスの物言いを思い出していた。
見た所アーデスは傭兵のようだが、二人のやり取りから察するにカエムワセトとは親しい仲であるらしい。
それとも水やりのオバハンと同類で、ただ無遠慮なだけなのだろうか。
そういえば、アーデスという名前には聞き覚えがある気がする。どこで聞いたんだったか・・・。
色々と考えを巡らせていると、カエムワセトが「監視役殿」と声をかけて来た。
ああ、はい!
思考が第四王子からアジア系の傭兵の方へ移りかけていた監視役は慌てて意識を戻し、返事を返す。
カエムワセトは柔和な笑顔を向けると、監視役の後ろを人差し指で示した。
「医学では力になれませんが。でもあれに関しては、私も少しはお役に立てると思いますよ」
カエムワセトが示した先には、獅子の巨像の重さに音を上げ始めている建設労働者達の姿があった。
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